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38呪い

 カーズドワールドは終焉を迎える。

 レンがゲームクリアを果たしたゆえの終末だった。


 最後の最後で、亜貴の真意を知り。その兆候は以前から有ったものだけれど、けれどやはり驚きは大きく。

 呆然と。流れに流されるままに、ゲームはクリアされていた。


 何も無くなった伽藍堂のレンの心中に、ぽつりと赤黒い呪われた灯火が生まれた。

 種火はもとからあった。主催者、GMたちへの憎しみ。恨み。そんな復讐心。けれど、燃料を投下したのは、紛れもなく亜貴の行動だった。

 人身御供として、散っていった魔王。

 もちろん、デスゲームに巻き込まれた人々を皆救おうなどという聖人君子だったとは、口が裂けても言えない。けれども、彼女を生贄に捧げて、レンが生き残ってしまったのは紛れもない事実であり、彼女がこの結果を望んで行動していたであろうことも、ほぼ確定した真実だった。


 彼女を殺さなければ、生き残れないし、巻き込まれたプレイヤーを誰も救えはしない。こんな呪わしいシステムを構築したのは一体誰なのか。

 胸の炎は黒く、けれど静かに燃え盛る。


 消えて行く世界、薄れていく世界で、ついにレンは待ち望んでいたものと相対する。

 気合を入れて、一言一句も見逃しはしないと。記憶容量の全てを使ってでも脳に刻みつけて、一生忘れてやるものか、と。


 エンディングを迎えた世界に流れるスタッフロール。

 流れる名称をレンは、脳内のブラックリストに書き込んでいく。特に重要人物だと思わしき名前は念入りに。数分間の対峙の時間は、短いようで長くも感じる。

 そうしてあらゆる名前をレンが暗記したと確信したころに、エンディングは終わった。


 漂白されていく世界は、残酷に優しくレンの体を抱きとめた。意識の消える刹那、成人男性の高笑いが聞こえた気がした。一体何事か確かめる前に、幻聴のように笑いは消えていく。







 夢は夢のままであれば良かったのに、とレンは思った。


 ――仮想世界のシステムは人間の脳構造を解析しつくし、夢という意識無意識の狭間の世界をコーディネートする技術だった。いわば、ダイブした者の脳の中で行われる人形劇。そのままであれば、個人に完結したなんてことのないテクノロジーだったのだが、WWWとダイブテクノロジーが合わさった時、劇的な化学反応が起こったのだ。

 世界中の人間の意識は繋ぎ合わされ、現実世界の制御を離れた人工世界が構築された。

 ――その意味を正しく理解していた人間は多くはなかった。急速な変化に危機感を覚える旧時代の人は多かったものの、彼らは彼らで、新技術に対しやたらと反対を唱えるばかりで、その真実を見ようとはしなかった。

 始まりは、たった一人の人間が紡ぐ小さな砂場の楼閣。けれど、二人が加わり、三人が加われば、そこはただの砂場ではなく、摩天楼の乱立するビル群へと変貌を遂げる。

 仮想世界も同じだった。仮想だ、夢想だと、一人の脳内で完結しているうちは良かった。けれどカーズドワールドは、仮想世界技術の正統進化とでも言うべきシロモノだった。

 仮想世界といっても、元々はそれは従来のWWWの通信機能に、視覚聴覚以外にも、触覚嗅覚をダイレクトに反映させた現実の延長でしか無かった。だから誰もその成果を喜ぶばかりで、本質に気付くことはなかった。

 カーズドワールドは、そういう意味では呪われた忌み子だった。魂などというお伽話にも似た古代の迷信と、さらなる革新を求めるダイブ技術との交わりで産み落とされた奇形児。

 古き人々の妄念と、それに呼応した少数人の狂気がカーズドワールドを作り上げたのだ。


 夢は夢のままで。


 レンが目覚めたのは、当然のように病院のベッドの上だった。意識不明状態だったレンが突然にして目覚めたことで、担当医や家族は大騒ぎになった。レンの目覚めと時を同じくして、各地で入院するカーズドワールド事件の患者たちが意識を回復し始める。

 それが、レンにとって都合のいい隠れ蓑になってくれた。事件の生き残りが自分だけ、などという事態になれば、マスメディアや、医療関係者や警察の追求から逃れることは不可能だったであろうから。

