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彼 -02-

 彼女は明るく社交的で、人のいいところ探しが上手で、見返りもなく優しくすること、親切にすることに抵抗がない、まるで聖女みたいな人だった。


「あの、これ。この前はありがとう」

「……、」


 一週間後の講義が始まる前、教室に入ってきた僕に彼女が差し出したのは、先日貸したものと同じ型のモバイルバッテリーである。

 ただし、未開封の新品だ。

 僕が困惑して彼女を見返せば、彼女は焦ったように口を開いた。


「あのね、借りたの容量大きくていいなって思って、わたしも同じの欲しくなったんだ。でもね、ピンクがもうなくて、だから、その、借りたピンクのもらってもいいかな? 代わりにこれは()なんだけど、」

「……劣化してるかもしれないのに?」

「それでもいいから、だめ?」

「別にいいけど。むしろありがと」


 彼女の手から新品のモバイルバッテリーを受け取れば、彼女はほっとしたように眉尻を下げる。いつもの席に着こうとすれば、彼女は僕の後ろを小走りについてきた。

 何か言いたげな彼女に、僕が「なに?」と促せば。


「今度、友達とバーベキューするんだけど来ない? サークルってほどの集まりじゃないんだけど、」

「遠慮しとく。……中はいる?」


 通路側の席に着く前に、尋ねれば、彼女は小さく頷いた。僕の前を通り過ぎるその時に、ふわりと、石鹸のような清潔な香りが鼻腔をくすぐる。

 彼女が中の席へと腰かけると、僕も通路側の席へと座った。


「バーベキュー嫌い? 男子も来るし、友達誘って来てくれてもいいし。参加する子たちみんないい子だよ」

「嫌いと言うか、バーベキューとか焼肉は難しいんだ。肉が焼けたかわからないから、焼くの手伝えないし」

「あ……大丈夫! わたしが焼くよ! 皆も焼いてくれるし」

「色覚特性なの隠してるわけじゃないけど、わざわざそういう場に行って誰かの手を借りたいと思わないだけ」

「そ、そっか」

「……」


 僕の断わりに彼女がしょげたように項垂れるのを見て、少しだけ罪悪感に襲われる。確かに言い方は他にあったかもしれないけど、僕は悪くないはずだ。なのに、とても気まずい。

 何かフォローを入れたいと思ったけれど、普段から一人で行動する僕が、気が利いた言葉を思いつくわけもない。


 そして、デイバッグから電子ノートと併用しているメモ帳を出したところでチャイムが鳴り、時間通りに教授が教室へと入ってきた。



「じゃあさ、わたしとおでかけ(・・・・)しない?」

「おでかけ?」


 授業が終わると同時に、彼女は再び僕に話しかけてきた。

 僕が電子ノートの電源を切りながら、彼女を見やれば、彼女は真剣な表情を浮かべていた。何やら深刻そうですらある。


「うん、どうしてもお礼がしたくて」

「お礼ならもらったけど、」


 電子ノートをデイバッグに入れるついでに、先ほど彼女からもらった新品のモバイルバッテリーをちら見せすれば、彼女は頭を振る。ふわり、と清潔な彼女の香りが香った。


「それは交換しただけ、お礼じゃない。何ならわたしがピンク色、欲しかったんだし」

「……別にいいけど、」

「ほんと!? じゃあ、詳細はまた連絡する。わたし、この後も授業とってるから行くね!」


 彼女の勢いに圧倒されて思わず頷けば、彼女は、ぱっと笑みを浮かべた。まるでヒマワリみたいな笑みだ、なんて柄にもないことを思う。

 彼女はご機嫌そうに自分の荷物をバッグに突っ込むと席を立った。





 彼女が指定してきたのは、園内に動物園や劇場、それから美術館がある大きな公園だった。

 僕は人が行きかう最寄りの改札口を出ると、目立つ大きな樹の下に移動した。

 春が終わり、世界に明確なコントラストを生みだす強い日差しが降り注ぐ。しかし初夏の暑さは木陰では息を潜め、ひんやりとした空気が肌を撫でる。


 まさか、いわゆるデートスポットに呼び出されるとは思っていなかった僕は、少しだけ緊張していた。


「お待たせ! 待った?」

「いや、……5分前運動が染みついてるだけ、」

「……15分前だよ?」

「電車の時間に合わせたんだ」


 思わず、今来たとこ、と言いそうになったけど、べたな返しが嫌で誤魔化せば、彼女に11時15分を示す携帯情報端末の表示画面を見せつけられながら混ぜっ返された。しょうがないので下手な言い訳を重ねれば、彼女はおかしそうに目を細める。


「まずはランチにしようよ、」


 そう言って、彼女は公園内にあるカフェに僕を連れ込んだ。一人だったら絶対に入らないようなお店で、一人だったら絶対に頼まないようなランチプレートを頼む(さらに言えば彼女が選んだ席は、多分一生座らないだろうと思っていたパティオだった)。


「それで、今日は」

「まぁまぁ、」


 今日はどこに連れていかれるのか尋ねるもののその都度はぐらかされる。代わりに振られるのは、他愛もない大学の話や友人のこと、少しだけ踏み込んだ高校や義務教育中の出来事だ。


 いっそ不自然なほど僕の視界に関すること、これから行くところの話は出ない。と、思っていたら、食後の紅茶(彼女はコーヒーだった)が運ばれてきたあたりで、彼女は自分のバッグをごそごそと探りだした。


 どうでもいいけど、彼女はバッグの中から物をすっと取り出したことがない。おそらく、バッグの中が汚いタイプなんじゃないかな?

