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第1章

じっとりと湿っている。

もう指一本、動かす気になれない。

......

鳥のさえずりが遠ざかっていく。

......あぁ......いってぇ......

......

……いいや.......

……

……このまま......いっちゃえば……

……どうせ……

……

もういいんだ。

そう思うと、そのまま意識が飛んだ。




      *





「うん。ええ感じ。」

炊きあがったふきのとう味噌を、丁寧に小さな保存容器にヘラで移す。

まだ出始めたばかりの硬い蕾。昨日採ってきたふきのとう。天ぷらにした残り味噌にした。味噌と砂糖をみりんで伸ばし、茹でて刻んだふきのとうを入れて、混ぜながらさっと煮詰める。

これを作ると、お待ちかねの春がやってくる。

ヘラについた味噌をぺろりとなめると、甘じょっぱい中にほろ苦さがふんわりと広がった。

「やば。ご飯進むやつ」

足元で犬が尻尾を振っている。

「サスケ、散歩か?ちょっと待って、ここ片付けてからな」

ささっと鍋を洗って伏せる。


玄関を開けると犬が飛び出した。散歩と言ってもリードなど必要ない。茶色い雑種のサスケは、案外お利口で、呼べばちゃんと戻ってくるし、あまり遠くにも行かない。

ここは、村からも離れた山の中の一軒家。年金生活になってすぐに夫婦で引っ越し、古い民家を自分達で手を入れて暮らしていたが、旦那は病気でポックリ死んでしまった。今はサスケと暮らしている。

上着を羽織り、肩からお散歩バッグをかけると、チリンと熊よけ鈴が鳴った。

長ぐつを履き、杖代わりの棒を持って菜摘が玄関を出ると、家の前を走り回っていたサスケが戻って来る。

山の空気は、この時期まだ冷たい。冬の装いから、ほんの少し春がのぞいているだけだ。

木立の新芽も出たばかりで、まだ遠くの山はうす茶色に霞んでいる。

「サスケ、今日はどっちに行こ?」


車が1台やっと通れる程の細い道を歩く。山の反対側に続く道だが、車が通ることなど見たこともない。

鬱蒼とした森は、昼間でも薄暗く、湿った空気が独特の匂いを伴ってまとわりつく。

だが、菜摘はこの匂いが好きだった。

正直山は怖い。

最近は熊が各地に出ているし、元々都会暮らしの菜摘にとっては、山の奥を歩き回ることなど到底出来はしない。

それでも、この引き込まれそうな雰囲気に惹かれ、犬を連れて歩く。

「あ、ジジババや」

道路脇の落ち葉をかき分けるように、菜摘はしゃがみ込んだ。 小さな緑色の花が、そっと頭を垂れていた。

ーー可愛いなぁ。鉢に移したいけど......去年失敗したもんなぁ。やっぱやめとこ。

よいしょ、と立ち上がる。

時折クン活に励む犬を呼び戻しながら歩いていると、突然犬が走り出した。

「もー。ちょっと待ってー」

カーブの向こうに見えなくなって、ワンワン吠えている。

ーーなんよ、動物?まさか熊ちゃうやろな。

熊よけ鈴をカチャカチャ鳴らしながら走っていくと、サスケは道の脇の藪に向かって吠えていた。

藪の斜面に、自転車が転がっているのが見える。

ーーえ?こんなとこに?

「サスケ......はぁ......はぁ.....」

犬が何かに向かって吠えている。

「どないしたん......」

膝に手を置き息を整え、崖下を見る。

ーーヒィィィ!足......足......

10歩程先の木立に引っかかるように、人の姿が見える。

ーー落ちたん?え?死んでるん?

犬を押さえながらじっと見ていると、カサリと落ち葉が鳴った。

ーー生きとるん?!

