2.婚約破棄か、解消か
「アリシア、本当に良いのかい?」
「はい。もう不思議なくらい気持ちが残っていないのです」
アリシアは今、父であるブルーベル子爵の執務室にいる。
アリシアの向かいのソファに腰掛けた子爵は、労わるような優しい目で娘を見つめていた。愛しい娘の頬には、昨日マークに打たれた時の指の跡が赤い筋になって残っている。
それを見た子爵は、腑の煮え繰り返る思いがしたけれど、娘に向ける父親の顔はどこまでも穏やかだった。
昨日の一件はすぐに学園から両家へと伝えられた。
アリシアは貧血で倒れたということだったが、そのまま早退の手続きが取られ帰宅した。
あの後、教務室へ呼び出しを食らったマークはというと、他生徒へ暴力を振るったとして二週間の謹慎処分となったらしい。
フロックス伯爵家からは昨日のうちに謝罪の手紙と見舞いの品が届いた。けれど、アリシアはまだそれらを確認していない。
昨日の様子からして、マークが反省しているとは思えなかったし、今となってはもう本当に心からどうでもよかった。
「いや、僕が聞いているのは慰謝料を請求しなくてもいいのか、という意味だよ?」
「はい。慰謝料なんて請求したら長引きそうじゃないですか。
私はもう一刻も早くマーク様とのご縁を切ってしまいたいのです。
あちらにはすでにキャロル様というお相手もいらっしゃいますから、今回の件と合わせれば頷くしかないと思います」
「そうだね。でも、僕としては大事な娘にこんなことされて……正直、謝罪だけじゃ気が済まないんだけどな」
ブルーベル子爵が不敵に笑う。
「そういうのはこの件がうまく片付いた後でいくらでもお好きになさってください」
「うん。でも本来ならあっちの有責で破棄するところだし、解消にしたって円満というわけにもねぇ……
あ! そうだそうだ。遡って最初から無かったことにしたらいいんだ。
確かそんな条項を入れておいたはずだよ?」
解消だろうと、遡って無かったことにしようと、実際問題アリシアの婚約が人々の記憶から消え去るわけではない。
けれど、遡って婚約自体をなかったものとすれば書類上だけでもアリシアのこれまでがリセットされる。
父親であるブルーベル子爵は、長年娘を蔑ろにした上、最後には手を上げて文字通りアリシアを傷つけたマークを到底許せなかった。
そんな相手の婚約者であった事実など、せめて書類の上だけでも綺麗さっぱり消してやりたかったのだ。
二人の婚約は、表向きにはマークに一目惚れしたアリシアの想いを汲んで結ばれたご縁ということになっている。
たが実際は、落ち目のフロックス伯爵家がブルーベル子爵家に資金援助を要求したものだった。
元は商会主だった三代前の当主が爵位を賜って生まれたのがブルーベル子爵家だ。その商会は今や隣国へも事業を拡げ、確かな資金源として現在もブルーベル子爵領の発展を支えている。
そんなブルーベル家だが、羨望から成金貴族と見下されることも少なくない。そしてその中に、フロックス家も混ざっていることをこの二人が知らぬはずもなかった。
「お父様、ごめんなさい」
「ん?」
小さな声で謝って、アリシアは俯いた。
子爵はそんな娘に、仕方ないなぁと笑ってこう声をかけた。
「君は何も悪くないさ。これまでずっと彼に心を捧げてきたんだもの。ただ相手がちょっと、いや、かなり残念だっただけだよ」




