14魔獣使役
もしこの肉体が、定期的な栄養補給を要求するとしたら、早晩この荒野に骸を晒していただろう、とレンは思った。
食欲、睡眠欲、性欲。三大欲求の全ては無くなったわけではない。ただひどく鈍感になっただけなのだ。アバターの体は現実の肉体と比較して、ひどく頑丈に出来ている。腹が減ったというのは、体が「栄養をくれ」と怒っているからだ。喉が渇くのは、体が「水がほしい」と哭いているからだ。多少の無茶を身体が許容出来るようになれば、そんな泣き言は言わなくなる。
だからもう三ヶ月何も食べていない。さすがに水は飲んでいるが、どうしても食い物を食う気にならないのだ。
僻地をさまよい続けて三ヶ月。それは取りも直さず、魔王が王都からプレイヤーを締め出したあの日から、三ヶ月経ったということを意味する。
始めの頃は、頻繁に街に出入りを繰り返していた。魔王は各地にプレイヤーを見つけ出す猟犬を放ち、ショップに自動探知機を配備しているが、世界は広い。すべての街で王都と同レベルの警戒態勢ができるはずがない。土台、人間の取る方法で、例外や抜け道を無くすことなど不可能なのだ。
ショップ、ギルド、宿屋を封じられても、ゲーマーであるプレイヤーたちは意外に逞しかった。まず力を持ったのが、プレイヤーが店主を務める闇市だった。魔王がNPCのショップを接収し、プレイヤーとの取引を禁じるなら、プレイヤー間で取引すればいい。当然のように生まれた発想であり、本来商人のロールプレイに適したアルケミスト以外の職業の人間も闇市に参加し始めた。
残されたプレイヤーは30人弱。市場としては極小のものだったが、だからこそ、彼らは一件一件の取引を大事にした。ここまで人数が少ないと、商取引で相手と親密になり、商売相手の無事を祈らなければ、立ち行かないのだ。闇市が生んだ人と人のつながりは、やがて力へと変じていった。二人でこそこそと周囲の目を気にして、商談をやっているうちはともかく、二人が三人になり、三人が四人になってくると、人の集まりそのものが力を持ってくるのだ。
集団というのは生物の最も原始的な力だといえる。人間も、動物も、昆虫さえも群れを作り、力を得る。闇市で生まれた、泡沫のような小さな力は、徐々にその大きさを増し、ある点を過ぎた瞬間、爆発的に膨張した。
それが”勇者互助組合”
魔王に挑む者を「勇者」と定義し、助け合うことを目的としたギルドである。
レンが最後に彼らに会ったのは三週間前のことだった。加熱した勧誘は、このごろではいっそ脅迫めいてきていた。レンが何時まで経っても組合に加入しないからである。まだ心の整理が付いていない。毎度そう断っていたのだが、そろそろ言い訳が通じなくなってきた。それ以来レンは身の危険を感じて、できるだけ人の集まる場所には近づかないようにしている。お陰でカーズドワールドの辺境の地理に、かなり詳しくなったと自負している。
南東の半島部に広がる不毛な荒野。レンが居るのはそこだ。魔都はこの世界の中心にあるから、直線距離だけで言えば、魔都から一番離れた地域だといえる。
右頬を叩いていた微風が唐突に止んだ。既に無意識で感じられるほどに、習熟したレンジャーのパッシブスキルでモンスターの気配を感じ取る。
突然空から飛来した雷の槍を、レンは羽のような自然な足運びで避ける。狙いを外された上空の鳥は、怒りの鳴き声を上げた。
「ガルーダか、少し大きい個体だな」
レンの回避行動は、意識して行われたものではない。無心にモンスターと命のやり取りを、気の遠くなるほど繰り返した結果、刷り込まれた戦いのための動きは、本能的なものだ。相手がガルーダだとレンが認識したのに一瞬先んじて体は動き、適切な弾丸を掴みとっていた。弱点属性の氷属性の弾丸――氷結弾をスリングに装填した。
