第90話 長雨のときだけ
線は、まっすぐだった。
例外の扱いの欄に、上から下まで一本。手で引いた線ではない。定規を当てて引いてある。端が二度 重なっていて、そこだけ墨が濃い。定規を持ち上げずに、一度で引き切った線だった。
エレノアは、その掲示の写しを、机の上に平らに置いた。
自分の消し方だった。
六年、彼女は写しの余白を消すときに定規を当てる。手で引くと、線が字にかかる。かかると、下の字が読めなくなる。読めなくなった字は、消したのではなく隠したことになる。だから定規を使う。消した跡が、消した跡として残るように。
その引き方が、灰色の川へも峠へも他領へも渡っていた。渡した覚えは無い。
「エレノア」
サラが、戸口から入ってきた。手ぶらだった。ここ数日、この女は手ぶらでこの部屋に来る。
「はい」
「それ、来たやつ?」
「参りました」
彼女は、いちばん上の照会を、机の向こうへ回した。
――第七条について伺います。
――こちらでは、朝の枠の一割を、長雨のときだけ空けております。
――今年は、長雨がございませんでした。
――先月、遅れが出ました。空いておりませんでした。
――荷が七台、二十日 動いておりません。
サラは、それを読んだ。
読んで、顔を上げた。
「――七台」
「七台です」
「二十日」
「二十日です」
「何の荷?」
エレノアは、二枚目の写しを開いた。掲示のほうだ。左に日、右に区分。上から、穀物、木材、鉄。
「木材が四台。鉄が二台。穀物が一台です」
「木材」
「木材です」
「その土地、いま何月」
「こちらと同じでしたら、あと二十日ほどで初雪です」
「西の端でしょ。もっと早いんじゃないの」
「早いはずです」
サラは、それきり黙った。
窓の外で、風が上がっていた。この十日で、風の音が変わっている。秋の風は乾いていて、通りの土を持ち上げる。いまの風は、湿ったものを含んでいる。石畳が乾かない日が、三日 続いていた。
木材は、冬に薪になる。
三月前、峠で同じ計算をした。木材、十一日後。二番目の枠、十四台のうちの三台目。あのとき彼女は、薪を最後尾に置いた。置いたのは自分で、御者は礼を言って帰った。
十一日後に、荷は一日もずれずに通った。
いまは、二十日 動いていない。
「その土地、どこ」
「西の端です」エレノアは言った。「半年前に掲示を立てたところです。街道が一本しか通っておりません」
「痩せてるところね」
「痩せております」
「卓の給金、こっちが出してる二つのうちの一つ?」
「一つです」
サラは、その紙をもう一度 読んだ。
「二台分、こっちが出してるのよね」
「出しております」
「出してるところが、いちばん先に壊れたわけ」
「壊れました」
「これ、偶然?」
「偶然ではないと思います」エレノアは言った。「痩せた土地は、余りを持てません。持てない者に、余りを空けておけと申しました」
「あなた、それ、隣国の女に言われてたじゃない」
「言われました」
「なんて言われたの」
「――余裕のない土地には、あなたの一割は真似できない、と」
「覚えてるのね」
「覚えております」
「――これ、なんで空けてないの」
「長雨のときだけ空ける、と書いてあります」
「なんでそう書いたの」
「存じません」
「あなたの三行、そんなこと書いてないでしょ」
エレノアは、机の上の写しを引き寄せた。自分の写しではない。この照会に添えられていた三枚目だ。オーブリーが十二の領地へ配った規約の写しで、条が七つある。
第七条を、彼女は読み直した。
――第七条 各街道は、朝の枠のうち一割を、次の遅れのために空けておくものとする。ただし、当該街道の前月の遅延が三日を超えた場合に限る。
ただし書きは、そのまま残っていた。
「これ、書いてあるじゃない」サラが、横から覗いて言った。「前月の遅れが三日を超えたとき、って」
「書いてあります」
「じゃあ、なんで長雨なの」
エレノアは、答えなかった。
条文は、前月の遅延で書いてある。掲示は、長雨で書いてある。二つは、別のことを言っていた。
この土地は、規約のとおりに書かなかった。
書かなかったのに、規約の写しを添えて照会を出してきている。読んでいないわけではない。読んだうえで、違うことを書いた。
彼女は、三枚を順に並べた。
照会。掲示の写し。規約の写し。
「サラ」
「なに」
「この三枚を、どの順で読まれますか」
「上からでしょ」
「上から読みますと、条文が最後になります」
「なるわね」
「向こうも、そう並べて出しております」エレノアは言った。「照会、掲示、条文。自分の困りごとが先で、条文がいちばん後ろです」
「当たり前じゃないの」
「条文を先に置く方は、条文で仕事をしている方です」彼女は言った。「困りごとを先に置く方は、荷で仕事をしている方です」
「で、それが何」
「――この三枚を綴じた方は、条文を読んでおられます」
三枚目の裏に、何か書いてあった。
裏返すと、細い字で四行あった。三つ目の卓の書記の字だ。添え状のいちばん下に名を書いていた者と、同じ手だった。
――こちらでも、答えが出ませんでした。
