食い逃げ妖精、王女の結婚式でケーキの中から現れる。
王女は、朝から十四回、
「もう少し自然にお笑いください」
と言われていた。
十五回目には、自然というものが分からなくなっていた。
鏡の前で口の端を上げれば、侍女が首を傾げる。
歯を少し見せれば、笑いすぎだと言われた。
目元をやわらかくすれば、今度は眠そうに見えるらしい。
「たいへんよろしゅうございます」
最後にはそう言われたが、王女には、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
大広間には、白い花が天井まで飾られていた。
金色の燭台には小さな火が揺れ、楽団は一音も間違えず、招待客はみな正しい席へ座っている。
隣には、王女が自分で選んだ王子がいた。
王子は朝から何度か、王女を笑わせようとしていた。
転びそうなふりをした。
王冠の中に小鳥が巣を作ったと言った。
靴を左右逆に履いてきたとも言った。
王女はどれも面白いと思った。
けれど、笑おうとした瞬間、広間中の目がこちらを向いているような気がして、頬が固くなった。
やがて、婚礼のケーキが運ばれてきた。
三段重ねの大きなケーキだった。
白いクリームには砂糖の花がいくつも咲き、細い飴細工が朝露のようにきらめいている。
一段目には森。
二段目には城。
三段目には、王女と王子をかたどった小さな砂糖人形が立っていた。
王女と王子は、銀のナイフへ手を重ねた。
拍手が止む。
広間が静かになる。
刃先が、二段目の白いクリームへ沈んだ。
そのとき。
ケーキの中で、誰かが大きなくしゃみをした。
その前の日。
リリィは、町の上をふらふら飛んでいた。
今日は特に行き先がなかった。
タルムは町外れの木陰で昼寝をしている。
リリィは一人で煙突の間を抜け、屋根の上を渡り、洗濯物にぶつかって怒られた。
そうしているうちに、甘い匂いがした。
焼けた小麦。
溶かした砂糖。
煮詰めた木苺。
たっぷり泡立てた乳の匂い。
リリィは空中で止まった。
「お菓子だ」
匂いの先には、大きな菓子店があった。
表の扉は開け放たれ、職人たちが出たり入ったりしている。
「クリームを急げ!」
「花飾りはどこだ!」
「下段を運ぶぞ。角に気をつけろ!」
店の奥には、見上げるほど大きなケーキがあった。
まだ完成していない。
丸い生地が三つ重なり、その表面には下塗りのクリームが薄くのばされている。
周囲には、果物、砂糖菓子、飴の蔓、銀の粉、白い花が山のように置かれていた。
「明日の王女さまの婚礼だぞ!」
職人の一人が叫んだ。
「絶対に失敗するな!」
リリィは窓枠へ降りた。
王女の婚礼。
それはきっと、大事なお菓子なのだろう。
大事なお菓子なら、味見も大事である。
リリィはしばらく考えた。
それから、ケーキの裏側へ回った。
表から食べれば、減ったことが分かる。
上から食べても、飾りを置くときに見つかる。
下から食べれば、台が邪魔だ。
「真ん中なら分からないね」
リリィは、二段目の側面へ飛びついた。
外側のクリームを指ですくって舐める。
ふわりと軽く、舌の上で溶けた。
後から蜂蜜の甘さがやってくる。
「おいしー!」
金色の粉が、ほんの少しこぼれた。
リリィは周囲を見た。
誰も見ていない。
もう一口だけ。
今度は顔を近づけた。
クリームの下から、柔らかな生地が現れる。
噛むと、焼いた小麦の香りがした。
その奥には、薄く切った木苺が挟まっている。
甘い。
酸っぱい。
また甘い。
「もうちょっとだけ」
リリィは穴へ頭を入れた。
さらに食べた。
肩まで入った。
もう少し食べた。
腰まで入った。
赤い木苺、黄色い蜜桃、小さな青葡萄。
内側には、外から見えなかった果物が、柔らかなクリームに包まれていた。
リリィは夢中で食べた。
やがて、羽の先までケーキの中へ入った。
外側には、小さな丸い穴だけが残った。
そのとき、店の奥で鐘が鳴った。
「休憩終わり!」
職人たちが戻ってくる。
リリィは慌てて外へ出ようとした。
しかし、狭い穴へ羽が引っかかった。
「待って」
足音が近づく。
「待って。まだいるよ」
声を出したが、口の中には生地が詰まっていた。
外では、職人が足を止めた。
「ここ、へこんでないか?」
別の職人が近づいてくる。
「運んだときにぶつけたか」
「まずいな。仕上げ前でよかった」
柔らかな生地の欠片が、穴へ押し込まれた。
その上から、冷たいクリームが塗られる。
「むぐ」
リリィは押し戻された。
へこみをならすように、職人は仕上げ用のクリームを厚く重ねていく。
穴はきれいに消えた。
最後に砂糖の花まで置かれた。
「よし。これなら分からん」
「危なかったな」
職人たちは次の作業へ移った。