まだ撃たない。
ガルーダは大きな翼を持った飛行型モンスターだ。通常、回避のための動きは、地上であれば四方向に限定される。それが空中になると、360度すべての方向に逃げ道がある。
そんな相手に攻撃を命中させるのは、至難の業だ。だからレンは待った。一瞬のチャンスを。
しばらくレンの位置を中心に、空を旋回していたガルーダは、ばさばさと羽を鳴らし、姿勢を整えホバリングの体勢に入った。だが、それが不自然な体勢だということを、このモンスターは知っているのだろうか。空を飛ぶ最も基本的な仕組みは、気圧差を利用した推力の揚力変換である。風に乗って前進し続けることで、鳥は浮かんでいられるのだ。だからその場に留まりながら、羽の力だけで浮こうとするホバリングは、あまり効率のいい飛行法ではない。
一瞬ガルーダが姿勢を崩した。そう思った時には、氷結弾がガルーダの翼を凍てつかせていた。ガルーダはたまらず高度から落下していく。即座に落下地点に駆け寄ったレンは、短剣でガルーダをメッタ刺しにした。ガルーダは弱点属性の攻撃を受けると、一定時間飛べなくなる。そして、地に落とされたガルーダは大して強くない。
程なくして、蓄積されたダメージに耐えかねたガルーダは、その体を光に変じ、消滅した。
経験値が入る。意味のない数字の羅列だ、とレンは思った。
名前:レン
職業:レンジャー
位階:59
パッシブスキル:気配察知
鋭敏な感覚の極致。モンスターに限らず、生命の波動を感じ取る能力。自身を中心とする範囲内の生命反応を探知する。
推奨武器:スリング
俗にレベルキャップと呼ばれる制限措置がある。レベルに上限を設け、それ以上の成長を禁止する措置だ。アップデートで解除されたり、特定のクエストを攻略することで解除できることが多い。カーズドワールドにもベータ版の頃からその仕様は存在していた。
具体的にはレベル59。60以上になるためには、神獣と呼ばれる世界の番人、三体のボスモンスターを撃破せねばならない。
ヨルムンガンド、ヘル、フェンリル。
神話の怪物の名を借り、暴威を撒き散らす強大なボスである。カーズドワールドに魔王が台頭する前に、レンもその内の一体、ヨルムンガンドと相対したことがある。手も足も出ないとはあの事だった。あの時は魔王になる前の亜貴に助けられ、事なきを得たが、レン一人では生き残ることさえ出来なかっただろう。
そんな怪物を三体。狩り尽くさねば解除されない厳然たる壁が、レベル59と60の間には存在している。けれど、もし60に到達できれば、セカンドジョブが解禁され大幅に強化されるのだ。
レンはセカンドジョブにいい印象を持っていない。いや、この世界にいる多くのプレイヤーはその存在を苦々しく思っていることだろう。ベータ版では存在しなかった、レベル60到達以外の新条件を満たせば、習得できるようになっているからである。
魔王、いや亜貴に聞いた話だと、三人のプレイヤーの殺害を以って、セカンドジョブはレベル60を待たずに解禁される。三体の神獣が、ユニークモンスターとして健在、君臨している以上、この世界でセカンドジョブを持つプレイヤーは例外なく、殺人者なのだ。
魔王軍の五人は全てセカンドジョブを保有している。30人以上のプレイヤーを抹殺してきているのだから、当然とも言える。対抗組織である”勇者互助組合”の中にも僅かながら保有者が居るらしい、と聞いている。
荒野を寒々しい風が吹き抜けた。
空を見上げる。雲ひとつ無い。先ほどのガルーダがリポップするのは随分先だろう、となんとなく思う。
見上げた視線をそのまま下ろして、北に向けた。地平線の彼方に黒い影が小さく見える。王都の東に位置する山脈のはずだ。そこに存在する大渓谷、そこで三人の仲間が亡くなり、そしてレンは生き残った。ヨルムンガンドはまだあそこに居るのだろうか。居るのだとしたら……。
