第11話「夜明けの忠義と交わる運命」
血の匂いと濃密な甘い香りが渦巻いていた土間から、刺すような殺気が引いていく。
夜の冷たい風が壊れた戸口から吹き込み、家の中に滞留していた熱を少しずつ外へと運び去っていた。
晴信は手桶に張られた冷たい井戸水に清潔な布を浸し、固く絞った。
土間の隅には、意識を刈り取られた榊原市之進と黒装束の刺客たちが、太い麻縄で厳重に縛り上げられて転がっている。
様子を見に戻ってきた銀次が、惨状を目にして言葉を失っていたが、すぐに事態を察して手際よく彼らを拘束してくれたのだ。
晴信は板の間に腰を下ろしている甚四郎の背後へと回り、彼の肩口から背中にかけてこびりついた血の汚れを、濡れた布で慎重に拭い去っていく。
布が肌に触れるたび、甚四郎の引き締まった筋肉が微かに収縮するのがわかった。
先ほどまでぱっくりと口を開け、命を脅かすほどの血を流していたはずの深い刃傷は、すでに薄い桃色の痕を残すのみで、完全に塞がっている。
番の契りによって互いの魂が結びつき、引き出された超人的な治癒力の結果だった。
晴信の指先が甚四郎の背中をなぞると、彼自身の心臓の奥底が温かいもので満たされるような、不思議な感覚が波紋のように広がっていく。
それはただの錯覚ではない。
甚四郎の深い安堵と、静かな高揚感が、肌の接触を通して晴信の神経へと直接流れ込んできているのだ。
同時に、晴信自身から発せられていたあの制御不能な甘い花の匂いも、今は大きく性質を変えていた。
甚四郎の持つ雨上がりの土と野生の獣を思わせる鋭い香りが晴信の匂いを包み込み、二つの香りが複雑に絡み合って、唯一無二の深みのある香りへと昇華されている。
もはや誰が嗅いでも、晴信が特定のαに所有された番であることは明白だった。
「ひどい傷跡だ。だが、もう血は出ていない」
晴信が小さく息をつきながらつぶやくと、甚四郎は首だけをわずかに巡らせて晴信を見上げた。
その瞳の奥には、昼間に畑で土を掘り返していた時と同じ、穏やかで柔らかな光が宿っている。
「お前が俺の首に噛みついてから、体の内側から得体の知れない力が湧き上がってくるのがわかった。痛覚も飛んで、ただお前を守らなければならないという本能だけが全身を支配していた」
甚四郎の大きな手が背後に伸び、布を握る晴信の手のひらをそっと包み込んだ。
彼の指先にある剣だこのざらつきが、今はたまらなく愛おしく感じられる。
晴信は甚四郎の手を握り返し、彼の広い背中へと自らの額を押し当てた。
布越しではない、直接の体温の交換。
甚四郎の力強い鼓動が、晴信の胸の奥で響く自身の鼓動と完全に重なり合う。
二人は言葉を交わすことなく、ただ互いの存在がそこにあるという確かな事実だけを皮膚の感覚で確かめ合っていた。
土間の隅で倒れていた市之進が低く呻き声を上げたが、銀次が容赦なくその背中を足で踏みつけ、再び沈黙させた。
夜の闇が少しずつ薄れ、東の空の境界線が藍色から淡い紫へと色を変え始めた頃だった。
家の外から、複数の足音と、蹄が土を重く蹴る響きが近づいてくるのが聞こえた。
甚四郎の背中が再び硬く強張り、彼は晴信の手を離して素早く立ち上がった。
床に置いていた刀を拾い上げ、鞘を握る手に力を込める。
「まだ伏兵が残っていたのか」
甚四郎の低い声に、晴信も息を呑んで立ち上がった。
足音は家の前で止まり、壊れた戸口の向こう側に人の気配が立ち止まる。
朝靄の向こうから現れた影は、黒装束の刺客ではなかった。
泥と草の汁で汚れ、所々が引き裂かれた見覚えのある着物。
手にした刀の刃は幾重にもこぼれ、肩で荒い息をしている。
その男の顔を見た瞬間、晴信の目が見開かれた。
「若君……ご無事、ですか」
掠れきった声でそう呼びかけたのは、あの夜、武家屋敷で晴信を逃がすために一人で追手の前に立ちはだかった忠臣、八雲廉之助だった。
彼の体には無数の切り傷が刻まれ、顔の半分は乾いた血で赤黒く染まっている。
それでも、その真っ直ぐな視線だけは、晴信の姿を捉えて決して離そうとしなかった。
晴信は板の間から土間へと飛び降り、八雲の元へと駆け寄った。
「八雲。お前、生きていたのか」
晴信が震える両手で八雲の腕を掴むと、八雲はその場に崩れ落ちるようにして片膝をつき、深く頭を垂れた。
「申し訳ありません、若君。お迎えに上がるのが、ひどく遅くなりました」
八雲の目から、土埃にまみれた頬を伝って一筋の涙がこぼれ落ちる。
晴信はこみ上げる熱いものを必死に堪え、八雲の泥だらけの肩を強く抱き寄せた。
前世でも今世でも、誰かが自分のために命を懸けてくれることなどないと諦めていた。
しかし、この男は違った。
血を流し、泥に塗れながらも、ただ主君を救うという一念だけでこの山奥まで辿り着いたのだ。
八雲の背後には、同じように疲労の色を濃くした数名の浅葱家の家臣たちが控えていた。
彼らもまた、晴信の姿を見て安堵の表情を浮かべている。
「榊原の叔父上が、なぜここにいる。屋敷はどうなった」
晴信が問うと、八雲は顔を上げ、荒い呼吸を整えながら事の顛末を語り始めた。
あの夜、八雲が刺客たちを引きつけている間に、浅葱家の内部で大きな動きがあったという。
市之進が晴信を暗殺するために私兵を動かしたことが、本家の重臣たちの知るところとなり、彼の長年にわたる横領や不正の証拠が一斉に明るみに出たのだ。
立場を悪くした市之進は、追及の手を逃れるために残った手勢を率いて屋敷を脱走し、自身の野望の最後の障壁である晴信を確実に仕留めるため、この村へと向かった。
八雲は味方の家臣たちとともに市之進の足跡を追い、ようやくここまで辿り着いたのだという。
「市之進一派は完全に失脚しました。もはや若君の命を狙う者は、浅葱の家には一人もおりません。どうか、私とともに屋敷へお戻りください」
八雲の言葉は、晴信にとってかつて切望してやまなかったはずの朗報だった。
追われる身から解放され、再び安全な武家の社会へと帰還することができる。
だが、その言葉を聞いた晴信の心に浮かんだのは、喜びでも安堵でもなかった。
脳裏をよぎったのは、息が詰まるような格式張った屋敷の冷たい畳と、感情を押し殺して生きる人々が作り出す無機質な空気だった。
そして何より、今の自分には、決してあそこへ戻れない決定的な理由がある。
晴信はゆっくりと八雲の肩から手を離し、背後に立つ甚四郎へと視線を巡らせた。
甚四郎は刀を下げたまま、何も言わずに晴信を見つめ返している。
その瞳は晴信の選択を静かに待っており、決して己の意志を押し付けようとはしなかった。
しかし、番の繋がりを通して、甚四郎の胸の内に渦巻く微かな寂しさと、それでも晴信の自由を尊重しようとする不器用な優しさが、痛いほどに伝わってくる。
晴信は再び八雲へと向き直り、その傷だらけの顔を真っ直ぐに見つめた。
夜明け前の青白い光が、三人の影を土間へ長く引き伸ばしている。
決断の時は、静かに訪れていた。




