第31話 計り兼ねて・・・
ザッハサムでの夜から、レオンハルトの中に僅かに宿った不思議な気持ち――それを、ずっと計り兼ねていた。
気づいたら目でティアナを追っていて――
ついこの間までは、ティアナに抱かれたり膝の上に乗せられても、多少の抵抗はあるものの猫として見られているから仕方ないという思いだったのに、今では、ドクドクと動悸が早くなり、その理由が分からずに、レオンハルトは困惑していた。
そして、チェの街の疫病騒ぎの時は、どこか普通のお姫様と違うと思いつつも、世間知らずの少女だと思っていたティアナの意外な一面を知ることになる。
※
「その薬は?」
ティアナがイザベルに薬を渡すのを見ていたレオンハルトが問う。
「これ?」
くすっと苦笑したティアナは、薬を革袋にしまいながら言う。
「王宮にいた時、私が作った薬よ」
「ティアナ様が薬を……?」
レオンハルトは目を瞬かせ驚く。飲ませているところを見ると、趣味の範囲を超えていることは一目瞭然だ。
「薬を作れるなんて、すごいですね……」
ただただ感心して、レオンハルトは呟いた。
その後、イヴァン医師と真剣な眼差しで薬の話をするティアナや、疫病ついての知識を持っているジークベルトの話についていけず、焦りが胸のなかに渦巻く。自分の国の民なのに、何も成せずにいる自分が心底情けないとレオンハルトは思った。
そして――イザベルの発病。自分を責めるティアナを見て、レオンハルトの中で何かがはじけた――
レオンハルトはティアナの足にすり寄ると、涙にぬれた弱々しい瞳でレオンハルトを見つめるティアナに言った。
「瞳を輝かせて城を出たティアナ様はどこですか? 夢があるとおっしゃっていたティアナ様はどこですか? そのように自分を責めて泣いているのは、この数日、私が一緒に旅をしてきて何事にも前向きなティアナ様ではありません。泣くことはいつでも出来ます。自分が悪いとせめて起きてしまったことをただ悔いるのは、責任を投げ出した者がすること。あなたは、そんな方でしたか? 今はもっと他にやるべきことがあるのでは?」
思わず、そう言っていたレオンハルト。
レオンハルトが共に旅をしてきたティアナは、風変わりな姫で、芯の強い、自分の信念を貫く少女だった。そんなティアナが涙にぬれて、動けずにいるのならば、その背中をそっと押して支えてあげたいと、レオンハルトは思った。
「他に、やること……?」
僅かに生気を取り戻したティアナの瞳が揺れる。レオンハルトは、確固たる意志で頷く。
「まずは、もう一度王都に至急の連絡を。それから、過去に起きた疫病ならば、必ずどこかに文献があるはずです。それを探して、病を治す方法を探しましょう」
その言葉に瞳に輝きを取り戻したティアナを見て、レオンハルトは微笑んだ。まさか、彼女がレオンハルトの励まし以上に、気力で事を成し遂げるとは思わずに――
※
魔女の薬を作ると言いだしたティアナにレオンハルトは、驚きを隠せなかった。“魔女”という響きにも興味を引かれたが、それよりも何よりも――自信はないと言いつつも、その瞳に闘志のような強い輝きを宿したティアナから目が離せなかった。
「今はこれの他にいい方法が思いつかないのよ……もちろん、王都から派遣される魔導師が今はなによりも頼りだけど、手遅れになるかもしれない……。だったら、じっとして待つよりも、今やれることをやりたいの。私はどうしても、イザベルやマグダレーナやそのお母様、それにこの街の人々を救いたいのよ!」
ティアナは言って、両手を握り締め気合いを入れる。
その強い志に惹かれ始めていることに、レオンハルトは気づき始めていた。