固く握りしめた右手の指が鬱血しているのに気づき、驚いた。ガルーダを屠った短剣はまだ血に濡れたままだ。その柄をぎゅっと締め付ける自分の指が、他人の物のように感じてしまう。
短剣の銘はロックブレード。一人の姑息なプレイヤーの策略に嵌り、ヨルムンガンドに丸呑みにされた一人の仲間の作ってくれた武器だった。
ロックブレードの手入れをしてから、足を北に向けた。無性に腹が空いた。三ヶ月絶食していたようなものだから当たり前だ。生きているのだから。
アイテムストレージから手に入れたばかりのガルーダの食肉を取り出し、かぶり付いた。
命を食らっている。そう、思った。
ここまで王都に近づいたことはない。いや、今は魔都と言うべきなのか。
今のところ気配察知に反応はなかった。哨戒兵にあたると厄介だが、その危険も今のところは無さそうだ。
気づけばここまで来ていた。
濃霧が肌に纏わり付いてきた。黒黒とした何かが肌を這いまわるような感覚に、懐かしささえ感じられる。ここには悪意が染み付き過ぎている。殺戮の舞台だったのだから、無理もない。
大渓谷。湿原と王都に挟まれた地域をそう呼ぶ。プレイヤーの活動の中心である王都と、レベルキャップの番人の神獣の生息するダンジョンの中間地点であり、ベータ時代は盛んにレベル上げのための狩りが行われていたらしい。生息するモンスターは水馬、幻光虫、スケイルリザード。水に関係したモンスターが多いため、弱点属性の統一がなされていて戦いやすいと評判だった。
もう少しであの場所に着くと思うと、レンの足は自然と早くなった。霧のせいで視界が不自由であるのに、レンはすいすいと足元の石を避け、くぼみを回りこみ、ずんずん進んでいく。
「あった」
小さな、本当に小さな墓があった。ここで亡くなった三人の仲間のためにレンが作ったものだ。王都から這々の体で逃げ出した時に、ここを通りかかった。その時に建てた簡易のものだから、風雨に晒されて崩れていてもおかしくはなかった。それが、こうして残っていた。
レンは献花して、静かに合掌した。墓といっても石を重ねただけの、粗末な作りだ。添えた花も少し風が吹けば、どこかへ飛んでいってしまうだろう。
そうして、三日間待ち続けた。けれども、あの大蛇が姿を見せることはなかった。
「もうここには居ないのか。逃げ出したのか、はたまた誰かに殺されたのか」
レンは自分でもヨルムンガンドに逢えなくて残念に思っているのか、それとも安心しているのか、よく分からなかった。もし出会えば、戦いを挑むだろう、という予想はできる。臆することはないだろう、とも思った。
しかし本気でヨルムンガンドを打倒するつもりで、ここまで来たのか、と自問すると怪しい。武器類の準備は不足もいいところだし、下調べも不十分。なにより、標的がここにいるという情報さえ持たずに、単身ここまで飛び込んできたのは迂闊という他ない。
昔の自分なら到底考えられない行動だ、とレンは自嘲した。
負けてもいいと思っているのか。死んでもいいと刹那的に考えているのか。
とにかく自分は変わったと、レンは感じていた。
ゴンという罠師のプレイヤーがいた。彼はトラップメイカーに備わった挑発系のスキルを駆使して、神獣であるヨルムンガンドを隣のマップの湿原から大渓谷まで、引っ張ってきた。そうして谷の入り口を爆破で封鎖し、ヨルムンガンドを閉じ込めていたのだ。
だが、今ヨルムンガンドの姿はどこにも見当たらなかった。居ないのならば仕方ない、と気持ちを切り替えたレンは、大渓谷の南に位置する小さな町に移動することにした。
大渓谷と湿原に囲まれたそのギョクスンという町は、王都までの直線距離だけは近いものの、物理的な障害が多く、辺境といって差し支えないほどだった。
町を歩いていると、ちらちらとレンの事を伺う視線が目立った。無理もない。この三ヶ月の放浪生活では、ろくに風呂にも入っていない。少し前までは、食物摂取をしていなかったため、代謝が減退していたので匂いはそれほどでは無かったのだが、ここ数日間きっちり肉を食っていた。そのせいで、体臭が目立つようになってきていたのだ。
「川で水浴び位しておけばよかったな」
長い間人と交わらず、霞を食らう仙人のような生活を続けていたせいで、一般的な配慮が欠如していたことをレンは悔やんだ。かといって宿屋に行く事もできない。魔王の魔手はここにも微弱ながら及んでいて、冒険者の利用できる施設はすべてプレイヤー判別の魔道具が配備されているのだ。よしんば見つかったとしても、辺境の警備兵程度なら切り抜ける自信がレンにはあったが、事を荒立てるのは不味い。
目立たないようにレンは、するりと路地裏に体を潜り込ませた。彼らに会うのは気が進まないが、わがままも言ってられない。微かな記憶を頼りに、とある廃屋へと向かった。
ちょうど両側の建物に日差しを遮られ、時を止めたように悠然と佇む古びた屋敷がそこにはあった。組合の秘密裏に所有する拠点の一つである。すべての都市に拠点を持っているわけではないだろうが、幸運なことに、この町には顔見知りの居る拠点がある。それがこの屋敷だった。
勝手知ったるなんとやら。鍵のかかった扉を無視して、庭に面した一室の窓から中に飛び込んだ。尾行の類はない。廃屋にしては、埃の積もっていない不自然な扉をいくつもくぐり抜け、地下室へと移動する。地下への扉を開いた途端、流れこんできた清涼な風に驚く。ちょうど真夏の屋外から、冷房の効いたデパートの中に入った瞬間のようだった。
「……空調でも作ったのか?」
「その通りー。意外と簡単だったかな。なんたって、この世界には、まほーがあるからね。ヒートポンプとか考えなくても、冷気のまほーで作れちゃうんだよ?反則臭いよねー」
「……久しぶりだな、プレシャス」
「やぁやぁ。こちらこそお久ー。最近顔見てなかったけど、ようやく我が組合に入ってくれる気になったのかなぁ?うん?」
「そっちの使い走りの勧誘がうるさくてな。悪いが暫く関わらないようにしようと、人里に近づかないようにしていたからな」
「あらら~。ごめんね」
あまり本気で謝っているという感じはしないが、彼女の勧誘は世間話のようなもので、熱心に食い下がってくるわけではない。その点は、レンにとって付き合いやすい相手だった。
女性と言っても、そこまでフェミニンな顔つきではない。良く言えば中性的な、悪く言えばオトコっぽい顔立ちをしている。そこに、ワーキャット特有の頭の上から生えた立派な猫耳が存在を主張している。馬鹿っぽい話し方と相まって、頭が悪そうに見えてしまう。それを指摘したとしても、個性、の一言で片付けられるだろうし、微妙な空気になってしまうのは目に見えているので、レンも藪は突かなかった。
「情報がほしい。対価はA級モンスターの素材30。まとまった数出そう」
「情報って言ってもピンきりだよー?まあとりあえず、今言えることは、ベヒモス素材10あれば、私のがちがちのお口もゆるゆるになっちゃうってことかなー」
「出せる。欲しいのは神獣の情報だ」
「あー。やっぱレンも知っちゃったのかー。まあ無理ある計画だと私も思うよ。うん。マラークさんも本当はやりたくないんだと思うけど、組合内の士気を保つために、ここらで一つ実績というか、勝利がほしいっていうのは本音だしね、うん。けど男ってのは良く分からないなー。女性型って言っても、あれだよ?モンスターだよ?ナニ考えてんのかほんとわかんないわー」