 計14名。この人数が少ないのか、多いのか。

 事件に巻き込まれた被害者100人のうちの……と、思えば少なすぎるが、レンが救い上げることの出来た人命だと思えば多すぎるくらいだ。

 レンが本当に救いたかった人はたった一人だったのだから、実に14倍にもなる。


 入院中、衰えた身体機能のリハビリに努めつつ、歩けるだけの体力を回復したレンは、復学前に学校を訪れることにした。


 久しぶりに見る校舎は、灰色にくすんで見えた。今の時間は授業中なので、広いグラウンドには人っ子一人居ない。無人の世界。サラサラと頬を撫でる風だけが、ここが夢の世界ではないことを主張しているようだった。

 少し歩いただけで疲れを感じたレンは、休憩しようと中庭まで足を伸ばした。二人がけのベンチが複数設置されている庭園があるのだ。

 予想通り、レンが見るときはいつも人通りの絶えない賑やかな庭には、誰も居なかった。いつも専有されていて、座ったこともないベンチに腰を降ろす。

 瞳を閉じて、深く座り込む。

 風のざわめきに紛れ、教師の一本調子の声が微かに届いてくる。まさしく日常であり、これから還るべき場所だった。

 けれど、胸に去来するのは懐かしさではなく、虚しさだけだった。


 レンが意識を回復して、真っ先に尋ねたこと。亜貴は無事なのかどうか。レンの担当医師は困ったように、個人情報だの、プライバシーだの言葉を濁すばかりで、要領を得ない。この病院に彼女も入院してている可能性は高かった。カーズドワールドに取り込まれた患者が全国各地に点在しているとしても、レンと亜貴は同地区の病院に搬送されていてもなんら不自然はない。

 起きあがれるようになってから、すぐにレンは亜貴の病室を探し求めた。けれど待っていたのはただの絶望だった。意識不明になってから途中までは息のあったらしい彼女の体は既に冷たくなり、霊安室に移されていた。

 仮想世界での別れと合わせて、二度目の喪失。予想していなかったわけではないが、それなりに堪えるものがあった。


 思索に耽っていると、授業終了のチャイムが響く。ざわめきが大きくなり、大勢の人が動き出す気配があった。この庭園にも当然のように人がやってくる。時間的には昼休みだろうから、昼食を摂りにくる生徒も多いだろう。

 レンは私服だった。悪いことをしているわけでもないのに、気恥ずかしさを覚え、思わず身を隠す。

 先ほどまでは、僅かとはいえ懐かしさを感じた場所が、突然落ち着かない場所へと変貌する。


 レンが隠れた直後に、庭園は生徒で満ち始めた。各員思い思いの席で、グループごとに集まり歓談に花を咲かす。

 レンの隠れている場所の近くのベンチにやってきたのは、三人の女生徒だった。偶然にして彼らはレンのクラスメイトでもあった。


「あー、ダルいー。昨日みたいに臨時集会またやってくれればいいのに」


「でも、うちのクラスから二人でしょ?正直笑えないというか……」


 カーズドワールドで鍛えられたレンの隠身は、リラックスした状態の一般人に気づかれる筈もなく、期せずして盗み聞きのような形になってしまう。罪悪感を覚え、レンがこっそり立ち去ろうとした時に、聞き逃せない言葉が聞こえる。


「ってか集会の時の馬鹿城、鬼笑えたんですけど」


 高城。亜貴の舎弟連中の一人にそんな生徒が居た気がする。不名誉極まりない渾名は、亜貴の庇護下に入った時から、消えていたはずだったのに。彼女がいなくなったせいで、派閥の力が消えかかっているのだろうか。


「あれは受けるよねー。涙と鼻水で元々汚い顔が更に不細工になってたしねー」


「そうそう。『僕のせいだー』って、アホかと。あの娘が買わせたんだから、自業自得じゃん」


「ねー!」


「あんまり死んだ人のことを悪く言わないほうがいいと思うけど……」


「……いや、空気読めよ」


「ご、ごめん……」


 彼女たちの心無い中傷など、どうでも良かった。レンの心を捕らえて離さないのは、たったひとつの単語だった。


 ”買わせた”