 少しだけ呆れていると、彼女は意味ありげに僕に視線を投げてきた。


「探しものは見つかった?」

「あのね、お礼なんだけど」

「うん、」

「これ、良かったらかけてみて」


 そういって差し出されたのはよくあるハードタイプの眼鏡ケースだ。

 僕がケースを開ければ、なんとなくそうじゃないか、と想像していたものが入っていた。表面に加工がされている、サングラスではないレンズ――色覚眼鏡だ。


「もしかして持ってる?」

「……いや。小学校の頃、親に作ろうかって言われて、一回検討したけど、日常生活を不自由に思ったことないから、いいやってなったな」

「そっか。医療用のオーダーメイドのもあるらしいんだけど。そういうのじゃなくて、お試し用のが意外に安くて」


 少し焦ったように饒舌になる彼女を横目に、僕は眼鏡を取り出すと、レンズ越しに日の光が溢れる公園を見やる。


 びっくりするほど鮮やかな若葉が、太陽光を浴びて輝いていた。

 何より、今まで気に留めていなかった花が咲いていたことに気が付いた。


 思わず絶句した僕は、もう一度、レンズをずらす。あっという間に木々の間に溶け込む花はその輪郭を曖昧にする。


 以前、検討した時はこんなに視界が変化しただろうか。

 むしろ、薄暗くなった視界と、眼鏡の重さが不快だった記憶しかない。

 技術の進歩なのか、調光された室内灯ではなく、初夏の強い日光のおかげなのか。


 確かめるために、今度はちゃんと眼鏡をかけてみる。

 途端、眩しかった日差しはむしろ緩和され、鮮やかなケヤキの若葉と、茂る低木から浮き出るように咲き誇る花の色。


「どう?」

「……花が、咲いてる」

「え? あぁ、ツツジ? 綺麗だよね……ねえ、こっち見て」


 彼女に促され、彼女へと視線を移せば、彼女は悪戯っぽく微笑んでいた。なにより、彼女の唇が、頬が――


「わたしの指先見て」


 僕の思考を遮るように、彼女はテーブルの上を指先で小突いた。

 なぜか焦ったように促されるまま視線を落とす。

 テーブルの上には広げられた彼女の左手。

 そして気が付く。彼女の指先を彩る爪が、すべて異なる色相を呈していることに。


 彼女は、右の人差し指で、自分の親指の爪を示した。


「青……()は見えるんだよね?」


 見えるというか、区別がつく色だ。僕が小さく顎を引いて同意すれば、彼女は口元に笑みを浮かべながら、親指から順に右の人差し指をずらしていく。


「緑、」


 人差し指。左の人差し指の爪をさす、右の人差し指の爪も同じ色。


「黄色、橙、」


 中指、薬指、と彼女の指先は滑り、そして。


「赤」


 彼女が小指の爪の色を告げる前に、僕がその色を口にする。

 僕が本当に赤色を見ているかはわからない。

 だけど、明らかに他の爪の色と異なる色相なのはわかる。


 僕はそっと彼女の小指の爪を撫でた。つるりとした硬く摩擦がない感触、まるで暖かい水晶のようだ。


「あ、ごめん。つい」

「んーん、」


 思わず触れてしまったことを謝るけれど、彼女はそもそも意に介した様子はない。さらには、満を期したというように宣言した。


「それでね、今日はゴッホ展に行きたいと思ってます!」

「え?」


 彼女の言葉に僕はまばたきを一つ。まさかの美術館である。呆気にとられた僕に彼女は楽しそうに笑う。


「ゴッホ、知ってる?」

「画家の? 名前くらいは、まあ」

「ゴッホの絵は補色がよく使われてるんだよ。青と黄、それから赤と緑」

「ふうん、」


 『()()』と言うとき、彼女はちらりと僕の機嫌をうかがうように視線を投げる。多大な好奇心の中、何故か、まるで僕がいきなり怒り出すんじゃないかと不安がるような臆病さが滲んでいるようにも思えた。


もし(・・)眼鏡が機能したなら(・・)、絵の中の赤と緑を君と一緒に見分けてみたいって思ったの……どうかな?」

「……眼鏡と裸眼で観るから一人だけ2倍楽しめて悪いな、」

「はは、何それ、そんなこと言っちゃうんだ」


 僕の返しに、彼女は声をあげて笑う。


「じゃ、行こ!」


 彼女はレシートを取り上げるとレジへと向かう。

 僕も慌てて立ち上がり、彼女の後を追う。レジ前で捕まえて、僕が払うと言えば、彼女は緩く頭を振った。ふわりと彼女の香りが鼻先を掠める。


「今日はおごるよ。お礼だもん」

「眼鏡もらったけど」

「わたしの趣味に付き合わせるからさ」


 そういって、彼女は強引に支払いを済ませてしまった。

 一足先に店を出る。強い日差しに目を眇めて、僕は振り返ると彼女に問いかける。


「ね、今日の……夕ご飯は?」

「一人暮らしだから適当だよ」

「じゃあ、焼き肉食べて帰ろうよ。僕がおごるし、焼くからさ」


 僕の提案に、彼女はぱっと表情を輝かせた。まるで太陽みたいな笑顔だな、と思った。

色覚眼鏡:見えづらい色を見えやすくする機能性色覚レンズを用いた補助眼鏡。光干渉法により、相対的に感度の強い色の光をカットすることで、感知する色調を調整しているとのこと。ネオ・ダルトン株式会社製がメガネスーパーで取り扱いあり。


ゴッホ:フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)オランダのポスト印象派の画家。


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