番外編「獣の刀と陽だまりの匂い」
◆黒駒甚四郎視点
使い古されたカマの刃先が、乾いた音を立てて硬い草の茎を断ち切った。
刃こぼれした箇所から伝わる微かな抵抗を指先で感じ取りながら、甚四郎は刈り取った青草を無造作に背負い籠へと放り込んだ。
秋の気配が混じり始めた風が、山の斜面を滑り降りてきて、彼の火照った首筋の汗を心地よく冷やしていく。
村の共有地である裏山での草刈りは、今ではすっかり甚四郎の朝の諍いなき日課となっていた。
かつては人斬りとして恐れられ、血の匂いだけを嗅いで生きてきた己が、こうして泥にまみれて土と草の匂いの中で呼吸している事実が、時折酷く現実離れして感じられることがある。
甚四郎は腰を伸ばし、肩にかかった長い髪を無造作に払い除けた。
麓の方へ視線を向けると、小さく区切られた畑の畝の間に、白っぽい着物を膝まで捲り上げてしゃがみ込む一つの影が見えた。
浅葱晴信だ。
あのお家騒動から季節が巡り、彼の手のひらにあった豆は完全に硬い剣だこのような皮膚へと変わり、今では銀次と肩を並べて農作業をこなすまでに成長していた。
遠目からでも、晴信が真剣な顔で土の表面をならしているのがわかる。
身分を捨て、誰かの庇護下で生きることを拒んだあのお坊ちゃんは、驚くべき適応力でこの村の生活に根を下ろしていた。
甚四郎の鼻腔に、風に乗って運ばれてきた微かな香りが届いた。
それは、かつて晴信の肌から止めどなく溢れ出し、夜の森で甚四郎の理性を狂わせかけた、あの致死量の甘い花の匂いではない。
雨上がりの湿った土と、野生の獣を思わせる甚四郎自身のαの香りが深く染み込み、日向の陽だまりのように穏やかで、しかし確かな独占欲を主張する複雑な香りへと変化している。
その匂いを嗅ぐだけで、甚四郎の胸の奥で重い心拍が一つ大きく跳ねた。
番の契り。
それは、世をすねて孤独を選んだはずの甚四郎の魂に、二度と外すことのできない楔を打ち込んだ。
かつての甚四郎は、人を信じることをやめていた。
背中を預けたはずの仲間に裏切られ、命を狙われ、刀の腕だけを頼りに生き延びてきた荒んだ過去が、彼から体温というものを奪い去っていたのだ。
しかし、あの血に塗れた土間で、自らの命を削ってまで甚四郎を救おうとした晴信の行動が、氷のように硬く閉ざされていた甚四郎の心を完全に打ち砕いた。
自身のうなじに刻まれた晴信の噛み痕を、甚四郎は手袋を外した荒れた指先でそっとなぞる。
傷口はとうに塞がっているが、そこから流れ込んでくる晴信の存在の重みが、今も絶え間なく甚四郎の全身を巡っている。
彼が笑えば心が弾み、彼が不安を感じれば胸が締め付けられる。
この繋がりは、呪いではなく、甚四郎にとって初めて手に入れた確かな生きる意味だった。
甚四郎は背負い籠を持ち上げ、斜面をゆっくりと下り始めた。
畑に近づくにつれて、晴信の姿が明確に視界に入ってくる。
乱れた着物の襟元から覗く白い首筋は、土に汚れていてもなお、目を奪われるほどの気品を隠しきれていない。
甚四郎の足音に気づき、晴信が顔を上げた。
「甚四郎。草刈りは終わったのか」
額に滲んだ汗を手ぬぐいで拭いながら、晴信が人懐っこい笑みを向けてくる。
真っ直ぐにその笑顔を向けられると、甚四郎はいつも言葉に詰まり、照れ隠しのように視線をそらして無骨に鼻を鳴らすことしかできなかった。
「ああ。今日はこれで十分だ。お前の方こそ、根を詰めすぎるとまた腰が立たなくなるぞ」
甚四郎が籠を畦道に置き、晴信の傍へ歩み寄る。
晴信は手に持っていた小さなクワを置き、立ち上がって土を払った。
「馬鹿にするな。これでも少しは体力がついたんだ。見てみろ、この畝の出来栄えを。銀次も感心していたぞ」
得意げに胸を張る晴信の頬には、土の汚れが黒く一筋ついている。
甚四郎は何も言わずに手を伸ばし、親指の腹でその汚れをそっと拭い去った。
突然の接触に、晴信の肩が微かに跳ねる。
晴信の体温が指先から伝わり、二人の間に流れる空気が一瞬にして濃密なものへと変わった。
番特有の引力が、互いの距離を磁石のように引き寄せようとする。
晴信の瞳が潤みを帯び、長い睫毛が伏せられた。
「……汚い手で触るな。土が顔についたじゃないか」
口では文句を言いながらも、晴信は甚四郎の手から逃げようとはせず、むしろその体温を求めるようにわずかに頬をすり寄せてきた。
その無防備な仕草が、甚四郎の奥底に眠るαの所有欲を容赦なく刺激する。
「お前が泥だらけの顔をしているから拭いてやったんだ。文句を言われる筋合いはねえよ」
甚四郎はわざとぶっきらぼうに返し、晴信の顎を指先で軽く持ち上げた。
間近で見る晴信の顔は、かつての青白いお坊ちゃんの面影はなく、太陽の下で生きる人間の力強い生命力に満ちていた。
その変化をもたらしたのが自分であるという事実が、甚四郎の心に静かな誇りをもたらしている。
「帰るぞ。銀次が夕飯の支度をして待っている」
甚四郎が手を離すと、晴信は少しだけ名残惜しそうに唇を尖らせ、それから素直に頷いた。
並んで畦道を歩き出す二人の影が、西日に長く伸びて重なり合う。
誰かに命を狙われることも、身分の壁に阻まれることもない、ただ土を耕し、日々の糧を得るだけの素朴な生活。
甚四郎は自身の腰にある刀の柄にそっと触れた。
この刃はもう、人を殺めるためではなく、隣を歩くこの唯一の半身を守り抜くためだけに存在する。
そう心に誓いながら、甚四郎は晴信の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩みを進めた。




