第34話 1秒の喪失
第34話「1秒の喪失」をお読みいただきありがとうございます。
ここまで物語を追っていただいた方にはわかる通り、本作は“戦い”そのものだけでなく、その後に残るもの――喪失や選択、そして次にどう動くのかを大切にしています。
今回は、未来が連れ去られた直後の回となります。
大きな展開が起きた後だからこそ、あえて一度立ち止まり、それぞれが現実を受け止める時間を描いています。
ただし、ここは単なる停滞ではありません。
静かな中で、確実に次へ進むための準備が始まっています。
この先、物語は新たな段階へと入っていきます。
その入り口となる回として、楽しんでいただければ嬉しいです。
風が、森の奥で揺れている。
枝が擦れる音。葉が触れ合う音。
本来なら、どこにでもあるはずの自然の音。
それが、やけに遠かった。
耳に届いているはずなのに、現実感が薄い。
代わりに――
ずる……ずる……と。
湿った音だけが、やけに鮮明に響いていた。
地面を擦る音。
重いものを引きずる音。
ひかりは、無意識に息を止めていた。
理由はわからない。
けれど、目を逸らしてはいけない気がした。
「……なに、あれ……」
かすれた声が漏れる。
ハヤトが一歩前へ出る。
ガイが無言で構え、ゆいがわずかに目を細める。
黒崎だけが動かない。
ただ、そこを見ている。
木々の隙間で、影が揺れる。
赤黒いものが、ゆっくりと現れた。
人影だった。
だが
それを引きずっている“何か”の輪郭が、どうしても掴めない。
見えている。
確かにそこに存在している。
それなのに、焦点が合わない。
視線を合わせた瞬間、像が崩れる。
次の瞬間には、何を見ていたのか曖昧になる。
認識が、追いつかない。
異様だった。
そして。
ずる、と。
それが完全に視界へ出る。
「……先生……?」
ひかりの声は、自分でも驚くほど小さかった。
血に濡れた服。
力なく垂れた腕。
地面に擦れる頬。
それは間違いなく――ひかりたちの担任の蒼の姿だった。
けれど。
その身体を引いていた“何か”は、もういない。
音もなく。
気配もなく。
最初から存在していなかったかのように。
そこに残ったのは、蒼の身体だけだった。
ずる、という音も止まる。
森は、再び静寂に包まれる。
「……おい」
ハヤトの声が低く落ちる。
「嘘だろ……」
ガイが舌打ちする。
黒崎が、ゆっくりと歩き出した。
足音がやけに重く響く。
蒼のもとへ辿り着く。
しゃがみ込む。
手を伸ばす。
首元に触れる。
数秒。
沈黙。
その場にいる全員が、息を潜める。
ひかりは動けなかった。
足が、前に出ない。
見なきゃいけないのに。
見たくない。
その両方が、身体を縛りつけていた。
――わずかに。
黒崎の指先が止まる。
ほんの一瞬。
だが、それ以上は続かない。
手を離し、立ち上がる。
「……死んでいる」
短い言葉だった。
それだけで、すべてが決定された。
ひかりの視界が揺れる。
音が遠くなる。
「……そんな……」
言葉にならない。
ハヤトが拳を握りしめる。
「ふざけんなよ……!」
吐き出すように言う。
ガイが目を伏せる。
「……マジかよ」
ゆいは何も言わない。
ただ、蒼を見ていた。
ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
だが、すぐに逸らした。
それ以上は何も言わない。
森の空気が、重く沈む。
誰も動かない。
時間だけが、やけに遅く流れている。
その時だった。
空気が、変わる。
ひやり、とした冷たい感覚。
目に見えない膜が、周囲を覆う。
ガイが反応する。
「……来るぞ」
だが。
黒崎が手で制した。
「……違う」
低い声。
「敵じゃない」
次の瞬間。
空間が、静かに歪んだ。
景色が水面のように揺れる。
その中心から、一人の女性が現れる。
長い髪。
整った姿勢。
無駄のない動き。
そして、静かな存在感。
その場の空気が、一瞬で引き締まる。
女性は周囲を見渡す。
戦闘の痕跡。
蒼の身体。
倒れたレオン。
そして、ひかりたち。
数秒で、すべてを把握する。