菜摘は足を取られないように、ゆっくり藪を降りた。

少年だった。だらりと力なく伸びているが、胸はゆっくりと上下していた。

頬を叩いてみるが、反応はない。

「サスケ、ステイや。ここにおって、ステイやで」

そう言うと、藪をよじ登り駆け出した。




ーーほんま鍛冶場のバカ力やわ。

なんとか少年を背負って崖をよじ登り、軽トラの荷台に載せられた。

玄関前にピッタリと軽トラをつける。

荷台を開けると、犬が飛び降りた。

ーーえっと.......先に......

玄関を開けて長ぐつを脱ぎ、車のキーをカチャリと置くと、部屋の奥から布団を引っ張り出した。

ーーよっしゃ。

軽トラに戻って、少年に掛けていた毛布をはぐと、引きずり出して背負う。

「うわぁ!」

思わず膝が落ちる。地面に着いた手を荷台に伸ばすが、

ーーあかん。もう立てん。しゃあないな......

背中に乗せたまま這って家に入り、そのまま座敷に敷いた布団の横に転がす。

「ふぅー」

ストーブに火をつけた。

汚れて湿った服を脱がせて、死んだ旦那のパジャマを着せる。ついでに傷を確認する。大きな怪我はなさそうだ。

取り敢えず掛け布団と毛布を掛けた。

やかんにお湯を沸かす間に、汚れた服を着替え、床を拭く。

「あーサスケ!足!ドロドロやんかー」

サスケの足を雑巾で拭いて、洗濯機に2人分の服を放り込んだ。

ーーこんな薄着で……財布もスマホも持ってない……森で落としたんかな。見に行かなあかんか......。いや後やな。

少年の胸がゆっくり上下するのを眺めていると、サスケが布団の足元から、モゾモゾと中に入っていった。






……

……あったかい......

……天国かな......無理かな......地獄やな.......

……

……あーいたいー......

……

……あれ?.......

…… なんで?……

……

手を動かすと、モゾッとしたものに触れた。

……

……何?......

……

……どこ?……

……

薄く目を開ける。

......

薄暗い部屋に豆電球の光。

ストーブの上のやかんが、シューシューと音を立てていた。

……

手のモゾモゾがあったかい。

……

……犬?え?犬?

撫でてみる。薄い寝息が止まった。

……

……やめて、顔舐めんな。そこ痛いー

目を開けると、目の前に犬の顔。

ベロンと鼻を舐められた。

……

「ワン!」





「あ、気がついたんか?」

サスケの声に、菜摘は様子を見に来た。

横に座って少年の顔を覗き込む。

ぼんやりと目を開けている少年の瞳が、菜摘を捉えた。

「良かった。あ、じっとしとき。頭打ってるかもしれんし。お水持ってくるな」

「お父ちゃんが使たやつやけど、綺麗に洗ってあるから」

吸い口を唇に当てて、ゆっくり傾けると、コクンコクンと喉が動いた。

「そや。おかいさん作ったろ。ちょっと待っとって」

やかんを持って台所に行き、冷蔵庫のご飯を鍋に取って湯を注いで火にかける。

ほぐしながら振り返ると、豆電球の光の下に、少年がこっちを見ていた。

塩をひとつまみ入れて、吹きこぼれないように火を弱める。

梅干しを一粒まな板に置いて、種を取って叩き、鰹節を乗せて砂糖をひとつまみと醤油を数滴混ぜ合わせる。

浅い碗に粥を薄く入れて、叩き梅を真ん中に乗せた。

お盆に乗せて匙を添え、布団の脇に置くと、電気をつけた。

「ちょっと待ってて、まだ熱いし」

奥の部屋から座椅子を取ってきて、布団の下に押し込む。少年が背を横に避けたのでグッと押し込んだ。

「ちょいごめんよ」

背もたれを低く調節してやると、少年はゆっくりと背中を預けた。

「ふぅーふぅー」

匙に粥を少しすくう。

「ふぅー」

口元に運ぶと、薄く唇が開いた。






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