第4章
道は何度も調べて頭に入れていた。
峠をいくつも越えた。
山から降り車が増えると、暑さと空気の澱みが、夜になっても消えない。頬を撫でる風さえ、ザラザラと心地悪かった。
コンビニを見つけると飲み物やオニギリを買って少し休憩。そしてまた漕ぎ続けた。
でも不思議なほど疲れてはいない。
駐輪場に自転車を停めた。
ふぅ。一息ついて、見上げる。
……ついた。
コンクリートの無機質な森は、昼間の熱を保ったまま朝を迎えたようだ。
新聞配達のバイクが通り過ぎた。
……まだ起きてないかな。
もう空は白々として、いつもならとっくに起き出して、菜摘と朝のコーヒーを飲んでいる頃。
エレベーターで上がって、ドアに背を預けて座り込む。
膝に顔を埋めていると、少し眠気が来るが、車の音やエアコンの室外機の音がやけに耳につく。
山なら、この時間なら爽やかで、鳥の声や虫の声、木の葉のざわめきさえ涼しげだった。
むっとした暑さがまとわりついて、汗が残る肌が、ざらざらと気持ち悪い。
つい、比べてしまうな。と苦笑いが出る。
しばらくじっとしていた。
ガチャリと他の階のドアの開く音が聞こえて、顔を上げる。
足音が響いて消えていく。
よし。
ゆっくり立ち上がって、インターホンを押した。
ふぅー。
真っ直ぐ前を向いて、じっと待つ。
ガチャリとドアが開いた。
「ただいま」
「おかえり、哲也」
阪神の帽子を脱ぐと、父の後ろで母がハッとした顔をした。
マグカップをコトリと置いた。
壊したテレビは少し小さくなって、リビングの隅に座っていた。
破ったカーテンも色を変え、ソファーには布が掛かっていた。
「ごめんなさい」
「うん」
父は静かに哲也の顔を見ている。
母の目は潤んで、カップを持つ手がプルプルしていた。
ジーパンのポケットから、折った封筒を引き出して、テーブルに置く。
「これ......受けたい」
中の紙を広げて見せる。
高等学校卒業程度認定試験。
「願書か。間に合うのか」
「うん。お金いるんだ」
「そうか。分かった」
父がふっと笑う。
スマホを操作して差し出した。
「あ。これって」
見慣れた食器。
……昨日いや、一昨日の晩御飯。僕が切った山盛りトマトサラダと麻婆茄子。
「おばちゃん......」
父が後ろのキャビネットを指差した。
振り向くと、小さな四角のなかに、笑う自分と菜摘がいた。
……ワラビ採りの自撮り写真。
おじさんの写真の隣にあった写真が、ここにもあった。
「迎えに行ったんだ」
「え?」
「母さんの友達がSNSで探してくれてな。菜摘さんから連絡があった」
「はぁ?」
「ものすごい剣幕で怒られたよ。見つけてなかったら死んでたって」
……
「今は返せないって、この写真をくれたんだ。出た理由があるなら、自分で動くまでは絶対ダメだって。せめて生活費だけでもと思ったが、受け取ってもらえなかった」
……ケンタの時?町に降りたのは......
長ぐつや服を買ってきて、妙にテンション高かった。
「親なら信じて待ってやれって。俺達は何も言い返せなかったよ」
「おばちゃん......」
「ハハッ。お前、坊主似合ってるな」
「おばちゃんが刈ってくれた」
「そうか、汗臭いぞ。シャワー浴びてこい。かあさん、朝ごはんにしよ」
「はいはい」
母が席を立つ。
「パンと目玉焼きでいい?」
「うん。ありがとう」
昨日の夜にメールがあったそうだ。
ーー多分帰ると思います。叱らないで迎えてやってください。
……そっかぁ。
おばちゃんはお見通しか。
あ。検索履歴か?
そっかー。ブラインドタッチの人だった。バレバレやったかも。
ありがとう。僕を信じてくれて。
「無事帰ったとメールしたよ」
「ありがとう」
「少し寝なさい」
「うん。僕、バイトしたいんだ。おばちゃんにお金返さなきゃ」
「そうだな。新しいスマホもいるな」
「あー......」
「夕方買いに行こう。さぁ、寝なさい。父さん、仕事片付けたら早く帰るから」
「うん。ありがとう」
ベッドに入り、エアコンをつける。
ブゥーンと音がして冷たい風が吹き出す。
いつの間にか眠っていた。
「んー。つい作りすぎてまうな」
残り物ばかりの器を眺めながら、菜摘がため息をつく。
「ここはちょっと、盛りつけでごまかすか」
大皿を出して、チマチマ盛り付ける。
プチトマトと大葉で彩を出す。
冷蔵庫のオニギリをチンして海苔を巻いて添える。
パチリ。デジカメで撮った。
「案外悪ないやん」
画像を取り込んで、アップする。
……タグは......カフェごはん?
