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「あの、待ってください!」

 よく通る、男の子の高い声が道端に響いた。誰か呼ばれているみたいだなと、辺りを軽く見回しつつ歩を進める。


「そんな、私には関係ありませんって感じで無視して行かないでくださいよ、実咲さんっ」

「えっ?」

 思いがけないご指名に振り向くと、学生服を着た少年が安堵したような表情で近づいて来た。


「良かった。お名前、実咲さんで合っていたんですね」

「悪いけど、名前を呼ばれるような知り合いに君みたいな子はいなかったはずなんだけど」

 眉を寄せて抗議をすると、少年は大きく頭を下げた。


「俺、先週にあなたにここで助けてもらった者で、春日井裕也と言います。その節はありがとうございました!」

「ああ、あの時の……」


 バイクが異形を避けてスリップをした時に、轢かれそうになっていた学生だ。顔なんてまともに見ていなかったから、説明をされるまで気が付かなかった。


「お礼を言ってもらうようなことは、何もしていないよ。バイクは止まって事故にはならなかったし、誰も怪我をしなくて良かったよね」

「何もしていないなんて、そんなことないです!あの時、突っ込んでくるバイクに驚いて、俺は身体が委縮して動けなかったんです。絶対に轢かれると思いました。それを実咲さんは庇ってくれたんです」

「単に無鉄砲なだけだよ。それより、どうして私の名前を知っているの?」


 あの時、私は特に名乗るようなことはしなかったはずだ。ねずみモドキを誘き寄せるために、早々に場所を移動したのだから。


「あなたが立ち去った後で、血相を変えて駆けてきた高校生に聞かれたんです。『実咲はどうした』って」

「ああ……そうだったんだ」

 彼の言う高校生とは彼方のことだろう。本当にタイミング悪く、見られたものだと思う。


「俺、あの時はパニックになっていて、実咲さんが制服を着ていたのは分かったけど、どこの高校の制服かまでは覚えていなかったんです。だから、お礼を言いたくても言えなくて、ここであなたが通りかかるのを待つしかなかったんですよ」

「あれから一週間ぐらい経っているけど、ずっと私を待っていたの?」

「はい。なかなか会えないので、今日はいつもより早くここに来てみたんですが正解でした」


 件の日は委員会の仕事があったために、普段よりも帰宅時間が遅かったのだ。その時間を目安に私を待ち構えていたなら、会うはずがない。


「実咲さんにきちんとお礼をしたいんです。休日に改めて会ってもらえませんか?」

「そんな大げさな。一週間も私を待ってくれていたことで君の気持ちは受けとったから、それで十分だよ」

「そう言わずにお願いします!」


 必要ないからと横に振った私の右手を取り、春日井君は懇願するように訴えてくる。その姿がユフラシアに置いてくる形となった少年の泣き縋る姿と重なって、一瞬身体が硬直した。


「あっ、すみません。勝手に手を握ったりして」

 真っ赤になった春日井君が、慌てて手を離す。清潔感のある整った容姿で異性に好かれそうなタイプなのに、顔を赤くしている様子がなんだか初々しく感じて、思わず口元に笑みが浮かんだ。


「大丈夫、気にしないで」

「俺、実咲さんみたいに綺麗な人に触ってしまうなんて、すっごく恐れ多いことをした気分です」

「えええっ!?」


 綺麗な人だなんて、生まれて初めて言われた。自分のことをそんな風に評価されたことなど一度もない。向こうの世界では仲間から、戦う姿を冗談半分に「凛々しい」とか「恰好良い」とか言い囃されたことはあったけれど。こちらの世界では幼い頃に無条件で与えられた「可愛い」という褒め言葉がせいぜいだ。


「綺麗だなんて持ち上げすぎだよ」

「とんでもない。実咲さんのように、身を捨てて他人を庇えるような心の綺麗な人はそうはいません!それに俺を助けてくれた時の、あの神々しいまでの美しい姿。俺は一生忘れない」


 ずいぶん美化されているなと、心中で苦笑する。窮地を救ってくれた相手は、どうしても良く見えてしまうのだろう。助けた対象に過剰に褒め称えられること自体は、今までに何度も経験してきている。

 何やら盛り上がっている彼には悪いけれど、あまり係わりたくはない。気持ちだけ受けとって、さっさと立ち去ってしまおう。


 ―――そう思っていた。彼の次の言葉を聞くまでは。


「俺、誰にも言ってませんから」

「……何を?」


 意味ありげな物言いに、精神的に警戒のための構えを取る。


 バイクを遮るために、私が空気の壁を作ったことに気付いたとでも言うのだろうか。……そんなはずはない。彼は私の後ろにいたし、例え見えたとしても空気を物体化して扱うなど、こちらの世界ではそうと認識できるはずがないのだから。

 あるいは、ねずみモドキを退治しているところを見られていたとか……?


 焦燥を隠し努めて平静を装った私に、春日井君は濁りのない目で言葉を放った。


「俺をバイクから庇ってくれた時、あなたのうなじに青い模様が浮かんで、背中には光を纏った透明な翼が現れたんです。……とても綺麗だった。状況も忘れて見惚れてしまうほどに」


 彼が語るその内容に、言葉を失う。それは私自身も知らない事実だった。


 身体に浮かぶ青い痣に、変化を遂げた姿。

 ―――それはあの世界における、異形の証だった。

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