古池 -01-
鎖国初期の話。3/3部作
彼と彼女と僕。
彼女は明るく、笑顔がかわいらしい人だった。中学2年生の頃は。
僕が初めて彼女と会ったのは、首都圏からだいぶ離れた父の地元についていった時のことだ。そこは父の一族と古くからゆかりのある土地で、国会議員を務める父の地盤でもある。
高い建物が見当たらないその土地で見上げる空はとても広く、まだ冬の名残を感じさせる冷たい風とは裏腹に、雪解けとともに潤み始め、限りなく薄めた青。はるか上空には、紗のような白い雲が薄くたなびいている。
その日は、家族円満であることをアピールするために、父の後援会が催すパーティに参加していた。
最初に挨拶させられた後援会会長だという爺さんは、その地方で一番大きな私立病院の理事長を務めているらしい。爺さんとは言っても、元も体格が良いのだろう伸びた背にスーツ姿は若々しく、しわくちゃの手にごつい金色の結婚指輪がぎらぎらと反射していた。
「豊成君も大きくなりましたね、うちの孫娘の一つ下だったかな?」
「おかげさまで中学生になりました」
「利発そうな顔つきだ、将来が楽しみですな」
大きな声でどこか芝居がかった賛辞。僕は父に促されて頭を下げる。きちんと締めさせられた仕立てたばかりの学生服の詰襟が苦しい。
「家内に似たのかしっかりしていますよ」
家の中では決してそんなことを言わない人だ。だけど、この頃の僕は、人前では愚息だと言われずに、母とともに褒められることが嬉しかった。
まだ子供だった僕は、彼が誇ることができるよう成績を維持するために努力もしていたし、実際に、父は良い息子を持ったと思ってくれていると純粋に信じてもいたから。
「ほら、こっちに来て、おまえも挨拶を」
「おじいさま、」
婦人たちに混じり、会場の準備をしていた少年――いや、少女が駆け寄ってくる。女の子にしては随分と短い髪に、まだ未分化の中性的な体つき。華奢な骨格なのに、僕よりも高い身長と落ち着いた少し低い声が彼女の性別を曖昧にしている。
後援会会長の孫娘だと紹介された彼女は、にこ、と笑みを浮かべて挨拶をした。
子供自体があまりいない場で退屈を持て余すであろうと僕にあてがわれた彼女は、そのパーティの間、時には中庭に抜け出したりしながら一緒に過ごした。
その時、僕は思ったのだ。
なんだか、彼女が苦手だな、と。
どう苦手なのか、と聞かれればうまく説明はできない。
だけど、彼女の一見明るい態度は、子どもの僕から見ればあまりにも不自然な大人が望むいい子ちゃんのそれで、まるで大人が望む素直な子供を演じているかのような賢らしい従順さと、さらには、大人がいない場所にあっても大人の都合で振り回されることに不平も言わず、それは、大人たちの庇護と愛情を欲しがる愚鈍な一途さで――いや、これらすべては後付けで考えた理由で、とにかく僕は彼女が苦手だったのだ。
幸いと言っていいのかどうかはわからないけれど、結局、僕が彼女と過ごしたのはその日の数時間だけだった。
次の年に、僕が父に連れられて参加したパーティでは、彼女は受験を控えているからといって、姿を見せず、代わりに後援会会長の息子の新しい奥さんと、彼女の連れ子がいた。
彼女の母親が5年ほど前に脳溢血で倒れた後、ずっと植物状態で入院していたことは知っていた。そして、先のパーティの後に亡くなったことも、その葬儀に参列するために父が準備するのを見ていたから知っている。
だけど、後援会会長の息子であり、病院の院長を務める彼女の父親が、初盆が終わった頃に再婚をしたことを知ったのは、そのパーティでのことだった。
後妻に納まった女性は、前妻が眠っている間も院長に寄り添い支えてきたらしく、周りの大人たちは、僕にしてみたらあまりにも早すぎると思う再婚を美談として賛美するように振舞っていた。
新しい奥様の連れ子は、10歳になる男の子だった。
少し複雑な境遇であることを感じさせない、無邪気さと腕白さを兼ね備えていて、大人に対しても物怖じすることなどない生意気な態度は、かえって可愛がられているようだった。
正直、思春期に片足を突っ込んでいた僕は辟易としてしまい、早々に彼から距離を取ってしまったけれど。
意外だったのは会長のその子に対する態度だった。
常々、一族の在り方や血のつながりを重視するようなことをよく口にする彼は、その子を実の孫のように――実の孫娘よりも溺愛しているようだった。血が繋がらないことになっている連れ子にもかかわらず。
そして、口さがない大人から引き離す役目がいないパーティで、僕は冷めた料理を口にしながら、大人たちのうわさ話に耳を澄ませていた。
「新しい奥方、院長の奥様が倒れた後すぐに離婚したらしいよ」
「元旦那は院長派の中堅医師らしいね、」
「なんでも10年前に愛人をお下がりしたって、」
「じゃあ、あの男の子の本当の父親は――」
なんだ。妻が眠る前から寄り添っていたんじゃないか。
そして、やっぱりあの爺さんは血のつながりを重視しているらしい。
「じゃあ、後継ぎに?」
「養子縁組までしたってことはそうだろうね」
「今から媚び売っておくかい?」
「孫娘さんはどうするのかしら? 医者になるんだってお勉強、頑張ってたのに」
「あの病院、外科を売りにしてるからな」
「どういうこと?」
「女に意識のない男の身体を支えながら、治療できるのかってことだよ」
「女性医師は体力がないからすぐ皮膚科に逃げる」
「ちょっと、」
「なによ、最新のアシストマシンを使えば力がなくったって」
「いや、君らのことじゃないよ。美容外科だって立派な外科だ」
「……アナタの奥さん、この前ヒアルロン酸射ちに来てたわよ。いったい誰のためにキレイなろうとしてるのかしら」
「へえ、いいこと聞いた。オレも若い女に乗り換えようかな」
とんだ茶番じゃないか。
大人たちのうわさ話にも飽きて、僕は料亭の庭へと逃げた。
手の込んだ日本庭園は、昨年彼女と歩いた景色と変わらない。
僕はゆがめられた松の枝の向こうにある空を見上げた。
高い建物が見当たらないこの土地の空はとても広く、空っぽだ。
空虚な空には紗のような白い雲が薄くたなびき、上空を奔る風がなにも邪魔されることなく速いスピードで流れている。
僕が退屈を持て余さないよう、日本庭園の説明をしてくれた彼女の、ゆっくりと話す低い声を思い出す。僕の様子を伺いながら、どうにか楽しんでもらおうとする臆病さにも似た健気さと、いじらしさ。
それから、相手の都合など考えもしない、相手に合わせてもらうことに慣れ切った少年の無垢なやんちゃさも。
なんとなく、僕と気が合わないからってだけじゃなくて、彼女がこの場に居なくてよかったと思った。




