3話
更新お待たせ致しました。
今回はアンライヴルド視点です。少し長いです。(少し?)
魔王城の庭で一人立ち尽くす右顔を仮面で隠した赤い髪と目の青年。城の主たる悪魔の王アンライヴルドは五百年生きてきた中で今もっとも衝撃を受けていた。
出来事は一時間程前に遡る。結界を破り魔王城に侵入してきた不埒者の魔力が異様なまでに高かったので自ら追い出しに行こうと様子を見に来たら、どこぞの令嬢らしき女が地面に四つん這いになってうろうろしているときた。
しかもこちらに気付かない。それだけの魔力があれば悪魔や聖霊が近付けば力を感じ取ってわかるだろうに延々と地面を見つめている。
(なんだこの女……何をしているんだ)
魔法を施しているようにも感じられない。ただ失せ物を探すように地面を這ってうろうろと行ったり来たりしている。もしかしてここに来る前に柘榴の木に引っかかっていた飾り紐と関連があるのか。
(人間の女が魔王城で探し物なんてあるわけないか……)
木に寄りかかって女をじっと観察してみる。顔は伏せていて見えないが長い髪は赤銅色で三つ編みに纏められている。体の線も四つん這いになっているおかげでよくわかる。程よく成熟した肢体で顔が美人なら食えなくもない。
そんな感想が出てきたがずっと地面を這う女を抱く気は起きない。魔王にそんな趣味があったら威厳に関わる。
女が魔王城の庭に来てから一時間近く経った。まだ地面を見つめている。まさか本当に探し物をしているか?
「はぁ……」
流石にこれ以上居られても困るので女に近づいていく。
「おい、先程から俺の庭で何をしている」
女は声を掛けられようやくこちらに気がついたようだ。地面から上げて振り向いた顔は長い睫毛と厚みのある唇、目は薄紫色をしていた。なかなかの美女だ。もっと豪奢なドレスで着飾ればいい所の貴族の令嬢や貴婦人として持て囃されるだろうに飾り気のない黒のドレスとは勿体ない。
「探し物をしているの」
「探し物ぉ?」
「えぇ、探し物。紅い紐に勾玉が三つ点いた首飾りを探しているの。見てないかしら」
本当に探し物をしていた。しかも来る前に拾っていた飾り紐を探していたのか。だが疑問だ。なぜ人間の女が魔王城でそんなものを無くすのか理由が分からない。
「何故そんなものを探している」
「大切なものなの。契約した悪魔の子にあげた首飾りなの」
大切なもの。ただ悪魔の為に贈ったものをそう言った人間は初めて見た気がした。
解らない。
「妖狐の悪魔は区別がつきにくいから一目見てその子だってわかるようにとあげたの。そうしたらその子はとても喜んでくれて大切にすると言ってくれたの。でも、今日大鴉の悪魔と喧嘩してしまってその首飾りを取られて魔王城の庭に落とされてしまったんですって。魔王様の城に勝手に入ったら魔王様に申し訳ないしでも他のものにも代えられないからどうしようと相談されたから私が探しに来たの」
女の説明を聞き終え、考えてもやはり理解らない。
「何故お前が探すんだ?」
「何故って?」
質問に質問で返すな。聞いているのはこちらだ。先刻からこの女、俺を魔王とは気づいていない反応をする。相手が魔王なら大概の人間は怯えるだろうに。
「何故人間のお前が一人魔王城まで探しに来ているのかと聞いているんだ。人間が魔王城にでも侵入していたら追い出されるどころか殺されてもおかしくはないんだぞ」
「えぇ、そうね。でもそんなもの関係ないことよ」
「は?」
関係ないことはないだろ。不可解だ、自分の命に関わる事だぞ、何故そこまでするんだ。
「例え殺されても私は首飾りを見つけてあの子に届けると決めたの。あの子が大切にしてくれているものだから」
強い意志を持ってこちらを正視してくる紫水晶の眼に嘘は感じられなかった。本気で殺されようとも探して返すという覚悟がこの女にはある。ただ一体の悪魔の為に。
お前ら人間にとって悪魔にそんな価値などないはずなのに自分の命より大切にするのかこの女は。変わっている。
