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アフェクト・ブレイカー ―感情が力になる世界で、たった一秒の能力を持つ少年の物語―  作者: paguzon
課外授業編

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第29話 1秒の深淵

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第29話は、黒崎怜の戦いの“答え”を描いた回です。


恐怖は消えない。

ならどうするか。


その問いに対して、黒崎が選んだ方法は――


とても彼らしいものになっています。


今回は細かい説明よりも、“どう決着をつけるか”に集中した構成です。


ぜひ、その一瞬のために積み上げてきたものを感じてもらえたら嬉しいです。

 音が、沈んでいる。


 風も、砂も、どこか遠い。

 それだけじゃない。輪郭そのものが削られていた。空気に厚みがある。耳に届くはずのものが、一度黒の底へ落ちてから、形を失ったまま浮かび上がってくるみたいだった。


 黒い。


 そう認識した瞬間、ゼノンは自分の視界から“奥行き”という概念が抜け落ちていることに気づいた。前方がどこまで続いているのか分からない。上下の感覚すら曖昧で、足元にある感触だけが、自分をどうにか立たせている。


 だが、その足元でさえ、本当に“地面”なのかは怪しかった。


 踏んでいる。重みも返ってくる。靴底に何かがある。

 だが、それが地面だと断言できるだけの手応えがない。


 静止のゼノンは、その中に立っていた。


 右肩から血が流れている。肩先を裂いた影の刃は浅く見えて、思った以上に深い。脇腹にも熱が残っていた。太ももの外側に走った線傷も、動くたびにじくじくとうるさい。


 呼吸は浅い。

 肺に入る空気がやけに重い。


 それでも、思考だけは鈍っていない。


「……どこだ」


 低く落とした声は、空間に触れる前に吸い込まれて消えた。


 返答はない。


 当然だ。


 この空間に、“相手”はいない。

 いるのは影だけ――いや、違う。


 この空間そのものが、影だ。


 黒崎怜という個体は、もうどこにもいない。


 その理解だけが、静かに沈んでいく。


 ゼノンは、ゆっくりと一歩踏み出した。


 距離は、自分で測るしかない。

 呼吸。重心。足裏。沈む音。そういう細かい手がかりだけで、この異様な暗がりの中を切り分ける。


 その瞬間。


 足元から、影が“立ち上がる”。


 膝の高さ。

 刃の形。

 音はない。


 だが、見えている。

 来ると分かっている。


 だから――


 ゼノンは迷わず指を落とした。


 触れる。

 止まる。


 影が、その場で固まる。


 硬さではない。勢いでもない。

 ただ、“進むという結果”だけが切り落とされる。


 だが。


 その“止めた一瞬”――ほんのわずかな隙間に、空間が歪んだ。


 背後。


 肩の高さ。


 水平に走る刃。


 ゼノンは半歩だけ位置をずらす。

 完全には避けない。あえて受ける。


 皮膚が裂ける。

 血が飛ぶ。


 だが、構わない。


(重要なのは――発生点)


 どこから生まれたか。

 その一点だけを、拾う。


「……そこか」


 小さく呟き、記憶に刻む。


 次の瞬間、別の位置から刃が来る。


 今度は低い。

 足首を狙う軌道。


 ゼノンは跳ばない。跳べば、着地先が読めない。


 だから、止める。


 指先で触れる。

 固定。


 その直後――


 頭上。


 縦に落ちる影。


「……ちっ」


 腕で受ける。


 浅い。だが確実に削られる。


 ゼノンは一歩だけ後ろへ下がる。

 呼吸が、わずかに乱れる。


 それでも思考は冷えていた。


(位置は固定じゃない)


(だが、偏りはある)