ケーキの中で、リリィは暗闇に座っていた。
「閉じ込められた」
少し考えた。
目の前の壁を舐める。
「でも、おいしい」
リリィは脱出口を作ることにした。
内側から外へ向かって食べればいい。
生地をひと口。
クリームをひと舐め。
木苺をひとつ。
蜜桃もひとつ。
食べ進むたび、穴は少しずつ広がった。
けれど、穴が広がるより先に、リリィのおなかがふくらんだ。
「あと少し」
もうひと口食べた。
「あと、ちょっと」
さらにひと口食べた。
やがて、リリィはクリームの壁にもたれた。
中は暗く、甘い匂いに満ちている。
外からは、職人たちの忙しい声が聞こえた。
その声も少しずつ遠くなる。
「起きたら、出よう」
リリィは丸くなった。
枕代わりに、柔らかな生地を少しちぎる。
ひと口食べた。
それから、眠った。
翌朝。
ケーキは大きな馬車へ積まれた。
職人たちは揺れないように布を詰め、四隅を縄で固定し、ゆっくり王宮へ運んだ。
石畳を越えるたび、ケーキはわずかに揺れた。
中でリリィも揺れた。
けれど起きなかった。
王宮へ着いても起きなかった。
大広間へ運ばれても起きなかった。
楽団が演奏を始めても、眠ったままだった。
そして。
銀のナイフが、二段目のクリームへ沈んだ。
ケーキの内側が、ぴくりと揺れた。
眠っていたリリィの鼻先へ、細かな砂糖の粉が落ちてくる。
「……むずむずする」
もう一度、粉が落ちた。
「はくしゅん!」
広間の外まで響きそうな、大きなくしゃみだった。
リリィは目を開けた。
目の前へ、銀色の刃先が突き出している。
「わっ!」
内側から生地を蹴る。
ナイフの切れ目から、クリームまみれの頭が飛び出した。
広間中が静まり返った。
リリィは周囲を見た。
花。
楽団。
正装した人々。
目の前には、銀のナイフを握った王女と王子がいる。
リリィは少し考えた。
「おはよう」
誰も答えなかった。
リリィはケーキの中から這い出した。
髪にも羽にもクリームがついている。
頭には、砂糖で作られた小さな花が引っかかっていた。
王女が尋ねた。
「あなたは、どなた?」
「リリィだよ」
「どうしてケーキの中に?」
「食べてたら閉じ込められたの」
リリィは正直に答えた。
王子が口元を押さえた。
客席のどこかから、小さな笑い声が漏れた。
王女は、まだ笑わない。
リリィはケーキの上へ立ち、羽を広げた。
飛ぼうとした。
しかし、クリームの重さで羽が動かなかった。
そのまま前へ倒れる。
ぽすん。
王女の胸元へ飛び込んだ。
白い婚礼衣装に、丸いクリームの跡がついた。
侍女が息を呑む。
王子が今度こそ吹き出した。
リリィは王女の腕をよじ登り、王冠へ乗った。
「高いね」
王冠の先から、王子を見下ろす。
「そっちの人、靴が左右逆だよ」
広間が静かになった。
王女が王子の足を見る。
本当に左右逆だった。
王子は朝から王女を笑わせるため、わざと履き違えていた。
誰にも気づかれていなかった。
王女の口元が震えた。
王子が困ったように笑う。
王冠の上では、クリームまみれの妖精が胸を張っている。
王女は、ついに笑った。
最初は、小さく。
それから、肩を揺らして。
朝から練習した笑い方とは、まるで違っていた。
王子も笑った。
客たちも笑った。
楽団の一人が間違えて音を鳴らし、それでまた笑いが広がった。
王女の王冠から、金色の粉がこぼれた。
リリィの羽についていた粉だった。
粉は婚礼ケーキへ降りかかる。
砂糖細工の花が、ひとつずつ開いた。
白い花。
赤い花。
薄青い花。
甘い香りを広間いっぱいに放ちながら、ケーキの上に本物の花が咲いていく。
天井から吊られていた花々も、光を受けてきらめいた。
王女は、咲いた花を見つめた。
「まあ」
リリィは王冠の上で、残っていたクリームを指ですくった。
「おいしー!」
王女はまた笑った。
しばらくして、菓子職人が人混みをかき分けてきた。
ケーキの穴を見る。
リリィを見る。
もう一度、穴を見る。
「おまえか!」
リリィの羽が、ようやく動いた。
「たいへん」
「代金を払え!」
「ないよ!」
「捕まえろ!」
リリィは王冠から飛び立った。
クリームを振りまきながら、花飾りの間を抜け、楽団の上を越え、開いていた窓から外へ飛び出す。
王女は窓辺まで追いかけた。
小さな妖精は、王宮の屋根を越え、町の向こうへ逃げていく。
その後ろを、菓子職人たちが走っていた。
王女は、また笑った。
その日から、王家の婚礼ケーキには、小さな扉がひとつ付けられるようになった。
妖精が中へ入らないためではない。
入った妖精が、食べ終わったあとに出られるようにするためだった。
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