その後、薬草を採りに行った北の森から帰ってきてすぐに長屋に籠ってしまったティアナを心配して、レオンハルトは、一人、長屋の外から声をかけたが、返答はなかった。
すでに薬の調合にかかってから十時間は経ち、食事を取っていないことも気になるし、何より、ティアナの体が心配だった。
長屋に籠る前に一瞬垣間見たティアナの顔は青ざめ、尋常ではない状態だということはすぐにわかった。その後ジークベルトから、北の森でティアナ自身も疫病に感染し、耳の下の腫れ物が出来ていることを聞いた。その瞬間からレオンハルトは、ティアナのことが心配で、胸が締め付けられるように痛んでならなかった。
発病しながらも、街の人達のために薬草を摘み、今もなお、立っているのもやっとの状態で一人長屋に籠り、薬の調合に取り掛かっているティアナの、他人のためにひた向きになる精神が――胸をかき乱す。
その情熱がどこから湧き起こるのか、それは王族としての義務感なのか、もっと内面的な物なのか――知りたいと思った。
そして、ティアナへの興味が、同じ王族しての興味なのか、一人の少女として惹かれているのか――分からなくなっていた。
レオンハルトは長屋に声をかけ続け、返事がないことに焦り、室内に滑り込む。そこには、触った者が火傷するような高熱でティアナが倒れていた。
レオンハルトは悲痛な声音で呼びかけた。その呼びかけに、ティアナは僅かに瞳を開け、定まらない視線でレオンハルトの方を向き、イヴァン医師を呼びに行こうとしたレオンハルトを震える手で引き止める。
「だい、じょう、ぶ、だか、ら……」
ティアナは言いながら、両手で上半身を支えて起き上がる。そのはずみで目眩がしたのか、倒れそうになり、右手を頭にあてながら何度も深呼吸を繰り返した。そして、きらりと光る翠の瞳でレオンハルトをしかと見据えて言った。
「私は大丈夫だから、ジークベルトを呼んでちょうだい」
ティアナはそう言うと立ち上がり、机の上の器具をいじり始めた。その姿は、先程まで高熱で気を失い倒れていたとは思えないほど、平然としている。そう思ったのは、暗がりで、ティアナの上気した頬とびっしりと顔中に浮かんだ汗が見えないせいかもしれない。
ティアナを一人にしていいものか、一瞬ためらったが、街人のために病と闘い、薬を作るティアナの姿勢に心打たれ、レオンハルトはジークベルトを呼びに白み始めた空の下を走った。
※
ジークベルトと共に長屋に戻ってから、レオンハルトは一人、長屋の扉の前に立っていた。
室内からは時々ティアナとジークベルトの話声が聞こえ、ジークベルトの声でティアナが倒れそうになった時は、室内にかけ込みそうになる衝動を抑え、痛む胸と頭に尻尾を苛立たしげに左右に揺れながら地面を打ち続けた。
魔法をかける間は入らないようにと言われた手前、ティアナを側で見守ることは出来ず、壁一枚を隔てたこんな何の役にも立てない場所でやきもきとするしかない自分に腹が立つ。
しばらくして、ティアナとジークベルトの魔法を唱える声が聞こえてくる。
君についた嘘、君に伝えられなかった言葉。
今口づさんだら、消えてしまう想い。
水底のような深いブルー、光を放つ透明な雫。
誰かがきっと呼んでいる、誰かがきっと待っている。
目を閉じたら、いつでも思い出す気持ち。
黒い翼を広げた鳥と、揺れる小さな命と。
待っている、そう言ったら君は困って。
愛してる、そう言ったら君は泣いて。
だからこの想いは言葉にしないで、だから君に嘘をついて、さよならは口にしないで。
目覚めの時、笑顔で会えたら、それがきっとなによりも幸せ。
それは恋の唄――
ちいさなちいさな想いが込められた、気の遠くなるような時の輪を廻った恋の唄。
その甘酸っぱい魔法の詠唱に、胸をぎゅっと締め付けられたレオンハルトの頬には――透明の雫が伝っていた。