まあいいや。今日はこれで。
続けて見たらバレバレやけど。
気ぃつけよ。まじ作りすぎ。
あれ?
またフォロワー増えてるやん。
アイコンはふきのとう。
ふーん。どんな人かなぁ。
なんや。まだ何もない。
ん?これはもしや......ウォッチ物件?
ふふーん。
足元で尻尾を振って見上げる犬。
「あ、ごめーん。ご飯やな、サスケ」
*
里山に、また小さな春が来たようだ。
「あったあった」
ふきのとうがあちこちに顔を出している。
しゃがみ込んでナイフで摘んで、手籠に入れる。
場所を変えてまたしゃがむ。
……お裾分けもしたいしなぁ。ちょっと多めに作ろ。
下の村に、若い夫婦が移住して来た。
おじいさんが亡くなって、空になった家に、今、小さな子供の泣き声がする。
鶏を飼い、畑仕事をしながら、旦那さんは林業をしているらしい。
宅配を預かって貰っている。月に2度ほど降りて赤ん坊の顔を見るのも、ちょっと楽しみになった。
他の村には古民家カフェが出来たとか。
いいなー。うちもほんまはやりたかった。
でも1人では無理なんよねー結局のとこ。
若い子が増えるのは活気が出ていい。
まぁうちみたいな年寄り移住者じゃ、何も活性せんわなぁ。へへへ。
「サスケー帰るよ」
トコトコとサスケが寄ってくる。
鼻周りが白くなった顔を、菜摘に向けた。
「うん。ゆっくり帰ろな」
足元を確認しながらゆっくり歩く。
少し前に、散歩の途中で何か出物はないかとごそごそしている時に、うっかり土手を転げ落ちた。あちこち打って、しばらく辛かった。骨が折れていなかったから良かったものの、這うようにして家に戻って、数日思うように動けず、食事も満足に作れなかった。
SNSで異変を察知したのか、息子に同居を打診されたけれど、断った。
1人ぼっちの山暮らしは、淋しくないと言うと嘘になる。心細いと感じることも勿論ある。
だがそれ以上に気ままな暮らしが性に合っていた。
正直、あんなに早く旦那が死ぬとは予想外だった。1人に慣れるのは最初少しきつかったが、今はもう自分のペースもできて、お金の心配もなく過ごせている。
サスケがチラッと顔を向ける。この子がいる。いつも一緒に。
「毎日女子会やもんな」
サスケが尻尾を一振りしてまた歩き出す。
冷たい風が、枝を揺らして通り過ぎていく。
病気の心配など、もうこの年ならどこにいても同じ。病院に行かない分、小さなことでグダグタと気に病むこともないし、そこは割り切れている。
だから、たとえ息子であっても、世話になる生活は、考えられない。嫁も孫もいる。生活のペースは全く違うだろう。
気を使って余生を生きるのは、自分を殺すようなものだと思う。
それに第一、街は空気が重いのだ。濁った空気が耐えられそうにない。
だから、菜摘に山を降りる選択肢はなかった。
ここで朽ちるまで、自由に暮らしたいのだ。
ヨイショっと。
崖を登って道に出る。
サスケがぴょんと飛び出して振り向く。
車1台がギリギリの細い道。もちろんめったにすれ違う車もない。
籠をぶらぶらさせながら、のんびりと歩く。
家が近づくと、サスケが走り出した。
「ワン!ワンワン!」
……あれ?何?
赤い軽自動車が1台止まっている。
……誰?
男が降りて来て、サスケの頭を撫でる。
ゆっくりと立ち上がり、こっちを向いて、手を振った。
「おばちゃん、ただいま」
「......てっちゃん.......」
菜摘の足が止まった。
サスケが二人の間を走り回っている。
哲也が近づいてくる。
「あ、ふきのとうや」
籠を覗き込んで、ニッと笑った。
「お味噌にしてよ」
「ええよ」
玄関に向かって並んで歩き出す。
「おばちゃん、僕ここに住むよ」
「え?」
「ここで仕事するから。パソコン持ってきた」
「はぁ?」
「会社も、リモートの手続きできてるねん」
「あんたは......もう.......」
「ねぇ、お腹空いた。ご飯ある?」
「炊かなあかん」
「僕が炊くから、ふきのとう味噌な」
「炊けるんかいな」
「覚えてる。と思う」
哲也がニッと笑う。
「やっぱ空気が旨いなー」
外水道でザバザバ顔を洗って、そのまま手ですくって飲む。
「うまーい。おばちゃん、タオル」
「もー。自分で取り」




