23祭りの終わり
成長し続ける氷の茨が形成するデスマッチのフィールド。
時間はモンスターの味方であり、私達の敵だった。
主に命じられたバルサは、とにかく少しでも多くのガングラティを引き付けようと、後先考えずに、矢を撃ちまくる。
臨時メンバーのレンが神獣を引き付けると保証した時間は一分間。
正直、たったそれだけの時間で、どうやってこの頑丈な巨人の群れを撃退するのか。主の考えは理解できないが、間違っているはずがないのだ。とにかくやるしか無い。バルサは、自分が命じられた仕事を淡々とこなすことにした。
命令を出し終えた主は、一体のガングラティに向けて接敵、脳天を抉るような殴打を撃ちこむ。そしてそのまま、腕の関節の半ばまで巨人の脳内に打ち込んでいる。
発動する魔法。
”リコンストラクション”は本来失われた手足を復元させる魔法である。しかし、主はその素晴らしき頭脳で応用とも呼べぬ、魔改造を行なっている。
傷の治癒や、回復といったものは、突き詰めれば個々の細胞の自己増殖である。多細胞生物の体は、常に新細胞の生成と消滅を繰り返す、一つの小宇宙。肉体の本来の働きを不可思議なほど高速化、活性化させるのが、回復魔法の効能だとすれば、回復によって再生した四肢は元々在ったものとは、完全に別物だということがわかる。
回復魔法とは、時の巻き戻しではなく、創造的なもの。
曖昧な再生の部分を想像力で補い、スキルシステムがそれを支え、元の四肢と瓜二つの器官を再生させる”リコンストラクション”。
けれど、その想像補正の螺子を一つずらせばどうなるだろうか?
掛け違えたボタンは、複製、増殖するにつれ、誤差を拡大させていく。
自己増殖する細胞は、偶然生じるエラーさえも忠実に複製してしまう。そうして本来意図される役割と異なる挙動をする細胞が癌である。
で、あるならば、意図的に癌細胞を生み出すことさえも可能なのではないだろうか?
それを突き詰め、戦闘に使用できるまでに実用化させた主は、繊細な脳細胞にその歪みを埋め込むことを考案した。
脳内の神経細胞のネットワークを滅茶苦茶にかき乱し、本来とは少しだけ違う形の細胞を埋め込み、増殖させる。再び完成されたネットワークは初期のものとは全く違う構成に変わっているだろう。少しの衝撃でさえ、異常を来すようなデリケートな器官にそれだけの異物が混入されれば、一体何が起こるのだろうか。
主の編み出した”リコンストラクション”は、対象の精神、あるいは記憶を破壊し、人格さえも変えてしまう、危険極まりない魔法になっていた。
もし此処が本物の魔法世界だったならば、禁術指定されても不自然はない。
その一撃必殺の魔法を、惜しみなく発動する。巨人型のガングラティは、ゴレームに酷似した特徴を持つが、根本は人間、哺乳類だったらしい。脳に劇物を埋め込まれ、発狂した一体が暴れ、周囲のガングラティに甚大な被害をもたらす。
主は、ファイターの職業で強化された身体能力――脚力で、船から船に飛び移る義経のように、巨人の頭部から頭部に飛ぶ。そこで魔法を発動させ、精神ごと破壊した後、すぐさま退避して、次の目標を目指す。
MPの消耗など全く気にしていない。六体目の巨人を錯乱させたところで、主のMPは切れてしまったようだ。残りはどうするのか、と見れば、足の骨をドラゴニュートの怪力で砕き、歩行能力を奪っている。たしかにアレならば、短時間で巨人を無力化することが出来るだろう。
――そうして、一分間が終了した時、主の宣言通り、そこに立っている巨人は存在しなかった。
ちょっかいさえ入らなければ、ヘルの猛攻を凌ぎきるのはレンにとっては、難しいことではなかった。