「なんか、総動員させて全員に買わせてたらしいよ。なんとかってゲーム」


「どんだけ欲しいんだよ、って話だよね~」


「あの娘もゲームとかやるんだね。こっそり裏でやってたのかな?暴露されててマジ受けるわ~。私もちゃんと隠したいことはうまく隠しておかないと」


「えーなにー?何隠してんのー?」


「言うわけ無いじゃん、ばーか」


 現実から意識が剥離していくように、聞こえる声は徐々に小さくなっていく。亜貴という大きな力が突然消滅すれば、息を潜めていた潜在的な敵対者たちが蠢動を始めるのは予想できたこと。だから、今驚きに打たれているのは、彼女が陰口を叩かれていることではなかった。

 ――そもそもの。そもそもの事の起こりは、レンがあのカーズドワールドオンラインをプレイしてみたいと、思った時だ。抽選100人という余りにも狭き門。それを潜り抜けるために、レンは唯一の友人に助力を頼んだ。それだけだったのだ。

 だというのに、彼女は自分の持つ勢力、舎弟を総動員してカーズドワールドを買い求めさせたらしい。

 何故そこまでして――

 あの日の彼女を顔を思い出す。憮然としながら、当選メールを突き出し、代金を求めた時の顔を。あの時、彼女は喜んでは居なかっただろうか?

 記憶には意図せずして歪曲された事実が眠っている。だから彼女が本当はどう思っていたかなど、分かるはずもない。

 けれど、レンにとって真相は重要では無かった。ただ、自分のせいで彼女の生命を失ったというどうしようもない悔悟の念が、ひしひしを身を苛む。


 レンは未だカーズドワールドの中で起きた出来事を誰にも話していない。レン自身の手で、四人のプレイヤーの命を奪ったことも。力足りずして、三人の仲間を失ったことも。そして、それ以上に多くのプレイヤーを夢幻の監獄から解放したことも。全てはレンの胸裏に眠ったままだった。

 ただ、秘密はいつまでも秘密のままでは居られない。レンが語らずとも。遅かれ早かれ、誰かが広めてしまうだろう。誰が世界の敵で、誰が世界の味方だったのかを。

 蓮としての自分と、アバターのレンが結びつくまでに時間がかかっているだけだ。現状でさえ、生還者の14人の氏名は特定されている。仮想の体験や成果が現実を侵食し始めるのも時間の問題なのかもしれない。


 レンが真に決断したのは、この時だったといっていい。エンディングのスタッフロールを見た時から、あるいはこの展開を予想していたのかもしれない。しかし、それは最悪の未来に備えて、という面が強く、間違っても実現して欲しい未来では断じてなかった。

 レンのそんな儚い願望に反して、現実の歩みはどこまでも無情で、歯ぎしりしたくなるほどにのろのろしていた。

 首謀者の有分は未だその罪を償うことなく。レンの助けたかった生命は、当たり前にこぼれ落ちて。

 亜貴が現実世界に築き上げた帝国は、崩壊を始めていて。


 レンは現実に絶望した。日常に絶望した。帰りたい日常など何処にもなかった。それは彼女と仮想世界の命運を天秤にかけた瞬間から定まっていた、必定の未来だった。


 レンの戦いは終わっていなかった。心は未だ呪われた世界に置き去りにして。

 敵は見えていた。ならばどうする?

 官憲を頼りに、泣き叫び、助けを乞えば良いのか。それとも法が裁くと、全てを他者の手に委ねれば良いのか。




 この日からレンの姿は、表舞台から完全に消失する。

 家族も、学校も。あらゆる日常の象徴を投げ出して、彼は世界の闇へと溶け込んだ。現実と仮想を行ったり来たり。必要と思われる装備と情報を集め、ただ一つのことを実行するためだけの機械へと変わる。

 一つの世界を救うほどの、”勇者”が全力投球した以上、解決できない問題(クエスト)など有りはしなかった。






 人間大ほどもある巨大なファンが轟々と鳴り叫び、空気を循環させていた。冷風に満たされた暗室に鎮座する無数の機械類が、加熱を抑えられる。

 木々のように林立するコンピューター類は、まるで図書館の本棚のように規則正しく並んでいた。天井は高く、広大な空間は冷えきっていた。


 イーサテック社が保有、管理するデータセンターの一つであり、数えきれないほどのサーバーが集積する電脳図書館でもあった。人類の英知の一部が保管され、また外部との情報が光の早さでやり取りされるこの拠点には、併設された管理室が二つある。