「そこで止まってください」
穏やかな声だった。
けれど、逆らえない。
「アフェクト管理局です」
ハヤトが息を呑む。
「……管理局……?」
ひかりも女性を見る。
知らない顔。
だが、わかる。
この人は、“外部の人間”だ。
女性――神城ミサキは、小さく頷く。
「分断されていた生徒たちは、こちらで保護しています」
静かに言う。
「みなさん、命に別状はありません」
その一言で、張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
ひかりの肩から力が抜ける。
「……よかった……」
小さく息を吐く。
だが。
それで終わりではない。
ミサキの視線が、蒼へ向く。
ゆっくりと近づく。
しゃがみ込む。
傷を確認する。
血の状態を見る。
数秒。
静かに観察する。
指先が、ほんのわずかに止まる。
だが。
それ以上は何も言わない。
「全員ではなかったようですね」
静かに告げる。
それ以上は踏み込まない。
立ち上がる。
黒崎へ視線を向ける。
「状況を教えてもらえますか」
黒崎が答える。
「天城未来が、連れ去られた」
ミサキの目が細くなる。
「誰に、ですか」
「幹部クラスの連中だ」
レオンが、かすれた声で言う。
「……これは回収作戦だった」
空気が変わる。
「俺たちは……ただの追い込み役だ」
ミサキが頷く。
「……学園の件といい、段階的ですね」
黒崎が続ける。
「観測、追い込み、そして回収」
ミサキは一度、目を閉じる。
そして。
「……状況は、想定していたよりかなり厳しいですね」
静かに言う。
声は穏やかだ。
だが、内容は重い。
「これは単独の事件ではありません」
「明確な意図を持った回収です」
ひかりの胸が締め付けられる。
未来は、狙われていた。
最初から。
それでも。
ひかりは顔を上げる。
「……まだ、終わってません」
ミサキが視線を向ける。
「どうして、そう思いますか」
ひかりは少しだけ言葉を探す。
そして。
「……未来くんは、きっと抗い続けてる」
静かに言う。
「だから……まだ、続いてます」
ミサキは数秒、ひかりを見る。
そして、小さく頷く。
「……そういう見方もできますね」
穏やかに言う。
肯定でも否定でもない。
だが、切り捨ててもいない。
ミサキは一歩前へ出る。
「この件は、アフェクト管理局が対応します」
静かに言う。
「天城未来くんの救出を最優先とします」
空気が変わる。
はっきりと。
「学園側にも協力を要請します」
黒崎を見る。
「管理局が統括するアフェクターおよび学園の序列上位から選抜し、救出部隊を編成します」
「黒崎くん、あなたにも参加をしてもらいます。」
黒崎は即答する。
「……わかった」
迷いはない。
当然のように受ける。
ひかりが一歩前へ出る。
「私たちも行きます」
ハヤトも続く。
「当然だろ」
だが。
ミサキは静かに首を横に振る。
「今回は難しいです」
優しく。
しかし、はっきりと。
「これは戦力で決まる任務であり、生死にもかかわります。」
「現時点でのあなたたちでは届きません」
言葉は静かだった。
だが、重かった。
ひかりは言葉を失う。
否定できない。
守れなかった。
それが、現実だった。
ミサキが続ける。
「ただし」
一瞬、間を置く。
「無意味ではありません」
ひかりが顔を上げる。
「あなたたちの情報は、この作戦に必要です」
それだけで。
ほんの少しだけ、救われる。
黒崎が森の奥を見る。
「……必ず取り戻す」
短く言う。
その言葉に、迷いはなかった。
ひかりは拳を握る。
未来はいない。
奪われた。
でも。
まだ終わっていない。
ここからだ。
次回
第35話 1秒の作戦
第34話、読んでいただきありがとうございます。
今回は「喪失」と「動き出す直前の静けさ」を描いた回となります。
未来は奪われました。
そして、それに対して誰が動くのかが決まりました。
ここから、物語は救出編へと進んでいきます。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