ヘルの巨体を足場に、ブヨブヨの肉を踏み越え、蹴りつけて、飛び回る。
相手との距離が離れすぎると、回避の難しい範囲攻撃が飛んでくる。近すぎるくらいが丁度いいのだ。
今まさに着地しようとした指や手足の収束物のような肉塊から、前触れ無く氷の槍が突出する。足元からの奇襲。
靴底が、抉られ、貫かれる。骨の隙間に刺さった槍は、レンの体をその場に縫い止めていた。遅れて伝わる痺れるような痛み。本来ならば、清水のように溢れているはずの血液は、傷口ごと凍結され、その流動性を失っている。
出血による体力の損耗が少ないのは有難いが、今は動きを封じられたことのほうが問題だった。
迷わず脚を、太ももから切り落とす。
固定された部分をパージしたことで、行動の自由が生まれる。普通ならば、脚を捨てるということは、機動力を捨てることを意味しており、退却や回避行動すら出来なくなってしまう。
けれど、今だけは事情が違った。
ヘルの豊満な胸部を握りしめ、引っ張る。そのまま勢いで、自分の体を飛び上がらせる。そう、ヘルに纏わり付くように機動している限り、脚は必ずしも必要ではないのだ。
両手で、あらゆる突起、触手、頸部を掴み、姿勢を制御、推進力の足しにする。
鬱陶しそうに身震いするヘルだったが、フェンリルとの戦いで経験を積んだレンにとっては、申し訳程度の反撃は無意味だった。
時間はヘルの味方をする。けれど、この一分間に限っては、レンに時の女神は微笑みかけている。
周囲の茨が成長し切るよりも、遙かに早く。続々と大きな質量を持った物体が落下する音が、レンに耳に響く。
死屍累々。ヘルとレンの周りには、魔王によって沈黙を余儀なくさせられた、黒い巨人の残骸がいくつも転がっていた。
「レン、やれば出来るじゃないの」
魔王の励ましの声が届く。同時に、後方で控えていたNPCのパーティーメンバーから癒しの光が飛んでくる。
「”リコンストラクション”」
本来の用途に沿った使われ方である。自ら切断したレンの脚が、嘘のように再生していく。
下半身を締め付けるように、絶大な痛痒が湧き上がる。
その掻き毟りたくなる痒みは、まるで漆の濃厚な樹液を塗りたくった鉄心を、肛門から腸内に打ち込まれたようだ。
それだけの代償として、常識をあざ笑うように、傷一つない綺麗な足が元のように生えてしまった。
「バルサ!レン!戻るわよ、第二段階!」
どうやら、あの準備を今使うらしい。ヘルのHPも半分を切った。確かに頃合いかもしれない。
態勢を立て直したレンたちは、一旦広間の入り口まで退却する。ボス戦の常として、入ってきた扉は氷の茨に閉ざされ、通り抜けることは出来ない。ヘルを倒すまでは、通行止め、ということだろう。
しかし、レンには知識があった。思い出すのは、組合の総会。マサムネというプレイヤーの語るヘル捕獲計画の戦闘の顛末だった。
――犠牲者ゼロの撤退。しかもブリザードパレス発動後。
それが可能だというのならば、この逃走を阻む茨だって……。
レンの投擲した炸裂弾が閉ざされた扉にぶつかり、爆発した。爆煙の中から姿を現したのは、破壊された扉の残骸と、無残に粉砕され、枯れ落ちた、氷の茨。
退路は確保された。
魔王の指示でパーティーのうち、戦闘の役に立たないNPC二人が、引いていく。ヘルは、獲物が逃げ出そうとしているのを感じ取り、追撃とばかりに巨体を滑らせ、迫ってくる。
「人間のようなナリをしていても、モンスターは、モンスター。知性の欠片もないわね」
条件反射的に動いたヘルを眺めながら、魔王が不敵に笑った。
「神獣を屠るため、用意した手段は計三つ。傾国は効かなかったようだけど、これならどうかしら?」
突如としてヘルの足元に魔法陣が幾つも出現する。それは、戦闘前にバルサが仕掛けていた罠であり、弱点属性ど真ん中の火焔罠だった。
槍衾のように、赤い柱が雨後の筍のように、いくつも湧き出る。その柱は、ヘルの肉塊の体を貫き、焼き切り、溶かし、弾けさせている。
百舌の早贄のように空中で磔にされたヘル。赤い柱――炎が具現化したような炎柱は、接するヘルの肉体を溶解し、炭化させていく。ヘルのHPはみるみる減少していき、それに伴い、触手の大半が、力を失ったかのように地に伏せた。そして体液を染み出させながら萎びていく。恐ろしく大規模な火葬だった。
触手が力を失ったことで、釣り上げられていた首のない女性が、支えを失い落下する。ヘルにとっては、それが幸運だった。何故ならば、空中に磔にされたままの肉塊は、残らず焼かれ消滅していたのだから。女性もそこに残っていれば、運命を同じにしただろう。
ヘルのHPゲージは残量数ドット。もはや死に体である。
這いつくばった女性の体が、助命を乞う様にひれ伏した。
「テイミング成功のようです。レンさん、残念でしたね。今回の競争は亜貴様の勝利です」
「そのようだ……な」
バルサが得意げに胸を張った。別に可笑しいことではない。今回の作戦の最大の功労者はバルサである。なにせ、神獣の座す広間に入る前に、3000近くの罠を敷設したのはバルサなのだから。一日中殆ど飲まず食わずで、休息すら取らず、罠の敷設を行なっていたのだ。
レンたちはその間、襲ってくるガングラティの相手などをしていたが、流石に神獣の間の直前だけあって、その頻度は少ない。暇を持て余していたくらいだ。
その間、異常な数の罠を作り続けたバルサ。レンにはその感覚がわからないが、聞く所によると、罠を一つ設置するという事は、自分の腕が一本増えたような感覚を覚えるらしい。その腕は、いつでも作動できる爆弾のスイッチを握っているのだ。10や20ならばまだどの腕と、どの罠が対応しているか、覚えておくことは不可能ではないだろう。実際、ベータ版での敷設制限は、10個だった。しかし、この世界にはそのような制限は存在しない。その人間の能力の許す限りの数まで、罠を仕掛けることが可能なのだ。
そうして、ヘルを罠の設置場所までおびき出すことに成功した。こちらの計画は怖いほどうまく行ってしまった。バルサでなくとも、顔が緩んでしまっても責められない。
バルサは、恭順の意を示すヘルに、許しを与えようと歩み寄る。
這い蹲る惨めなヘルと、悠々進むバルサ。本来魔王の奴隷であるはずのバルサが、その領分を越えてしまった瞬間でもあった。それに神が怒りを示したのかどうかはわからない。けれど、まるでその傲慢さを諌めるように、天はバルサを裏切った。
ひれ伏すヘルの頭部から先は存在しない。首の断面は黒く、中を見通すことは出来ない。その深淵の闇から、洪水のように無数の触手が突如溢れだした。突然の出来事に反応できなかったバルサは、絡み取られ、締め付けられ、拘束される。
顔面から丸呑みにされ、引きずられたバルサは、深淵に引きこまれそうになる。
「なっ……!」
咄嗟に反応した魔王は、残ったバルサの手を掴み、引っ張る触手に対抗する。綱引きのように、触手と魔王は拮抗して、バルサの体を奪い合った。
「まだテイミングできていなかったのね、負けたフリなんて、小賢しい真似を。神獣としての誇りも無いようね」
ドラゴニュートとファイターの合わせ技で、筋力強化されている魔王の力でさえも、吸い込まれようとするバルサを引き留めるので精一杯だった。
だから今自由に動けるのはレンしか居ない。
「亜貴、悪いな。最後の逆転劇だ。勝負は最後の最後まで分からないものだな」
「いいからァッ!さっ、さと!決着、着けてきなさいな」
氷に尖った踵を食い込ませ、なんとか魔王は踏ん張っている。その横をレンは駆け抜ける。そのまま速度を落とさずに、ヘルの元へと駆け寄った。
迎撃は……ない。バルサを捕まえ、引きずり込もうとするのに、自由になる触手は総動員されていて、余った触手は居ない。本体の女性体には、戦闘能力は皆無らしく、レンの接近に何の対策も講じることができない。
走りこんだそのままの勢いで、短刀を胸に突き立てた。胸の谷間に差し込まれた刃先はグイグイめり込んでいき、柔らかな抵抗を経て、貫いた。
レンの頭上でうごめいていた触手の根本。それらが全て色あせて行き、白くなっていく。根本から生じたその変化は、末端まで届き、囚われていたバルサを解放する。
異形の怪物は、精魂尽き果て、光に変わり、消えていった。
「ゲホッゲホッ」
喉に触手で貫かれていたバルサは、陵辱の後を拭い去ろうとするように、激しく咳き込み、嘔吐した。締め付けられていた手首や、足は鬱血したように青黒く変色している。
「も、申し訳ありませ、ん。亜貴様、私のせいで……」
今の今まで、神獣と綱引きを演じていた魔王は構わない、とひらひら手振ってみせた。
「終わったことは仕方ない。この競争は、レンの勝ちってことで終わりね。使役も出来なかったし」
「はぁはぁ……う、ぐゥ」
まだ気分が悪いのか、青い顔色のバルサは荒い息を吐きながら、苦しそうに俯いている。見かねた魔王が回復魔法をかけてやるまで、バルサはひたすら何かに耐えていた。
「まったく、見苦しい。”ヒール”」
「亜貴様……」
「レン、どうする?共闘も終わったことだし、これから殺し合いでもする?」
からかうように悪戯っぽい笑みを浮かべた魔王。レンは、ゾディアックの言った、魔王を倒す、という言葉を思い出しながら、
「やめておこう。此処で亜貴を倒せるなんて微塵も考えては居ない。神獣対策に用意したと言っていた奥の手、まだ一つ残っているんだろう?」
「ふふふ、流石ね。その通り、レンの言ったように、まだこの場所は火薬庫のまま。だって仕掛けておいた罠2700のうち、まだ半分しか発動させていないんですもの。基幹部に張り巡らせた炸裂罠1000、この程度のダンジョンを倒壊させるのくらいは、訳無いわね」
「……そんな事をすれば、自分も巻き添えになるぞ」
「えぇ。だから使ってないじゃないの。保険よ、ほ・け・ん。レンだってそれくらいしてるじゃないの、保険」
「なんだと?何を」
「ほら、これ」
突然魔王があらぬ方向に飛びかかった。獲物を見つけた豹のように、無駄のない流れるような動き。虚空に腕を突き出し、無から有を――掴み出したのは、レンの知る顔だった。
万が一に備え、潜伏させ続けていた、レンの最後の切り札。魔王が敵対行動をしてきた時のために備えさせていた、埋伏の凶刃。アサシンのゾディアックが、小さな頭部を後ろから鷲掴みにされ、ハイディングを強制的に解除させられていた。
「ガッ」
「返すわよ」
まるで雑巾でも投げるかのように、魔王は無造作に人体を放り投げる。レンが抱きとめたが、二度に渡って自慢の隠伏を看破されたゾディアックは、自尊心を粉々に打ち砕かれ、子供のように震えていた。
「……じゃあ、今は平和的な別れが出来る事に乾杯だ」
「ええ、そうね。血腥いのは好みじゃないの。今回はここで別れましょう?」
「質問……してもいいか?」
「どうぞ」
「ヤマメと、メフィストフェレス。あの二人の行方を知らないか」
「ああ、組合とかいう馬鹿共の集会の垂れ込みをした子たちだったかしら?褒美として、身の自由と安全を求めたから、放置したけれど。別に私の奴隷じゃないわよ。所属する組織を簡単に売るような人種は、頼まれても奴隷にさえしてやらないけどね」
「……そうか、行き先はわからないか」
やはり、という思いと。何故、という思いが交錯し、絡まり合う。
あるいは、魔王と戦っているというのに危機感のない組合に乱暴な発破をかけたのか。それでも、密告なんて不名誉な真似を彼がやるのだろうか。
痛切に事情が知りたいと思う。本当に利己心だけで、組合を裏切ったのか。
ヤマメ、お前は――
レンの思考が迷走しているのを直感したのか、魔王が呆れ声で忠告した。
「雑魚にかかずらうのは、勝手だけれどね。生き延びたいのなら――この世界からの脱却を望むのならば、必要以上の情は無駄なだけでなく、余計な荷物になるわよ」
そう言い残し、魔王は踵を返した。
「あまりゆっくりしていても困るのよね。こんな戦略的価値ゼロのダンジョンに、バルサの敷設罠を1000個も遊ばせて置く余裕はないのよ。しばらくしたら、爆破するわ。注意してね」
予想できたことではあるが、物騒な言葉に背筋を冷たくする。もう楽しい時間は終わってしまったのだ。祭りの終わりのような寂寥感が胸の空隙に滑りこんできた。
思えば、このゲーム、元々亜貴と一緒にプレイしようと約束していたことを思い出す。いや、約束しただろうか。少なくとも、一緒にプレイすることを期待していたはずだ。今日の共闘ははからずも、その望みがかなったことになる。けれど、そんな面白おかしい祭りは終わった。終わってしまった。
ゾディアックを背負いあげたレンは、急いで、しかし慌てずに神殿を脱出した。
雪原で魔王とレンが別々の道に別れてから暫く後のこと。
無人の世界に、天地を揺るがすような轟音が鳴り響く。威容を誇った神殿は、内側へと倒壊していく。ビルが解体されるように、呆気無く崩れる様子からは、ここが神獣の座すダンジョンであったことなど、想像もできない。地響きさえ起こしながら、粉塵を吹き上げ、自壊する。
彫刻が、意匠が。贅を凝らした大建築物は、役目は終わったとばかりに、舞台から派手に退場した。
「魔王でも、あいつらについては知らない、と来たか」
組合を裏切ったのはヤマメたちかもしれない、という予想はしていたが、その思考実験の延長にあるのは、すべての黒幕は魔王、という短絡的な結論だった。自分がプレシャスに指摘した思考の陥穽に知らず落ちていたことに気づき、苦笑する。
魔王とヤマメは繋がっていなかった。より正確に言うならば、一時的な利害関係で結ばれたことはあるが、それでも情報提供者の立場を越えることはなかった。組合と魔王軍、それに加えて暗躍するヤマメたち。知り合いとして、ヤマメがそれだけの大立ち回りが出来る玉だとは思わない。けれど、彼の影のように振る舞いながらもその存在感を隠し切れない、メフィストフェレス。彼女はどうだろうか。
含みがあるように艶然と笑い、全てを見透かしているという風に語りかける。怖気を振るう様な掴みどころのないプレイヤーだが、純朴そうなヤマメと比べれば、余程暗躍が似合う。悪女……に、見えなくもない位だ。
「参ったな。どうやら手がかりの欠片も見つからないらしい」
別にレンの独り言、というわけではない。隣にはビジュアルに難があるが、意外と愉快な性格の男が居る。反応は皆無だが、声は聞こえているはずなのだ。
「どうしたものか、ゾディアック?」
「え?は、はい!なんでしょう兄貴」
「何も聞いていなかったのか」
「すすすすいませんッ!」
ゾディアックが上の空の原因はなんとなくだが、レンにも理解できていた。分かるのだが、レンから見るとメンタルが豆腐で出来ているのではないかと疑ってしまう。
「隠形を見破られたくらいで、いつまで落ち込んでいる。そもそも気配途絶は単なるアサシンのパッシブスキルだろう。長年の習練で会得した奥義――とかならともかく、お仕着せの技の一つや二つ、見切られたことがそんなにショックか?」
「い、いえ。そのこともあるんですが……。なんていうか、魔王と直接会うのは初めてなんですよ、俺。だから空気に呑まれたというか、生物としての絶対的な格差を思い知ったというか……」
「大げさだな。魔王だって元を正せばただの一人のプレイヤーだ。過小評価することはないが、見えない影に怯える必要はないぞ」
「……レンの兄貴。まさにそこが、一番恐ろしいと感じるところですよ……。俺は最初、魔王なんてシステムが人工的に創りだしたAIやロボットだと、お気楽に考えていたんですよ。でもあれはそんな生やさしいものじゃない。生で見たら、ワイアードゴーストかと思ってしまったくらいです。現実に片足を置いているはずなのに、とても自分と同じ国、世界に住んでいるとは思えない異質さ。そんな訳の分からないものを感じるんです……。あんなバケモノが、外の世界を闊歩していると思うと……」
現実世界の魔王――亜貴を知っているレンからすると、彼の怯えは過剰に見える。それこそ張子の虎に怯えるように、実体の無いものを見すぎているのではないのか。
「はは。この科学が夢すら征服した時代、夜の闇から全てのお伽話を駆逐した時代で幽霊とは、面白いことを言うな。魔王はそんなけったいな奴じゃあ無いよ。お前の心配や畏れは全て杞憂だ」
「どうしてそこまで言い切れるのですか」
「そうだな……。魔王とは知り合いだからな。現実での話だが」
「!!」
沈んだ空気が一瞬にして吹き飛ばされる。投下された爆弾に、ゾディアックの淀んだ目は驚愕の色に染まった。
「だからあいつがこれほど恐れられている、その感覚がちょっと理解しづらいんだよな」
「……あ、あんな並外れた人間が現実に存在するなんて……」
「そうだな、あいつへのオレの評価を一言で言い表すとするのならば――」
曰く、女帝。
曰く、支配者。
確かに規格外ではあるのだが、レンの印象は、
「そりゃあ無作為に100人集めた集団を作ったとすれば、その中で必ず天辺をとって、君臨する。抜きん出る。それくらいの才能、カリスマは持っているさ。でも、それが一億人、六十億人の規模でも通じる才能かと言われれば、疑問だな。まあ、その程度さ。確かにあいつはすごい。規格外だが、天上人なんかじゃあ決して無い。もっと気楽に挑めばいいさ」
話しているうちについつい興が乗ってしまい、一言とはいえないまでに、しゃべってしまった。親族や友人、知り合いの凄い所を話す楽しさは、やはり何者にも代えがたい。反面、聞き手側はあまり好ましく思わない話題のため、自重が肝要だ。
物足りなさを感じながらも、レンは自制する。
ゾディアックはぽかんと丸く口を開いていた。しばらくそうして間抜け面を晒していたかと思えば、突然笑い出す。
「くくく、なんだか悩んでいる自分が阿呆らしくなって来ました。オレは兄貴に従うと決めたんです。それなのに、何をうじうじ悩んでいたんだか。レンの兄貴。お手を煩わせてすいませんでしたッ!」
「まあ、気分が晴れたなら重畳だ」
ゾディアックが立ち直っただけでなく、話しているうちにレンの気分転換にもなった。誰も望んで、切った張ったの世界に入り込んだわけではない。すぐ隣りの世界には、まだ暖かな日常と、ほんの少しばかりの悪が跋扈するバカバカしくも素晴らしい世界があるのだ。
それを再認識できた。
亜貴はそんな素晴らしい世界が確かにあったことを、まだ覚えているだろうか。
既に殺人を犯し、越えてはならないラインを幾つも土足で踏み越えているであろう友人のことを、レンは想った。




