第20話 それぞれの想い
ティアナとジークベルトはフロッケに乗り、約束通り森に向かった翌日の夕刻に戻ってきた。
チェの街、イヴァン医師の長屋に戻ってきた時、ティアナの顔は蒼白で立っているのもやっとという状態だったが、イヴァン医師の準備した薬草と魔森で摘んできた薬草の籠を抱えると、すぐに薬の調合のために借りた部屋に一人籠ってしまった。
時々、もくもくと部屋から煙と異様な匂いが立ち込めてきたが、部屋には誰も入れず、誰の呼びかけにも返事をせず、食事も取らずに、ついには深くなった闇が白み始めていた。
ティアナは朦朧とする意識の中、マグダレーナから教わった薬の調合法を思い出しながら、震える体を気合いで動かし、一人、黙々と作業していた。
リアウリの果実は皮と実を取り除き種を取り、火にあぶる。カユプトとプチグランの葉は細かく刻んで茹で、清潔な布きんに包み茹で汁を絞る。パナンの球根はすりおろし、ジュニーベルの果実は砕いて、その液を慎重に抽出し――一つ一つ丁寧に工程を踏んでいく。
麻黄、甘草、大芭瑚はイヴァン医師が調合したものを。最後に、雪のかけら――雪実の花びらをより分ける。
それらを、決まった量、決まった順番で混ぜ、煮込み、液を抽出し、さらに混ぜて、練り合わせていく。
拭いても拭いても滲む額の汗にうんざりしながらも、最後の工程を残すところまで仕上げ、ほーっと息をはく。
あともう少し――
そう思った時、我慢していた痛みが極限となり、コホンッと咳き込んだ瞬間――視界が真っ暗になった。
※
「ティアナ様? 返事はしていただけませんか? ティアナ様……」
ティアナが籠る長屋の外、エルは一人で立っていた。
呼びかけても応答がないのは籠ってからずっとそうだった。それでも、すでに薬の調合にかかってから十時間は経っている。ずっと食事を取っていないことも気になるし、何より、ティアナの体が心配だった。
北の森から帰ってきてすぐに長屋に籠ってしまったため、ティアナを見たのは一瞬だけだったが、その顔は青ざめ、尋常ではない状態だということはわかった。その後ジークベルトから、北の森でティアナも疫病に感染し、耳の下の腫れ物が出来ていることを聞いた。その瞬間からエルは、ティアナのことが心配でならなかった。
発病しながらも、街の人達のために薬草を摘み、今もなお、立っているのもやっとの状態で一人長屋に籠り、薬の調合に取り掛かっているティアナの、他人のためにひた向きになる精神が――胸に痛かった。
その情熱がどこから湧き起こるのか、それは王族としての義務感なのか、もっと内面的な物なのか――知りたいと思った。
そんなわけで、エルはティアナに声をかけ続ける。
しかし返事はなく、数刻前までは部屋から漂ってきた悪臭や煙もないことに気づき、静かに扉を開けた。
「ティアナ様、入りますよ?」
エルは僅かに開いた扉の隙間から室内に滑り込む。室内は机の上に置かれた灯篭の明かりのみで薄暗く、机の上に幾種類もの薬調合機と、薬草が得体のしれないものになって並んでいるのが見えた。エルは室内を見回しながら進むが、足元は暗く、ティアナの姿は見えない。扉からまっすぐ灯篭の置かれた机に向かって進むと、何かに躓いて床に放り出された。地面にぶつかると思ったが、エルがぶつかったのは柔らかくて、熱い――
「うっ……」
うめき声が聞こえ、薄闇に慣れてきた目をしかめたエルが見たのは床に倒れたティアナと、その上に転がった自分だった。
エルはティアナの上からぱっと体をどかし、ティアナの顔の側に寄る。
「ティアナ様!?」
その呼びかけにティアナは答えず、荒い呼吸を繰り返すだけで、瞳は閉じている。エルはティアナの額に自分の額を近づけ、ぶわりっと毛皮を震わせた。
熱い……
さっき、何か熱い物の上に倒れたと思ったのはティアナで、触った者が火傷してしまうほど熱が高かった。
エルはもう一度、呼びかける。その声は悲痛な色で。
「ティアナ様!」
今度はその呼びかけに、ティアナは僅かに瞳を開け、定まらない視線でエルの方を向いた。
「エ、ル……?」