 一つは表向きの管理人による管理部屋。社員が詰めて、機械類の点検や巡回を行なっている。なんの裏も無いただの従業者である。

 けれど、もう一方は違う。社内秘で隠された第二の管理室。寝泊まりできる設備だけでなく、正規の管理室に送られる生活物資を掠め取ることで、無給自足可能になるように設計された秘密基地。

 この設備の存在は、社内でも知るものは居ない。施設を管理する側の人間が知らないというのは、大変奇異に聞こえるかもしれないが、こういうことは往々にしてあるものだ。

 人は自分の管轄については、他者の追随を許さない知識、見識を持っているかもしれないが、専門外の知識は極めて少なく、別分野へと足を踏み入れる勇気を持たない人も多い。この一室に潜む男が、社内全てのデータに密かに記載されていたこの第二管理室の存在を抹消したのだから無理もないが。


 イーサテック社は家宅捜索を受け、膨大とも言える集積データの提出を迫られていた。警察の精密な目があれば、無駄なデータの群れから巧妙に隠された第二管理室の資料を発見してしまうかもしれない。それを恐れた男の先手を打った行動だった。


 男のほか誰もこの場所を知るものは居ない。唯一、設計資料などが流出すれば、記録面からこの隠れ家が露見する可能性は僅かにあったが、それもいまや過去の話。男の隠蔽工作で、破棄された資料類のデータはサルベージすら不可能なほどズタズタに壊され、上書きされている。

 世間で失踪を騒がれている彼を見つけ出せる人間は存在しないはずだった。


 それなのに。


「やあ。初めまして、だよね?よくこの場所が分かったね。参考までにどうやったのか聞いてもいいかい?」


 扉が開かれ、温度変化を察知した空調が唸り始める。扉を開けた人物について男はまったく心当たりはなかった。もっとも、仕事や研究に熱中していたため、男の交友関係などは酷く狭く深いものだったのだが。


「……イーサテック社を途中退職した女子社員の廃棄データに、此処についての記述が残っていた。それだけでは気付くはずも無かっただろうが、イーサテック社のデータと見比べて不自然に隠匿されている部分があれば、嫌でも気付く。改竄の事を、な」


「そうか。流石にそこまで隠蔽は出来なかったな。手落ちだなぁ」


 くつくつと男は笑った。人間の知性にはどうしたって限界があって、完璧というのは求めても決して手に入らない物なのだろう。

 決して届かないこそ、空へと手を伸ばす天空に掛かる虹のように。手に入らないからこそ、追い求める。そういうものなのだ。


「何故……。何故、あのような実験を行った?」


「ふむ。社のデータを閲覧できているのなら、それについての記述はあったと思うけどね」


 男には理解できない。人間の機微が。

 たとえ既知の情報であっても。情報の質はもちろんだが、その情報を何処から手に入れたかを気にするのが人だ。

 ミステリーで言えば。例え真相を知っていたとしても。真犯人の口から聞く、”それ”を味わいたいと思う人のように。

 男を追い詰めた人影は、全ての黒幕でもある男の口から全てを聞きたかったのだ。


「まあいいか。語りは得意じゃあないけれど……。――魂。バイオテクノロジーがこの半世紀圧倒的な進歩を遂げて。人類がとうとう人の形を完全に再現できるようになったにもかかわらず。生命の創造という神の御業は、依然として奇跡、神秘のまま。これは技術的な不足から来る問題では無い、と考えた人達がいる。僕もその一人」

「僕は魂の有無がその原因だと考えた。いや、名前はなんだっていいんだよ?ただ生命を生命たらしめる何か、に名前をつけるとしたら便宜上これが相応しい、というだけで」

(こん)でも、アニマでも。なんだって構わないさ。そういうものがあるのだと、証明できる設備が僕たち現代の人間にはあった。昔の人には決して使えなかったであろうダイブシステム。夢の世界を切り分けて、中を覗きこむ腑分けのような技術。これを土台として僕らのチームが作り上げた一つの形が、カーズドワールド。仮想世界の枠を越えた存在だと自負しているよ。実験は成功だった。あれはもう仮想世界なんて甘い存在じゃあない。システム化された霊界だよ」


「……言いたいことは分かった。動機も、まあ理解できなくもない。聞きたいのは、そんなことじゃあない。何故。何故被験者に告知さえ行わずに、生命の危険のあるこんな実験を強行したのか、ということだ」


 人影は苦々しく吐き捨てるように言った。


「命の危険云々は、そもそも的外れな質問だね。魂の実在を証明する……魂が生命に分け難く直結していることを証明するための実験なのだから、命の危険があるのがあたりまえ。むしろ危険が無いと困るんだよ」

「それから、被験者について、だけど。希望者を募る形には出来なかった。そもそもこのプロジェクトは開発チーム内でも隠し事の多かったものだ。公にテスターを募集など出来るはずもない。秘密裏に通常の物販ルートにタダ乗りして、その後とんずらするのが一番手っ取り早い方法だったからね」


 人影から、ギリリと歯を噛み締める異音が聞こえた気がした。

 押し殺したような。それでいてどこか冷静な言葉が男の元へ返ってくる。


「そうか。あんたは私利私欲のために、この実験を行ったというのだな」


「馬鹿な!本当に、話を聞いていたのか!?人類の発展のための、崇高な理由だよ。公の利益。それも世界規模の物であって、決して私利私欲などではないよ!」


 男の言葉は人影には届かなかった。


「うるさい。黙れ」


 人影の方から、男に話すことを要求したというのに。なんという変心の早さ。これでは情緒不安定を疑われても文句は言えまい。


「喋れ、と言ったり、黙れと言ったり……。忙しいやつだな。分かったよ。口をつぐむよ。それが賢いのだろう?」


 男も仏ではない。度重なる人影の無礼に、すっかりへそを曲げてしまった。せめて謙虚に話を聞く姿勢を見せるならともかく、詰問口調で、しかもろくに話を聞いていないとあっては、男でなくても誰だって、口を開く気が失せるだろう。


「……」


 男がだんまりを決め込んでいると、人影の言葉に初めて感情らしきものが交じる。それは苦しさで破れそうになる心を必死に繋ぎ止めているような、危うさを感じるもので。

 けれど、男はその震える声に篭る、押し殺された感情を察することは出来なかった。


 それだけの話。


「……なら、あれほど趣味の悪い仕掛けにした崇高な理由とやらを聴かせてもらおう。命を賭けた戦いだというのは百歩譲ろう。けれど、何故。どうして。プレイヤー同士の争いを助長し、あまつさえ人身御供の魔王などを生み出す仕組みを作ったんだ。答えろ」


「……はぁ。そのへんは別段大した理由も無いよ。趣味だよ、趣味。ソッチのほうが盛り上がるし、エキサイティングだろ?」


 だからこの結末は自業自得だったともいえる。せめてもう少し男が言葉を選んでいれば。

 ……いや、それは言っても詮無いこと。人影は初めからこの結末を願っていたかもしれず、であるならばこれは計画的犯行とでも言うべきものであり、男がどう答えたところで――。


 白刃がきらめく。黒の影に塗りつぶされた人影の輪郭から突然生えたような白の輝きが細く、けれどしなやかに。宙を飛ぶ。

 あっという間だった。人は予想できない事態に直面した時、硬直する。それを避けたいのなら訓練などで身体に反応を覚え込ませるしか無い。そんな鍛錬などとは無縁のエンジニアだった男は、眼前に迫る暴威をただまじまじと、見つめることしか出来なかった。


「ぎゃあぁぁ!!!」


 男の鼻から頬にかけて深い切り傷が刻まれた。頭蓋骨の意外な頑強さに救われ、その裂傷は脳へ至る致命のものではない。それでも毛細血管の集まる部分に穴が開けば、流出する血量は膨大だった。派手に吹き出る生命(いのち)の赤に男は狼狽する。普段血を見る経験がないのか、悲鳴を上げながらのた打ち回る。

 人影は冷然と、男を見下ろした。まるでこの程度の修羅場は何度も見てきたとでも言うように。


 白刃が連続する。男の腕は膂力こそ劣るものの、経験に裏付けされた確かな剣筋が浮かんでいた。

 それに、人を傷つけることに躊躇いの無い切りつけ方だった。自分の心と体が完全に意気投合し、折り合いが付いている。脳で正しく人を斬る事の意味を理解している。そんな斬撃だった。ならば人影は日常的に人を斬るような異常者だったのだろうか。あるいはヒットマン?