「待て、プレシャス。何の話をしているんだ」
「へ?だから神獣のヘル捕獲計画の情報を聞きたいんじゃないの?」
「いや聞きたいのはヨルムンガンドの方だ。確かオレの記憶では、大渓谷に封印されていたと思ったが」
「へ?へ?マジかー。レンってば、そこまで情報遅れてるのか。まあ交流絶って山ごもりしていたのなら、しょうがないのかなー?」
レンは山ごもりなどしていない。ただ荒野をあてどなく彷徨っていただけだ。生き残るあてもなく、ただ無心に。けれど話の腰を折っても仕方ない。レンはプレシャスに話の続きを促した。
「じゃあね、どこから話そうか。やっぱりアイバルクの戦いからかなー。うん」
レンはプレシャスの情報屋の顔しか知らなかった。”勇者互助組合”に所属していることは知っていたが、それは円滑な情報収集の為の方便だと解釈していた。けれど、機密であろう組合と魔王軍との会戦を仔細に語る様子からは、彼女がとても組織の下っ端には思えなかった。
――アイバルクは王都の北東に位置する街である。規模としては中規模、ルールの街と同程度といえばわかりやすいだろうか。王都へ街道で直通していることから、宿場町としての色が濃く、軍事的には物資の集積所として捉えることもできた。
各地でゲリラ的な戦いを繰り広げていた組合だが、防御ばかりではダメだ、ということで、魔王軍に対して反攻作戦を仕掛けることになった。奇襲をかけ、アイバルクの駐屯部隊を撃滅し、そのまま居座り、あわよくば魔王領に食い込んだ匕首にしようという大胆な計画である。
駐屯部隊の殲滅はかなりうまく行ったらしい。NPCの兵士たちで構成された部隊は、統率こそできていたものの、ひとりひとりの練度はそれほど高くはなかった。強力な武具で武装し、スキルを操るプレイヤーたちの少数精鋭に彼らは翻弄され、各個撃破されていった。瞬く間に都市内の魔王勢力を駆逐した組合の切り込み隊は、一時喜びに沸いたという。
けれど、戦勝気分はそう長くは続かなかった。容易く陥落できたということは、守るのが困難だということの裏返しでもある。重要施設に集中して戦力配置するが、たった十名の部隊で一つの街を制圧するなど土台無理な話だった。分散し、守りが手薄になった切り込み隊に、悪夢が襲いかかった。
王都から出撃した邀撃隊が到着したのだ。アイバルクの防衛の援軍として派遣された軍だったが、既にアイバルクが”勇者互助組合”の手に落ちていることを確認するやいなや、すぐさまその方針を街の奪還に変更した。
「あんまりに迅速に動くもんだから、あの軍を統率していたのは魔王軍四天王――プレイヤーだって考えたほうがしっくりくるなぁ。うん」
そして派遣された魔王軍の持ちだした兵器が、最大の具現化した悪夢だった。文字通り山を動かし、従える偉業。魔王軍が引き連れていたのは、神獣ヨルムンガンドだった。
組合でもその存在だけは確認していた。組合員の中に大渓谷に幽閉された大蛇の話を知っている者がいたのだ。倒すべきユニークモンスターではあるが、難敵であり、閉じ込められているおかげで、危険度も少ないと判断した上層部は、それを放置したままだった。魔王軍は何をどうやったのやら、その巨獣を思うがままに操り、兵器として使用していた。
怪獣映画に出てくるような、ヨルムンガンドの威容は絶対的だった。その巨体を目撃した切り込み隊員は、一人残らず「勝てない」と悟り、泡を食って逃走した。一目散に逃走したおかげで死傷者が出なかったのは、不幸中の幸いといっていいのか。
「それが私達が最初に確認した、魔王軍のヨルムンガンドの使用記録だねー。後二回他の戦いでその姿が目撃されてるけど、始まりはアイバルクかな。うん」
