第19話 断崖絶壁、絶体絶命
先ほどまでの雨雲が晴れ、さんさんと輝く太陽が輝いている。雨で溶けかけた雪野原、フルフルはジークベルトの足元に小さくうずくまっている。
『もう、帰っていいか……?』
登場した時の不遜な態度とは違い、捨て犬のように濡れて縮こまったフルフルを見て、ジークベルトは苦笑した。
「なぜ、お前のような上級妖魔が、下級妖魔のようなまねをしてる? お前なら、魔界でそれなりの地位と役職があるはずだろう?」
『俺は今、暇なんだよ。伯爵の地位も剥奪され……気晴らしのつもりでここには来てた……』
「剥奪、だと?」
『そうだ……魔界は今、混沌と化している』
「そうなのか、フロッケ?」
『私は魔界には詳しくないから、わからない』
首を振って申し訳なさそうに言うフロッケに、顎に手を当てて考え込んだジークベルト。そんな二人の様子を見て、フルフルは小さな声で呟いた。
『魔界の混乱は、いまに人間界にも影響が出るだろう……』
そう言って、雷の打たれる音と共にフルフルは姿を消した――
※
もしかして、魔界の混乱と今回の疫病は何か関係が――
そう考えた時、霧が出てからずっと姿の見えないティアナのことを思い出した。
「そういえば、ティアはどこだ!?」
日は中天に登り、チェの街に戻るタイムリミットが迫っていた。ジークベルトは、一旦、フルフルの言っていた魔界の混乱について考えることをやめ、ティアナを探す。
「ティアは、雪のかけらを探していた。そう遠くには行っていないはずだが……」
『確か、雪のかけらは断崖絶壁の岩肌に咲くはずだが――』
「断崖絶壁!? そんな場所は、どこにも――」
そう言った時、ジークベルトの目の前に崖が現れ、その割れ目、崖の中腹のでっぱった岩に横たわるティアナの姿が見えた。
※
ティアナが断崖絶壁の崖に、疫病を治すために必要な最後の薬草・雪のかけらを見つけた時、グラリと大きく地面が揺れ、体勢を崩して崖に投げ出されてしまった。運よく、崖の中腹にあるでっぱりの岩に落ちたが、その衝撃で意識を失った。
ジークベルトが霧の中、フルフルと対峙してる時、ティアナはふっと意識が戻る。
私、どうしてこんなところに……
体に伝うびりびりとした痛みに眉根を寄せて、薄れかけていた思考から、自分の今の状況を思い出す。
そうだ。地面が揺れて、崖に投げ出されて……
そう考えて上を見上げると、さっきまでいた場所は遥か上で、下には断崖絶壁が広がっている。
どうしよう……こんな崖、登れない。でも、きっとジークベルトが気づいて助けに来てくれるはずよ。今、私がするべきことは、雪のかけらを摘むこと――
不幸中の幸いというか、崖に落ちたおかげで、雪のかけらは目の前の崖を少し登った場所にたくさん生えている。
あそこなら、手を伸ばせば取れそう。
そう考えて、立ち上がろうとして――ぐらっと視界が歪んで、地面に倒れていた。
やだ……なんで、立てないの……?
もう一度立ち上がろうとする。少し動いただけなのに、全身の筋肉が痛み、大量の汗が噴き出してくる。震える足でどうにか立つことができたが、一歩進むのにも足取りは重く大変だった。
じわりと額に浮かんだ汗を袖で拭うが、拭いても拭いても汗がたれてくる。汗のせいで顔に張り付いた髪をはがそうと、首元に手をかけて、はっと動きを止めるティアナ。
その手を恐る恐る、首元から耳のすぐ下に移動させ、そこにある違和感に、息をのみ込んだ。
ティアナの耳下――そこには、テェの街に蔓延する疫病の症状と全く同じ、腫れものができていた。
耳下の腫れを意識した瞬間。
ゴホンッ、ゴホンッ。
激しく咳き込み、体勢を崩し、その場にしゃがみこむ。むせて胸から熱い物が込み上げて口元に手を当てると、手のひらにじわりと生温かい赤い物がついて、背筋が凍る。吐血していた――
「ははっ……」
ティアナは乾いた笑い声を出し、ぎゅっと目を瞑って体を小さく丸める。
ついに、私にも病が移っちゃったのね……
私、このまま誰にも気づかれず、こんな断崖絶壁で死ぬの……?
ぐらぐらと揺れる視界……節々が痛み思い通りにいかない体……弱気になる気持ち。それでも……
ティアナは立ち上がり崖に近づくと、そろりと這いつくばって、小さなへこみに足をかけて雪のかけらに手を伸ばした。
「やったっ……雪のかけらが手に入ったわ」
摘んだ雪のかけらを背負ってきた籠に入れ、また摘み、それを何度か繰り返したティアナはほっと安堵の息をはく。
その瞬間、ばたりとその場に倒れた――
※
「ティア! おい、ティア!」
ティアナを見つけたジークベルトは、すぐにフロッケに跨り崖の中腹に舞い降りた。横たわるティアナは、大事そうに薬草の詰まった籠を抱えている。籠をどかし、ティアナを抱き上げたジークベルトは、眉根を寄せる。
「熱い……すごい熱だ」
そう言って、ティアナの額に手を当て、そして、耳下の腫れに気づく。
「ティアにも移ってたのか……いつから……、こんな倒れるまで我慢するなんて……」
ぎゅっとティアナを優しく抱きよせる。
「くっそ……、せっかく薬草が集まったっていうのに、ティアがこんな状態じゃ、肝心の薬の作り方がわからないじゃないか。こんな時に……レーナがいれば……」
絶体絶命の状況に追い込まれ、一層ティアナを抱く腕に力をこめるジークベルト。その腕の力とは対照的に弱々しい声が聞こえた。
「うっ……、ジーク……」
ティアナがうっすらと目を開け、顔をゆがめた。
「来てくれたのね……ジークならきっと助けに来てくれると思ってたのよ」
「ティア……悪い、もっと早く来ていたら……」
そう言って俯いたジークベルトの腕の中から体を起こしたティアは、よろけながらも立ち上がろうとする。
「ティア、熱がすごい。動いたら駄……」
心配そうなジークベルトの言葉を遮って、ティアナは意志の強い翠の瞳でジークベルトを見つめた。
「たとえ病になろうと、私は……私にできることをやらないといけないの。弱気になったらダメ。せっかく、薬草がそろったのだもの……コホンッコホンッ……」
「……わかった、早く街に戻ろう」
消え入りそうな弱々しい声で、でも確固たる意志で立ちあがったティアナの肩を支えて、ジークベルトはフロッケの背まで歩いた。