 完全な無作為ではない。


 影は“選ばれている”。


 つまり、そこに意志がある。


 なら、読める。


 ゼノンは、あえて踏み込んだ。

 自ら、刃が来る位置へ。誘うように。


 予想通り、影が立つ。


 正面。

 胸の高さ。


 ゼノンは止める。


 同時に――ナイフを振る。


 斜め。

 空間ごと裂く軌道。


 刃の線が、残る。


 見えない傷。

 黒い空間にだけ浮かび上がる、冷たい硬直の線。


 その線に、何かが触れた。


 わずかに。

 本当に、わずかに。

 だが確実に。


 ゼノンの目が細まる。


「……いたな」


 確信が、そこにあった。


 だが、その瞬間。


 空間が変わる。


 影の密度が、一段沈む。


 圧が増す。

 刃の数が増える。


 今までは“来ていた”。


 今は――


 “降ってくる”。


 上から。

 横から。

 足元から。


 同時に。


 ゼノンは止める。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 だが足りない。


 数が多すぎる。


 肩が裂ける。

 脇腹に線が入る。

 太ももにも浅い傷。


 血が増える。

 呼吸が、崩れる。


 それでも。


 ゼノンは前へ出る。

 あえて。

 最も密度の高い方向へ。


(そこにある)


 影の偏り。

 発生の重心。

 そこに、黒崎の意志が集中している。


 黒崎は、この空間そのものに溶けている。だが完全に均一ではない。わずかに濃い場所、わずかに深い場所、わずかに“選ばれている”場所がある。


 そこだ。


 ゼノンのナイフが動く。


 横へ払う。

 空間を裂く。


 その軌道に、引っかかる。


 止まる。

 一瞬。

 本当に一瞬。


 だが――そこに“いる”。


 ゼノンは踏み込む。


 影が来る。

 止める。

 さらに来る。

 受ける。

 血が増える。


 それでも進む。


 距離が、消える。


「……捕まえた」


 一拍。


 確信だけが残る。


 ナイフが走る。


 刺すためではない。

 そこにある“存在”を固定するため。


 軌道が残る。


 その中に――黒崎の気配が引っかかる。


 一瞬だけ。

 だが逃さない。


 ゼノンは踏み込む。


 触れる。

 止める。

 完全固定。


「終わりだ」


 ナイフが、黒崎の気配のするほうへ伸びていく。


 距離はない。

 避けられない。

 止められない。


 ゼノンはそう確信した。


 黒崎の気配は今、この軌道の中に捕まっている。そこに触れ、固定し、そのまま刃を通す。最短。最小。これ以上ない手順だ。


 だが、その確信の内側に――言いようのない違和感が差し込んだ。


 深すぎる。


 この空間は、まだ底を見せていない。


 その感覚が、刃の先端にまとわりつく。


(……まだ、何かある)