元々魔王軍には押されぱなしだったが、目に見える形、最もわかりやすい脅威としての魔王軍がその姿を露わにしてきたことで、それに対抗しようという動きが組合内に生まれ始めた。それがヘル捕獲計画。魔王に神獣が操れるのならば、こちらも別の神獣を手にするまで。と、子供っぽい発想で立案された作戦が進行中だという。
「……なるほど、あの蛇を使役……ね」
「テイミングできる領域を遙かに超えてると思うんだけどねー。状況から考えて、有り得ない可能性を排除していくと、やっぱり人間って既知のロジックに頼っちゃうのかな、うん。トラップメイカーのパッシブスキルの魔獣使役って意見が多数ー」
「あり得ない話ではない……のか」
レンが思い出していたのは、亜貴がヨルムンガンドを退けた時の光景だった。神話のように幻想的な光景に目を奪われていたが、冷静に考えてみると、あんな大それたことが、ヒーラーの魔法だけで出来るはずがない。事が終わった後、ヨルムンガンドの記憶を操作したと言っていたが、そんな都合のいい魔法は存在しないことを、後に知った。
”リコンストラクション”は確かに大魔法ではあるが、手足の欠損ダメージを回復することに特化した回復魔法であり、間違っても精神操作のたぐいの魔法ではないという。
あれが亜貴によるスキルの応用だとしたら……?
「んー。話せる情報はこれくらいかなー?A級素材は今出してくれるの?」
「あ、ああ。出すよ」
辺境で出会ったモンスターの素材をアイテムストレージから転送する。素材系アイテムは、アルケミストにとっては宝の山だが、それ以外の職業のプレイヤーには無用の長物でしかない。レンはさして惜しいとも思わず、素材を差し出した。
「うんうん。確かに受領いたしましたーっと。」
アルケミストの血が疼くのか、レア素材を見てほくほく顔をしているプレシャス。興味を失ったレンは、妙に空調の効いた地下室を後にした。
神獣を倒そうと思った。それは目標として最も分かりやすく見えるものだった。そして奴らと戦うならば、その始まりは、やはりヨルムンガンドだと考えていた。因縁を解決して、進むことは極めて自然だといえる。しかしヨルムンガンドは、魔王軍に取り込まれた。組合に所属すれば、戦場で戦う機会も生まれるだろうが、あいにくレンにはその気はなかった。
ヨルムンガンドを後回しにするとすれば、残りはヘルとフェンリルの二体。そうなると、自ずと次の目的が定まってくる。
「北のフェンリルか」
第三勢力を目指しているわけではない。けれど、魔王軍のヨルムンガンド、組合のヘル、そしてフェンリルとなれば、なんだか収まりがいい気がしたのだ。フェンリルの居場所は知識として知っている。王都の北に位置する火山、そこにあの神獣は居る。
目指すのならまずアイバルクを目指すのが常道だろう。しかしその道をあえてレンは選ばなかった。一直線に湿原を突っ切る。あまりにもむりやりだが、逆にいえば真似をする人間も少ない。魔王軍や組合に捕捉される可能性も減少するのだ。
レンは薬や弾薬の補充もそこそこに、町を出た。
レンが主に活動というか、放浪していた大陸南東部のモンスターに比べると、湿原のモンスターの平均レベルは低い方だ。40程度がせいぜいで、60に迫るほどのA級モンスターは生息していない。とはいえ、油断はできない。レベルはあてにならない指標だし、何より神獣の生息していたダンジョンだけあって、いやらしい敵配置がなされている。辺境の荒野は強力な個体が、まばらに生息し、ソロで活動しているのに対して、湿原のモンスターは徒党を組んで行動している。10体以上が同時に出現することも珍しくない。しかも、それぞれが別々の状態異常攻撃を持っているため、対処は非常に困難になる。
むせ返るように湿度の高い風に辟易しながらも、レンは主の居ないダンジョン――湿原に足を踏み入れた。