八 不安
目の前の光景に、アクラブは呆れた。
「ターシャ、これは何?」
「ハイヤトゥン様から奥様へと」
「それは理解したわ。でも、これは何?」
「シエスタの焼き菓子です。それに、砂糖菓子も」
匂いだけで吐き気がするような量のお菓子。
「片づけて」
「は?」
「すぐに片づけて」
「奥様?」
アクラブはターシャを睨んだ。
「あの、腑抜け国王! 国庫を無駄遣いすんな!」
思わず素を出して叫んだ。
いくら税が無いとはいえ好き勝手に使いすぎだろ。
アクラブは憎い それ を見て思う。
「奥様、いくら奥様とは言えハイヤトゥン様を愚弄するような行為は」
「良いの。私が許す。早くそれ片づけて。吐きそう……」
「は?」
「私は! 私はお菓子が大嫌いなの!」
そう、アクラブはお菓子が、甘いものが大嫌いだ。
何の拷問だと言わんばかりに焼き菓子の山を見る。
「で、では氷菓子などは?」
「いらない。片づけて。あ、捨てるとか言ったら撃つわよ? 全部食べて頂戴。使用人全員使ってでも。そして私の視界にそれを入れないで」
菓子の甘い匂いでアクラブは不機嫌だった。
思わず長銃に手が伸びる程。
「毒が入ってるならまだしも普通のお菓子を持ってくるなんて悪趣味にも程があるわ」
「毒が入っている方が悪趣味です。普通は」
「私は普通じゃないもの」
アクラブは言う。
実際アクラブは毒に耐性がある。むしろ自分の体で毒を精製してしまうのだ。
「いいからすぐに片づけて」
「かしこまりました」
ターシャが折れた。
しかし、彼女はこの世に甘味嫌いの女が居ることが信じられないと言わんばかりにアクラブを見る。
だが、ターシャは優秀な使用人だった。
綺麗に並べられていた大量のお菓子を盆に戻し、部屋を出た。
アクラブはため息を吐く。
私はいつまでこの檻にいなくてはいけないのだろう。
抜け出してしまおうか。
敬愛する国王の求婚はとても畏れ多いことだが、アクラブにとってそれは必ずしも喜びではなかった。
アクラブには夢がある。
国王付きの護衛になるという夢が。
そのために、偏屈な暗殺者の元で何年も修業を積んだのだ。
酒場の看板娘など仮の姿でしかない。
アクラブは再び溜息を吐く。
「どうした? 浮かぬ顔をして」
「ハイヤトゥン陛下」
「ハイヤと呼べと言っているだろう」
「……申し訳ございません。ハイヤ様」
音もなく入ってくるなど驚く。
いや、考えすぎて気付かなかったのだろうか。だとすれば暗殺者失格だ。
「何か悩みでもあるのか?」
「ええ、ハイヤトゥン・ハウル国王陛下が私などという庶民の娘風情に御求婚なさったの。酷く裏切られた気分だわ」
「裏切られた? では、お嬢さんは何を望んでいるのかな?」
ハイヤトゥンは珍しくまじめくさった顔で言う。
「このアクラブには正しいと信じる夢がある」
「夢?」
「我らが祖国、ハウル69代国王陛下、ハイヤトゥン・ハウル様の護衛職に就くことよ。妻になんかされてしまったら夢どころの話じゃないわ」
アクラブはわざとらしく溜息を吐いて見せた。
「アクラブ……お前は、私の護衛になりたいのか?」
「国王陛下の、護衛になりたい。陛下の為になら命を捨てる覚悟もあるわ」
優しく頭を撫でてくれた若き国王の姿が消えない。
記憶の彼方のあの国王を信じて技を、知を、そして美を磨き上げてきたのだ。
「生憎、私に護衛など必要ないものでな」
「では、何故ターシャを?」
「あれは気紛れだ。それに、家臣たちが煩い。だが、ターシャはこれからお前の護衛になる」
ハイヤトゥンはふわりとアクラブを抱きしめる。
「私は、お前の前では国王ではなく、一人の男でありたい」
「……国王陛下はとても尊敬しています。私の生きる支えです。でも、あなたのことは嫌いよ」
嫌い。
大嫌い。
まるで呪文のようにアクラブは言う。
「何故?」
「だって、いつもふざけているようにしか見えないもの」
ハイヤトゥンは笑った。
「私は、お前を愛している。たとえ嫌われていたとしても」
きつく、それでも優しく抱きしめられる。
牢獄の中にもう一つ檻が出来たみたいだとアクラブは思う。
「……姫さん……」
「え?」
「……もう、どこにも行かないでくれ……」
まるで縋るような声。
アクラブは戸惑う。
「ハイヤ様?」
振り向けば、頬に柔らかな熱。
「アクラブ、もう少し、このままいてくれないか?」
「……今日だけですからね」
「つれないな」
微かに笑う彼はいつもどおり。
アクラブの知るふざけているようにしか見えない男だ。
「国を傾けたりしないでくださいね」
「ああ、お前の次に大切な国だからな」
「……それは、私を、一人の国民として見て?」
「……あー、それなら、民の次がお前個人で、その次が国だ」
「国は国民のことでは?」
「だが、臣は領土の拡大を望む。私はどうもそう言ったことには興味がないのだがな」
ハイヤトゥンはあくびをした。
「このまま昼寝でもしないか?」
「寝てばかりになりますよ? 私は」
「よかろう。別にお前がしなくてはいけないことなど何もないのだから」
ハイヤトゥンの言葉に、アクラブはどきりとした。
もう、自分に仕事などないと彼は言う。
つまり、アクラブの存在意義はただの人形と同じなのだ。