しばらくお互いの目を見つめていたがこちらが根負けした。溜息を吐きながら仕舞っておいた紅い紐に勾玉が三つ点いた首飾りを懐から取り出して女の目の前に突き出す。
「探し物はこれの事か?」
「これ!えぇこれよ!」
「柘榴の木の枝に引っ掛かっていた」
「木の枝にあったのね!見つからないはずだわ」
それはそうだ。一時間も地面ばかり探していれば見つかるわけないだろう。上も見ろ。
「あぁ、全くだ。とっととこれを持って人界にかえ」
「ありがとう!見つけてくれたのね!あの子に返せるわ!」
それは視界一面に一斉に花が咲き乱れるような感覚だった。
俺の言葉を遮り突き出された俺の手を握り勢いよく立ち上がって、下心や演技などない何処までも嬉しそうな屈託のない笑顔を向けてきた女に一瞬で心を奪われた。
初めてだった、魔王という立場に関係なく対等で純粋な感謝を返されたのは。不思議な女、あの高貴なる乙女さえ悪魔に対してこんな風には接して来なかったのに。
胸に当たり握られた手から女の鼓動と体温を感じて熱が伝わってくる。その熱は手だけでなく胸にまで届き彼女から目が離せなくなった。
握られた手から首飾りを取られて我に返った。感情を悟られないように落ち着いた口調で名前を訊ねた。
「私?私はロゼ、ロゼ・ヴァルプルギス」
「ロゼ……」
噛み締めるように彼女の名前を反芻する。ロゼ・ヴァルプルギス。確か聞いたことがある名前だ。ウィスパーが契約をしたという魔法使いの名家の令嬢だったか、なるほど彼女がそうだったのか。
「えぇ、そういう貴方は魔王アンライヴルドでしょう。鮮やかな赫い髪と眼をしている強い魔力を持ってる悪魔なんて魔王しかいないもの。すぐにわかったわ」
「気付いていたのか……」
自分から正体を明かす前にバレていた。最初から俺が魔王と知っていながらあんな態度を取っていたのか。機嫌を損ねて殺されるとは思っていなかったのか、良く言えば肝が座っている、悪く言えば奔放な女だ。
だが、そこが魅力なのだろう。相手が悪魔でも分け隔てなく対する優しい心を持っている。
「本当に見つけてくれてありがとうアンライヴルド。貴方に感謝するわ」
嬉しそうに笑いながらそう言って彼女はその場を風のように去っていっき、現在庭に一人取り残された状態となっている。
そろそろ戻らねば執事に小言を言われるので城の中へと戻っていくが、まだ触れていた胸の感触が手に残っていて彼女に対する溢れだしそうな感情が胸の中を渦巻いて周りの声など耳に入って来ない。
「魔王サマ!魔王サマったらぁ!」
大声で呼ばれて、やっと気がついた。呼ばれた方を見ると羊角を生やした青い肌が銀の髪を引き立たせている均衡の取れた体型をしている蠱惑的な淫魔の女が呆れた様子でこちらを見ていた。
「ウィスパーか。悪いな気が付かなった」
「もう、ワタシの呼び声に反応しないなんて魔王サマとあの子くらいだわ…つれないわね」
「あの子……ロゼ・ヴァルプルギスのことか?」
「ふふふっあの子に会ったんでしょう?どう?変わった子だったでしょう」
人間と契約した悪魔は契約者の位置が分かる。
コイツ、ロゼ・ヴァルプルギスが城に侵入したことを知っていてわざと自分は動かず、俺自ら彼女を追い出しに行くと踏んでいたのか。
「確かに変わってはいたな。俺が魔王と気付いていながら畏まらず豪胆に接してきたり、悪魔の為に失せ物を探しに魔王城まで来たり……」
「そういう子なのよ。そんなところがあの子のステキなところなの。魔王サマもあの子虜になっているからわかるでしょう?」
「……何故そう思うんだ」
「ふふっ、ふふふふ……だってワタシが大きな声で呼ばないと気がつかないくらいあの子のことで頭がイッパイだったんでしょう?ふふっ」
全くもってその通りなので返す言葉もない。図星を突かれて黙っている俺を見てウィスパーは愉快そうに笑っている。相手が魔王だろうとそれが男ならば笑壺に入るとは毒蛾と呼ばれるだけはある。笑われてる方からしたら何も面白くはないので抗議の一つでも言ってやろうかとしたところでもう一人の臣下が廊下の奥から現れた。