 どちらでもないことは、人影が凶器の重さに振り回されかけていることから、容易に理解できる。まるで包丁も持てないような細腕。なのにその剣筋は恐ろしいほど正確で。一発たりとも的を外すことはなかった。


 斬る。突く。抉る。


 狙った部位に正確にナイフを当てる技能を人影が持っているというのに、男の命運はまだ絶たれていなかった。

 降り注ぐ暴力に屈しながらも、致命的な一撃だけは巧妙に避けられている。お陰で男の苦しみは何倍にも引き伸ばされることになった。


「いだい、痛いぃぃぃ……っぃ!」


 いくら逃げても、白刃からは逃れられない。ただ切り刻まれていく。人影の方だって疲労困憊だろうに、狂ったようにナイフを打ち込んでくる。その様は言葉の通じない獣に襲われているようで。男に消えない恐怖を刻み付ける。


「な、なんなんだぁ、お前はぁ……」


 肋骨を掠めるようなきわどい一撃。神経そのものに触れられたような圧倒的な感覚の本流。激痛に苛まされながら、男は泣き叫んだ。糞尿を垂れ流し、無様に逃げ惑う。

 人影は淡々と、狂気に取り憑かれたように、ナイフを振り下ろす。血糊のこびり付いたそれの切れ味は相当悪くなっているだろうに、まるで意に介さない。男の体に刻まれる傷口の形は徐々に歪なものへと変わっていく。


 そうして、男の悲鳴も枯れ果てた頃。


 立っていたのは一人の殺人者であり、横たわる遺体は、かつて80人以上を死に追いやった呪われたVRRPGカーズドワールドオンラインの開発者の変わり果てた姿だった。


 殺人者は、ふらふらと彷徨い出るようにイーサテック社のデータセンターを後にする。どのようなルートを通ったのやら、守衛に見付かることもなく血塗れの殺人者は脱出を果たしていた。


 翌日。


 施設内を巡邏する守衛が、こびり付いた血痕を発見。跡を辿り、隠し部屋の中の遺体を発見する。それは行方不明として世間を騒がせている有分の惨殺死体だった。

 駆けつけた警察の鑑識の手で、遺体の身元が確認され、大々的に警察の功績が世間に喧伝される。

 同時に押収できた資料の数々に記された、非人道的な実験の数々に民衆の非難は殺到する。

 有分が社会的生命を賭けてまで強行した、魂実在証明実験は、その意義さえも否定され、存在自体を表向きの歴史から抹消される。


 お陰で、密やかに実験を後押ししていた資産家たちは、胸を撫で下ろす。どうやら離れで火遊びをして、母屋が延焼する最悪の事態は避けられそうだと。


 数年後、事件関係者。それも表向き知られていない実験の暗部を知っているパトロンたちが、不可解な死を遂げる事件が頻発する。

 警察はこれを連続殺人事件として、同一犯だと発表するが、容疑者の身元は杳として知れない。

 事件発生を警察も完全に防ぎ切ることは難しく、事件は連続する。けれど、事件の度に被害者の生前の悪行が例外なく暴かれる事から、被害者への同情の声は小さいものだった。

 逆に高まる下手人への畏敬の念。次第に世間の人々は、連続殺人犯のことをダークヒーローと呼び始める。

 血に飢えた復讐者は、堕ちるとこまで落ちきっても、英雄だったということだろうか。


 いつしか噂は都市伝説へと変わる。

 曰く、ダークヒーローは、どんな影にも潜んでいて、悪事を為す人間を見張っているだとか。

 曰く、彼相手に生命を拾う方法は、悪いことをやめて、善行に精を出すことだとか。

 曰く、誰も見ていなくても、天が知り、地が知り、そして彼が知る、と。



 それらはなんの信憑性もない噂にすぎないものだったが、少なくない人々が身を正す切っ掛けになったことは確かであり、その影響はあまりにも微小なものだったが、個人が為した出来事の余波、影響としては十分に及第点を与えられるほどのものではあった。


 レンが救った13の生命は、以後それぞれの生活に帰っていった。VRゲームをすっぱりと引退してしまった人、職場に頭を下げ続けて、奇跡的に復職した人。あるいは、懲りずに別のVRRPGにのめり込んでいく人。

 彼らはめいめいに、レンへの感謝の気持ちを胸に先へと進む。世界を救った英雄のレンが表舞台から消え去ったとしても、彼らの中にレンの残した種子は芽生えていて、彼の遺伝子は残存しているのだ。記憶や想いという最も無形な物に根付いて。

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