――この土地は、規約ではなく、先にいただいた三行のほうを使っております。
――三行のほうが、先に届いておりましたので。
――どちらが正しいのかを、こちらでは決められません。
エレノアは、その四行を、二度 読んだ。
三行が先に届いた。
二十日前——いや、もう四十日 以上 経っている。定期便で十三の包みを出した。三行の紙と、表紙の二行の写し。九つの街道と、三つの他領と、王都へ。
規約が配られたのは、そのあとだ。オーブリーが十二の領地を回って、承知を取って、書き直した図と一緒に送った。届いたのは、たぶん十日ほど前になる。
先に届いたほうを、この土地は使っていた。
当たり前だった。半年前に掲示を立てたばかりの土地だ。どこかから写した紙で回している。回しているところへ、書いた本人からの三行が届く。届けば、そちらを正本にする。
規約が来ても、上書きしない。上書きするには、どちらが上かを知っていなければならない。この土地は、それを知らない。
知る方法も、無かった。
規約の写しには、どこから来たものかが書いてある。樫の坂の伯爵の名と、十二の署名。三行の紙のほうには、何も書いていない。差出人を、彼女は書かなかった。宛名だけを書いて出した。
あのときは、それが正しいと思っていた。三年前に峠へ届いた袋も、宛名だけだった。差出人を探さずに読まれて、三年 使われた。うまくないから正しかった、と彼女は考えた。
考えて、同じ形で十三 出した。
出した先の一つでは、差出人の無い紙のほうが、署名が十二 並んだ紙より上になった。上になった理由は、早く着いたからだ。それだけだった。
「サラ」
「なによ」
「私の三行を、読んでいただけますか」
サラは、少し眉を上げた。
「あなたが書いたやつでしょ」
「はい」
「読んでどうするの」
「私が書いたつもりのものと、書いてあるものが、同じかどうかを伺います」
サラは、机の上から一枚 取った。
この執務室に、その三行の写しは何枚もある。十三 送るために、彼女が十三 書いた。書いた残りが、まだ引き出しに入っている。
サラは、それを声に出さずに読んだ。
読んで、しばらく、何も言わなかった。
「――エレノア」
「はい」
「これ、二通りに読めるわよ」
窓の外の風が、一度 強く鳴った。
エレノアは、その紙を見た。二十二文字だ。数えたのは自分ではない。隣国の女が、面白がって数えていった。
「どこがですか」
「最後」サラは言った。「“見えるようになったら、埋めてください”」
「はい」
「あなた、何を埋めろって書いたの」
「理由の欄です」
「――そう読めないわよ、これ」
エレノアは、その紙を、サラの手から受け取った。
受け取って、上から読んだ。
――枠の一割は、空けておきます。
――理由。次に何が来るかは、誰にも見えません。
――見えるようになったら、埋めてください。
三行目の主語が、書いていない。
何を埋めるのかを、彼女は書いていなかった。書かなくても分かると思っていた。二行目で理由と書いてあるのだから、埋めるのは理由の欄だ。読めば分かる。
読めば、分かる。
――枠のほうが、先に出てくる、と。
一行目に、枠と書いてある。枠の一割は、空けておきます。二行目が理由。三行目で、埋めてください。
埋めるものが二つ 並んでいて、近いほうは、枠だった。
六年、彼女はその欄を毎日 見ている。毎日 見ている者にとって、埋めるものは理由しか無い。枠は空けるものであって、埋めるものではない。書くまでもない。
書くまでもないことを、書かなかった。
半年前に掲示を立てた土地は、その欄を六年 見ていない。見ていない者の目には、一行目に出てくる枠のほうが近い。
――近いほうを取る、と。
昨日まで、彼女はそれを解として使うつもりでいた。照会は、いちばん近い卓へ回す。探さずに、手の触れたところへ渡す。近さは、正しい。
同じ近さが、ここでは外れていた。
「誰が、書き換えましたか」
サラが、そう訊いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
西の端の土地は、規約ではなく、先に届いた三行のほうを使っていました。
三行のほうが、先に届いていたからです。
半年前に掲示を立てたばかりの土地です。
どこかから写した紙で回しているところへ、書いた本人からの三行が届きました。
届けば、そちらを正本にします。当たり前です。
――規約が来ても、上書きしません。
上書きするには、どちらが上かを知っていなければなりません。この土地は、それを知りません。
そして、その三行は、二通りに読めました。
――見えるようになったら、埋めてください。
彼女が書いたつもりだったのは、理由の欄のことです。
ですが、一行目に「枠」と書いてありました。埋めるものが二つ並んでいて、近いほうが枠でした。
荷が七台、二十日 動いていません。木材が四台です。
次話「正しい読み方」では、誰が書き換えたのかが分かります。
――誤読ではありませんでした。
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