「あぁ、いたいた。やっと戻ってきたんですか魔王様」
「パペティア悪いな色々とあってな」
シャツの前を大きく開けた燕尾服に身を包んだ褐色の肌に癖のある焦茶色の髪をした山羊角の男。耳飾りも六つも開けていてどう見てもチャラついているが俺の執事をしている悪魔だ。
「魔王様を手こずらさすだなんて侵入者は美人な女だったんですかね〜」
「……」
「ふふふっ手強い相手よね〜」
「ふ〜ん俺も見に行けば良かったな〜」
二人は俺の顔を見てニヤついている。臣下二人に揶揄われ右顔の仮面を抑え溜息を吐く。主を笑うとは困った臣下達だ。
もうコイツ等の事はいい。俺は今やるべき事がある。
「いつまでも自分達の王を笑うなお前達。ウィスパー、彼女の契約してる悪魔は妖狐だったな」
「えぇそうよ?あと大蛇の悪魔と契約しているわ。それがどうしたの?あの子のことを聞くならワタシに聞けばいいじゃないのよ」
「お前じゃあ駄目だ。要らん事を言うからな」
「何よそれ〜!ヒドイわね〜!」
ウィスパーは心外だと不満そうにしているがこの毒婦に聞いたら一々と俺の反応を見て面白がってくるのは分かり切っている。絶対に疲れるから嫌だ。
「パペティア出掛けてくる。留守は任したぞ」
「はいはーい了解。いってらっしゃいませ魔王様」
本当に軽い執事だな。まぁ執事としては有能なので側に置き続けている事は事実ではある。俺の側にいる者達は皆信頼に足る者達だ。その臣下に留守を頼み城から出ていく。
向かうのは魔界の北東、妖狐達の住処がある場所だ。魔王として魔界を統べる者であるのなら棲う者達の事くらい知っていなければ恥である。
魔界や聖界は人界と比べると広くはない。だが歩いて行くには面倒ではある。ではどうするか。飛ぶ。
魔力の一部を解放すると背中から大きな黒翼が生える。人型の高位の悪魔ならばこのくらい出来て当然の芸当だ。
翼を羽ばたかせ高翔し北東の方角に風を切る。
数分滞空すると竹林が見えてきた。竹林の上まで来ると高度を下げて翼を仕舞い地面に降り立つ。
竹林の中は魔界の中でも少し異色な雰囲気がある。臙脂色の火玉が飛び交い竹に鈴が付けられ風で揺れる度に音を鳴らしている。
「おやまぁ魔王様や、ようお越しで。斯様な辺境の地に何の用入りでありましょうや」
竹林の中からしゃなりしゃなりと歩きながら一人の悪魔が姿を見せる。この竹林の主であり妖狐達の長、九つの黒い尻尾を携えた長い黒髪に狐の耳を生やした女の姿をした妖狐だ。わざわざ出迎えてきたのか。
「邪魔をするマユズミ。悪魔を探している」
「うちの仔の悪魔で?」
「あぁ、勾玉が三つ付いた赤い首飾りをしている妖狐はいるか?」
「嗚呼其れならグラッジでしょうや。人の仔に随分可愛がって貰っているようで、ふふっ偶に菓子を貰ってはうちにも分けてくれるいい仔で……彼の仔がどうか?」
「何処にいる?少し話をしたい」
マユズミは考えるように服の袖を口元に寄せている。何度か耳を動かし渋るように答える。
「彼の仔ならちょっくら前に人界から帰ってきましたけど……何で彼の仔に話を?うちの可愛い仔らを苛められるならご勘弁して下さります?」
「安心しろ、契約者の事を聞きたいだけだ」
ロゼ・ヴァルプルギスについて聞きたいだけだと説明するとマユズミは耳を大きく動かし尻尾を楽しそうに揺らし始めた。渋っていた態度を変え急くように道案内をする。
「薔薇の仔の?おやまぁおやまぁ……魔王様が……ほぉ之は之はまた、えぇいいでしょうやグラッジの処へ案内しましょうかへ」
コイツもか。俺がロゼ・ヴァルプルギスに興味があるのを面白がっている。何故位の高い臣下達はこう俺を揶揄う癖があるのか。頭痛がしてくる。
マユズミは竹林の中を歩いていき俺もその後に続いていくと竹で編まれた俺の膝くらいまでしかない大きさの籠の家が見えた。
「グラッジ、グラッジや。出ておいで」
「マユズミ様?なぁに?どうか……キャアアアアア!!!」