 そう思った瞬間。


 影が沈んだ。


 違う。


 ゼノンの足元が、消えた。


 支えが抜ける。

 身体が落ちる。


「……なに?」


 理解が、一瞬遅れる。


 ほんのわずか。

 だが、その遅れが致命的だった。


 ナイフの軌道がズレる。

 触れる前に、距離が狂う。


 影が腕に絡む。

 引き下げる。

 さらに沈む。


 膝。

 腰。


 動けない。


「待て……これは――」


 初めて、声が崩れた。


 それでもゼノンは諦めない。左手を落とす。触れる。止める。落ちる空間を、固定しようとする。だが手応えがない。触れたはずの位置が、すでに一段下へ沈んでいる。


 ずるり、と。


 空間そのものが落ちる。


 足場ではない。

 概念としての“下”が、さらに深くなる。


 逃げ場がない。


 そこでゼノンは、ようやく理解した。


 今まで自分が止めていたのは、影の刃でも、黒の壁でもない。

 表層だ。


 アビス・ドミネーションの“浅い場所”だけを相手にしていた。


 その下には、まだ底のない深さがある。


 もっと深い闇が、ずっと口を開けたまま待っていた。


 その時。


 背後に、確信が生まれる。


 気配ではない。

 “そこにいる”という理解。


 ゼノンが振り返る。


 黒崎がいた。


 初めて。

 この空間の中で、姿を持つ。


 無表情。

 揺れない視線。

 距離は、ゼロ。


 逃げ場はない。


 ゼノンの目が、わずかに見開かれる。


 理解が追いつく。

 遅い。


 黒崎が、静かに言う。


「……もういい」


 ゼノンの口が開く。


 何かを返そうとした。

 認める言葉か。

 次の策か。

 あるいは、最後の負け惜しみか。


 だが、そのどれも黒崎には必要なかった。


 ここまで来れば、もう言葉は邪魔だ。


 黒崎が踏み込む。


「だまれ」


 影が閉じる。


 圧が落ちる。

 空間が沈む。

 音が、消える。


 ズン――


 重い静寂。


 それが、終わりだった。



 黒が、ほどけていく。


 いきなり消えるのではない。濃度を失いながら、空間に馴染んでいた闇が少しずつ輪郭を手放していく。重く沈んでいた風が、もとの軽さを取り戻す。遠くで鳴いていた鳥の声が、ようやく耳に届く。


 光が戻る。

 音が戻る。

 風が戻る。


 黒崎は、その場に立っていた。


 呼吸は荒い。

 身体は重い。

 足元の感覚が少し遅れている。


 だが、倒れない。


 胸の奥で、鼓動が鳴る。


 恐怖は、消えていない。


 黒崎はそれを知っていた。今も、ほんの少し手を緩めれば、喉元に刃が届く映像が頭の奥に浮かぶ。自分が沈む未来も、まだ完全には消えていない。


 だが、それでいい。


 それごと使う。


 それが今の自分の戦い方だと、もう分かっている。


 黒崎は静かに息を吐く。


 吐き切ったところで、ようやく肩の傷の痛みがまともに戻ってきた。首筋に走った浅い裂傷も、遅れてひりつく。脇腹は鈍く重い。


 それでも、膝はつかなかった。


 足元に、ダガーナイフが落ちている。


 ゼノンが最後まで握りきれなかった一本。


 黒崎はそれを見下ろし、短く息を漏らした。


「……厄介だったな」


 勝った実感は、薄い。


 あるのは、倒れなかったという事実だけだ。


 その時だった。


 遠くで、爆音。


 ドォンッ――!!


 空気が震える。


 黒崎の目が、すっと細まる。


 あの音。


 知っている。


 荒い。

 未熟。

 だが、妙に引っかかる。


 未来の一秒だ。


「……あいつか」


 低く呟く。


 同時に、胸の奥の冷たいものが、今度は別の形でざわつく。


 未来の相手が、まだ片づいていない。

 しかも、ただの雑魚じゃない。


 あの音には、押し切れていない重さがあった。


 黒崎は一歩踏み出す。


 脚が重い。


 影の深さを引き上げすぎた反動が、まだ全身に残っている。けれど、止まる理由にはならない。


 まだ行ける。


 なら行く。


 黒崎は、影を踏んで歩き出した。



 拳が当たる。


 確実に入っている。

 手応えもある。


 なのに。


 ボフッ――


 鈍い音。


 未来の拳が、弾かれる。


「……なんだよ、それ」


 目の前の男の皮膚が揺れる。


 透明な膜。


 水面みたいに、波打って消える。


 未来は歯を食いしばる。


 当たっている。

 でも、通っていない。


 手応えだけが残って、肝心の衝撃が消えている。


 男は何も言わない。


 ただ、近づいてくる。


 一歩。

 また一歩。


 変わらない速度。

 変わらない圧。


 それが、怖い。


 焦っている様子もない。追い詰める言葉もない。ただ確実に距離を削ってくる、その無機質さが、余計に嫌だった。


 未来は拳を握る。


 まだ終わっていない。


 ここからだ。



次回

第30話 1秒の防壁

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第28話で黒崎は“恐怖”という感情に触れました。

そして今回の第29話は、その先――


「その感情をどう扱うのか」


に焦点を当てた回になります。


恐怖は、消えるものではありません。

押し込めても、切り捨てても、必ずどこかに残る。


では、それを抱えたまま戦うとしたらどうなるのか。


今回の戦闘は、黒崎がその答えを“行動”で示す決着回です。


そして同時に、物語は次の局面へと移っていきます。


ぜひ最後まで、黒崎の“終わらせ方”を見届けていただければと思います。

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