「ティアナ様、大丈夫ですか? すぐに、イヴァン医師を呼んできますから」
そう言って駆けだそうとしたエルをティアナは震える手で引き止める。
「だい、じょう、ぶ、だか、ら……」
ティアナは言いながら、両手で上半身を支えて起き上がる。そのはずみで目眩がしたのか、倒れそうになり、右手を頭にあてながら何度も深呼吸を繰り返す。そして、きらりと光る翠の瞳でエルをしかと見据えて言った。
「私は大丈夫だから、ジークベルトを呼んでちょうだい」
ティアナはそう言うと立ち上がり、机の上の器具をいじり始めた。その姿は、先程まで高熱で気を失い倒れていたとは思えないほど、平然としている。そう思ったのは、暗がりで、ティアナの上気した頬とびっしりと顔中に浮かんだ汗が見えないせいかもしれない。
ティアナを一人にしていいものか、エルは一瞬ためらってから部屋の外に出――イヴァンではなくジークベルトを呼びに
白み始めた空の下を走った。
※
エルから、ティアナが呼んでいると聞いて駆けつけたジークベルトは、ティアナから薬の調合の進捗状況、最終段階の魔法についての話を聞く。
「ごめんなさい、手間取ってしまって……なんだか途中、意識は飛びそうになるし……」
実際、意識が飛んで倒れていたティアナだが、頭が朦朧とし過ぎて、倒れていた自覚もない。
苦笑するティアナに、ジークベルトは眉根を寄せて心配そうに見つめる。
「当たり前だ。一昨日から一睡もしてないんだ、倒れない方がどうかしてる」
そう言ってジークベルトは、ティアナがガサゴソといじる机の上に視線を向け、目を見開く。窓の外の方が明るくなり始めた薄暗い室内のすべての机の上には、大量の丸薬が並んでいた。
こんな量を、一人で調合したのか……?
ジークベルトは驚愕し、息をのむ。今にも倒れてもおかしくない病状のはずなのに、ティアナのどこにこんな集中力があっるのか……
「ジーク、これを見てもらえる?」
そう言ってティアナが差し出した紙をジークベルトは受け取る。そこには緻密な魔法陣と呪文の設計が書かれている。
「ちょっとうろ覚えなんだけど、こんな感じで魔法をかけてほしいの」
ジークベルトはごくりと唾を飲み込む。
「これは……」
うろ覚え……なんてもんじゃない。そこに書かれているのは完璧なものだった。見たこともない高度な魔法が書かれていて――自分にこんな魔法がかけられるのか不安になり――じわりと額に汗が浮かぶ。こんなものを書くなんて……胸を脅威が襲う。本当に、ティアナは、病気なんだろうか……
そんな疑いの目を向けた時、グラリとティアナの体が傾ぐ。
「危ない……!」
ジークベルトが駆けつけ、ティアナの体を支えたことで、床に倒れることはなかった。
「ありがと、ジーク……なんだか、さっきっから、目眩がひどくて……それに、もう春なのに今晩は冷えるわね……」
そう言って、ティアナはブルリと体を震わせた。
寒い? そんなはずはない。もうすっかり冬の気配は消え、夜でも寒いということはないはず……
ジークベルトはそう考え、ティアナを支える手のひらから伝わる熱に、はっとする。
すごい熱いだ、それにすごい汗……
俺は、何、馬鹿なことを考えてるんだ。ティアナが病気じゃないなんて、一度でも疑って。ティアナの耳の下の腫れをこの目で見たはずなのに。
ティアナはまぎれもなく、疫病にかかってる。本当なら、立っているのも辛いはずだ。それでもここでこうやって薬を作ってるのは、病に倒れた街人のため――誇りと気力だけで立っているのだと、気付く。
自分より年下の少女が、他人のため疫病に対抗すべく、必死になってるのに、自分が弱気になってどうするんだ!
「わかった、やってみよう!」
ジークベルトは瞳に鮮やかな闘志を灯し、じゃらりと左腕の魔法石の腕輪を触った。
机に手をつきながらふらついた体を支え一人で立ったティアナは、唯一身につけていたラピスラズリの腕輪を握り、瞳を閉じる。
「ジークベルト、微力ながら、私も一緒にやるわ!」
そう言ったティアナは、燃え立つような鮮やかな翠の瞳で空を見据えた――