中から白い毛並みに耳の先が黒く染まっている妖狐が出てきて首元にはあの首飾りがついていて微かに彼女の魔力を感じる。彼女の契約している妖狐で間違いないだろう。
その妖狐は俺の姿を見た途端絶叫し慌てふためく。
「ままま、魔王様どうして!?」
「ロゼ・ヴァルプルギスについて……」
「怒ってる!?ロゼのこと!ごめんなさい!違うのロゼは悪くなくてボクがお願いしてああああ」
「待て、怒ってはいない話を」
「グラッジや落ち着き、ほれいい仔だから」
明らかに気が動転しているグラッジをマユズミと一緒に宥めてやると段々と落ち着いて来たのか逆立って膨らんでいた毛が萎んでいく。
「落ち着いたかへ?」
「……ハイ」
グラッジは何度か呼吸を整え申し訳なさそうに耳を折って返事をした。
「さて、此の仔もお話出来るみたいでうちはお暇しましょうかへ」
「えっ」
「あぁ、案内ご苦労だったなマユズミ」
マユズミはヒラヒラと手を振ってからその場を去っていく。後に残らされたこちらを見つめ怯えているのか震えている妖狐へと身を屈め視線を合わせる。
「あ、あの」
「グラッジだったか、怖がらなくていい彼女について少し聞きたいだけだ」
「ロゼの……?」
「あぁ、彼女はどんな人間だ?お前の印象で構わないから答えてくれ」
グラッジは顔を俯けてしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始める。
「ロゼは……とっても優しくて悪魔であるボクたちにも優しくしてくれて、薔薇の花が好きでお菓子もよく作ってる。甘いものが好きみたいだけど辛いのもよく食べてる。本をいつも読んでる。難しい本が多くてボクにはわからなかった。ボクらがお腹が空いてたらご飯をくれるし怪我をしていたら治してくれる。困ってたら助けてくれる。悪魔でも聖霊でもロゼは助ける。本当に優しい……でも、でもね」
グラッジはそこで言葉を詰まらせる。言葉に迷っているのか言おうか迷っているのかは分からない。だがどんな言葉も本当に彼女に対する純粋な気持ちに変わりはないような気がして俺はグラッジが話すのを静かに待ってやる。
「……自分のことは守ったりはしないんだ。人間も悪魔も聖霊も怪我をしそうなら庇うのに、自分の傷は治そうとしない。誰にも傷ついて欲しくないって言うのにロゼは傷ついてる……いつもいつもロゼは傷だらけでロゼのこと守りたいのにロゼは守らせてくれなくて……」
俯いていた顔を上げてグラッジは俺の顔を見る。そして、一つの願いを言った。
「ねぇ魔王様」
「なんだ」
「魔王様ならロゼのこと守ってくれる?」
「……どうだろうな」
大切な同胞の頼みだ、断りたくはない。彼女の人となりもわかった。だが俺自身が彼女を守りたいと想うかはまだ分からない。俺は彼女のことをもっと知らなければならない気がする。
肯定の言葉の代わりにグラッジの頭を撫でてやる。
「教えてくれてありがとうグラッジ」
「魔王様はロゼのこと好き?」
「どうだろうな」
俺は笑ってはぐらかす。俺が本当に彼女に惚れているのか、ただ物珍しいものへの好奇心なのかはっきりとはしていない。だからこそ彼女のことをよく知りたいと思う
「グラッジ、彼女は今何処にいる?」
「ロゼは今お仕事に出ちゃってるよ」
「仕事?」
「うん、管理者のお仕事。ご飯食べないで出ていったから大丈夫かなぁ」
管理者。確か強い魔法使いや聖者で集められた人間が悪魔や聖霊に関する事を取り締まる組織だったか。
なるほど、彼女のあの強い魔力とウィスパーのような高位の悪魔と契約している実力ならば選ばれるはずだろう。
(食事をしていないのか……甘いものが好きだと言っていたな)
「なぁグラッジ、彼女の家まで案内してくれるか?」
「ロゼに会うの魔王様?」
「あぁ、会って話がしたい」
「うん!ならいいよ任して!」
頼もしい返事をしてくれたグラッジの頭をわしわしを撫でる。素直でいい悪魔だ。
グラッジを小脇に抱え、彼女の家へ行く前に一度魔王城まで戻り手土産を持ってから彼女の家を目指す。下に降ろしたグラッジがゲートを開きその後に続くと何処かの屋敷の廊下に出た。ここが彼女の家だろうか。
「ここがロゼの住んでるヴァルプルギスのお家だよ」
「ここが……」
「この扉の先がロゼのお部屋」
辺りはしんと静まっていた。廊下を見渡しても人の気配を感じない。屋敷自体には人間や屋敷に仕える悪魔がいるのは分かる。だが彼女の部屋の周りだけ異様なまでに深閑としていた。
そもそもこの区画にある部屋はこの部屋だけのようだ。まるで幽閉部屋のような造りになっている。あまりにも奇妙な屋敷だと感じた。
「グラッジ案内ご苦労だった、後は俺一人で大丈夫だ」
「うん!ロゼのことよろしくね魔王様!」
グラッジに礼を言うと、元気のいい返事をしてグラッジは魔界へと帰って行った。
さて、家主、それも女性が帰って来る前に部屋に入るのは嫌われ兼ねないので大人しく廊下で待つが、暗すぎるな。空は曇り模様で月明かりもないが元々照明が少ない。
廊下の突き当たりの曲がり角からこの部屋の扉まで二十メートルはあるか、それなりに長い廊下ではあるがその間に照明は魔力式の小さな壁掛けランプが二つ、扉の前と廊下の中間辺りにあるだけでそれがより一層この区画の物寂しさを強調しているようだ。
(何故彼女はこんな場所に?自ら望んだのか、それとも……)
ヴァルプルギス家に来て聞くことが増えたなと考えながら彼女の帰りを待ち続ける。時間を確認していなかったが二十二時は過ぎている頃だろう。
ウィスパーから聞いた話なら彼女はまだ学生だったはず。人間の娘が外を出歩くには遅い時間だろう。夜は悪魔の時間、人間共が恐れる時間だ。管理者の仕事が面倒な内容なら夜明けまで帰れないこともあるだろう。
いつから、いつから彼女はこんな生活を送っているのだろうか。
一つ、また一つと疑問が溢れ出す。このまま時間が経てば頭が混乱しそうだなと思考していた時、近づいてくる気配を感じて廊下の先に目を向ける。屋敷全体にも薄くだが彼女の魔力を感じていたがそれよりもはっきりと魔力を感じる。彼女が帰ってきたとみて間違いないだろう。
廊下から彼女が現れるのを今か今かと待ち、曲がり角から出てきた彼女の姿を見て目を見張った。
「お前その怪我はどうした?」
怪我。そう怪我だ、彼女の細い左腕の二の腕に何かに穿たれた穴が出来ていた。血は止まってはいるようだがそれでも普通の人間なら重症の内に入る怪我だろう。どうして平然としているんだ。思わず扉の前から彼女のいる場所まで早歩きで距離を詰める。
俺が居ることに驚いたのか彼女は少しだけ間を置いてゆっくりと答えてくれた。
「仕事で……味方を庇っただけよ。なんてことないわ」
「そんなわけないだろ……肉が抉れているんだぞ……お前は人間だ、人間は脆い……お前だって」
「私は平気よ。私は魔女だから死んだりしないわ……この傷もすぐに治るから平気、平気だから」
視線を落として話す彼女の顔は影が深かった。あの花の様な笑顔を見せていた時とは正反対の感情を押し殺す様な人形じみた表情に俺は戸惑うしかなかった。そんな顔をしないで欲しい。
どう言葉を掛けようか考えあぐねていると彼女の方から質問してきた。
「ところでどうして貴方が私の部屋の前にいるのかしら?」
「少し……話がしたいと思ってお前の契約をしている悪魔にここまで案内を頼んだ」
「そうだったの私に話って……あらそれは?」
話の途中で俺の手に持っていた手籠に気づいたのか興味深そうにそちらに目線を向けていた。
手籠の中にはここに来る前に魔王城でパペティアに用意させた木苺のタルトが入っている。
「食事がまだだと聞いて良ければと思ったのだが」
「まぁ気が利くのね……ふふっそうねここで立ち話もなんだから中でお茶にしましょう。お茶をするためにお客様が部屋に尋ねて来たのなんて久々ね」
表情のない顔を崩し少し嬉しそうに笑って彼女は俺を部屋へと入れてくれた。良かった、笑ってくれたと僅かに安堵する。
部屋に入ると中はそれなりに広い造りをしていた。公爵家の屋敷らしい凝った装飾の壁や天井に天蓋付きの寝台、だが家具は彼女趣味なのか派手さはなく上品なもので統一されている。大きな本棚には多くの書物が並び前に置かれた机には読みかけなのか数冊の本が置かれていた。
窓際の机の周りには魔法で使うのか薬品や植物など多くのものが置かれている。
扉の近くには何故か茶汲み程度しか出来ないだろうが台所まである。そこでお茶の準備を始める彼女に問いかける。
「この部屋は前からあるのか?」
「えぇ、この屋敷が出来た時からあるそうよ。ここは代々のヴァルプルギス家の魔女の為の部屋なの」
「魔女の為?」
「ヴァルプルギス家には時折強い魔力を持つ女性が生まれるの。それを魔女と呼ぶのよ。魔女は家の象徴のようなものだからその魔女が魔法の研究や過ごしやすいように屋敷の北側にこの部屋が造られたのよ」
家の象徴たる魔女達の部屋。魔女の為というがやはり、まるで恐ろしいものを閉じ込める為の部屋の様に俺には感じられる。
盆にティーポットとティーカップを二つと二枚の空き皿を載せて彼女が本棚の前の丸い机へと歩いて行く。三つある椅子の一つを手を向けて座るようにと示してくれた。
「さぁどうぞ座ってちょうだい」
俺は黙って歩いていき手籠を机の上に置いて椅子に座る。
怪我を気にせずお茶を注ぐ彼女を見つめる。痛くはないのだろうか。痛いはずだろう普通は。
痛くはないのかと、聞こうとしたところで彼女から先に喋り出した。
「その中は何が入っているのかしら?」
「あ、あぁこれは」
彼女は籠の中身が気になるようでじっと見ている。上にかけられていた布を取り木苺のタルトを見せてやると彼女は目を輝かせた。
「タルト!まぁ木苺のタルトね!」
「好きなのか?」
「えぇ好きよ。木苺好きなの」
本当に好きなのだろう彼女の方に手籠を寄せてやるとテキパキとあらかじめ切り分けられていたタルトを皿に取り分けて行く。
「本当に頂いても?」
「あぁ、甘いものは好きではない。俺の分は要らないからお前だけで食べるといい」
「そうなの?じゃあ頂くわ」
そう言うと彼女は黙々とタルトを食べ始める。どのくらい食べるのか分からず一ホール丸ごと持って来たのだが、余程空腹だったのかみるみるうちに一切れまた一切れと減っていくタルトを見てこれで正解だったようだ。
腕の傷も先程よりも回復する速度が上がっているような気がする。そこで先刻聞きそびれた事を口にしてみる。
「傷は痛くはないのか」
「慣れているから大丈夫よ」
それはつまり痛いという事だろうが。美味しそうにタルトを頬張る彼女の顔色は痛みを感じているようには見えないが痛む事には変わりないだろう。
悲壮感は感じられないがどこか諦観している様に見える。どうしてそこまで自己犠牲的なのかこの少女は。
いつの間にかタルトを綺麗に食べ終えていた満足したように優雅に紅茶を啜っている。
「ふぅ……ごちそうさま。美味しかったわ」
「それは良かった」
あの暗い顔ではなく穏やかな笑みを浮かべる彼女を見て良かったと本当に思う。そして今ようやく自覚した。自分がこの影のある少女に惚れていることに。悲しそうな顔をして欲しくない、笑っていて欲しい。傷ついてなど欲しくない。どうしたら心を開いてくれるだろうか。
淹れられた紅茶を飲み干し席を立つ。こちらを見上げる彼女に微笑んで別れの挨拶をする。
「また来る」
そう言い手籠を持って部屋を出ていきゲート開いて魔王城へと帰っていく。
俺はまだ、この胸に沸々と湧き上がるもう一つの感情を分かってはいない。彼女の事もまだ知らない事ばかりだ。よく知りもせずに守りたいなどと言う事は出来ない。だからこれから彼女の事を知っていこうと決意した。
また菓子を持って彼女の元へ尋ねようと。
前2話分くらいの長さなのにここまで読んで下さりありがとうございます!
やっと関係が出来始めここから物語が進展していく予定ですので頑張って最後まで書き切りたいと思います!
リアルの仕事が忙しく更新が遅れる事がありますが今後とも更新をお待ちください!