第1話 氷の悪女は、笑わない
この物語は、いわゆる「悪役令嬢」のお話です。
ただし少しだけ違います。
主人公は優しくありません。
誰かを救うために、誰かを切り捨てます。
そしてその結果、
誰よりも多くのものを守ります。
もし「ざまぁ」や「スカッと」を期待している方も、
「頭脳戦」や「構造的な物語」が好きな方も、
どちらにも楽しんでいただけると思います。
少しでも面白いと感じていただけたら、
ブックマークしていただけると嬉しいです。
その夜、王城の大広間は、誰もが幸福なふりをしていた。
天井から幾重にも吊るされた硝子灯が、春の終わりを惜しむように金色の光を落としている。磨き上げられた床には貴族たちの姿が揺れ、弦楽器の柔らかな音色は、笑い声と囁き声を薄い絹のように包み込んでいた。
香水、花、葡萄酒。甘い匂いばかりが満ちるこの場所で、ただ一人、場違いなほど冷えた視線を集める女がいた。
エレノア・ヴァルディエ侯爵令嬢。
濃紺のドレスは夜空をそのまま切り取ったように深く、胸元にも袖口にも、流行の過剰な飾りはほとんどない。首元にかかる銀の鎖と、指先の白さだけが、かえって彼女の美しさを際立たせていた。
美しい、とは誰もが思う。
だが同時に、近づきたくない、とも思う。
それが彼女だった。
「あの方、今夜も笑わないのね」
「笑う必要がないのでしょう。自分が誰より高い場所にいると思っていらっしゃるもの」
「でも、殿下の婚約者ですもの。あれくらい当然ではなくて?」
「まあ。あの方を庇うなんて、珍しいことを言うのね」
扇の影で交わされる囁きは、十分に小さいつもりなのだろう。だが、こういう場の声は、聞かせたい相手にこそ届くようできている。
エレノアはそのどれにも反応しなかった。
正面を向いたまま、壁際に咲いた白百合のように動かない。微笑みを作ることも、気分を害した顔を見せることもない。ただ背筋だけを真っ直ぐに伸ばし、王太子の婚約者としてあるべき姿で立っていた。
その静けさが、かえって人を苛立たせる。
「本当に、感じの悪い方」
「あれで侯爵家のご令嬢だなんて」
「平民の娘を泣かせた話、ご存じ? 帳場で震えていた使用人に、数字を間違えた罰として一月分の手当を止めたとか」
「まあ、ひどい」
「しかも孤児院への寄付も減らしたのでしょう?」
「殿下がお優しい方で、本当に良かったわ」
その話のいくつが真実で、いくつが尾ひれなのか。確かめようとする者はいない。社交界において重要なのは事実ではなく、広まり方だ。より美しく、より残酷で、より語りやすい話が勝つ。
そしてエレノア・ヴァルディエという女は、そういう物語の悪役として、あまりにも出来すぎていた。
長い睫毛の下にある灰青の瞳。人を見下すような鋭い視線。何を考えているのか読ませない薄い唇。幼い頃から厳格に教育され、完璧な礼儀作法と教養を身につけた代わりに、愛嬌というものだけをどこかに置き忘れてきたような女。
もしここが芝居の舞台なら、誰もが彼女を悪女役に選ぶだろう。
実際、そうなりつつあった。
「エレノア様」
やわらかな声が名を呼んだ。
振り向けば、淡い蜂蜜色の髪を結い上げた少女が、遠慮がちに立っていた。薄桃色のドレスは決して高価には見えないが、慎ましい仕立てがかえって初々しさを引き立てている。大きな榛色の瞳は不安げに揺れ、両手は胸元でそっと重ねられていた。
クラリス・メルヴェイユ。
王妃の保護のもと宮中に上がった、平民出身の少女。慈善事業で名を知られ、誰にでも優しく、誰からも好かれる――少なくとも、そう評されている娘だった。
今夜もまた、その評判に違わぬ顔でエレノアを見上げている。
「何かしら」
エレノアがそう返すと、周囲の数人がわずかに息を呑んだ。冷たい。短い。棘がある。彼女が何気なく発した一言は、聞く者の先入観によっていくらでも残酷に聞こえる。
クラリスは一瞬だけ肩を揺らしたが、それでも健気に微笑んだ。
「お、お加減はいかがですか。少しお顔色が優れないように見えて……」
「問題ありません」
「そう、ですか……」
会話はそこで終わった。
終わらせたのは、エレノアのほうだった。
クラリスは唇を引き結び、何か言いたげに視線を落とす。助け舟を出す者はすぐに現れた。
「クラリス嬢、こちらへ。あまり無理にお話しなさらなくともよい」
「殿下……」
低くよく通る声とともに現れたのは、王太子アレクシスだった。
金髪に碧眼、正義感と品位を絵に描いたような青年。軍服を思わせる礼装はよく似合い、その立ち姿には生まれながらの高貴さがあった。彼がひとたび歩けば人々は道を開け、その場の空気すら彼を中心に整ってゆく。
絵になる二人だ、と周囲は思う。
怯えた小鳥のようなクラリスと、それを守る高潔な王子。
そこに、婚約者であるはずのエレノアは含まれていない。
アレクシスはクラリスの前に半歩進み、エレノアへと向き直った。
「今宵は王家主催の夜会だ。招かれた客人に対し、もう少し相応しい態度があるのではないか」
「私は失礼なことを申し上げた覚えはございません」
「君はいつもそうだ。言葉が短すぎる。温度がない。相手がどう受け取るかを考えない」
その声音には、叱責よりも失望が滲んでいた。
婚約者に向けるにはあまりに冷たく、しかし、社交界に広まっている物語に沿うなら、あまりに正しい響きでもある。
エレノアはわずかに目を細めた。
「殿下は、会話に必要なのが温度だとお考えなのですね」
「少なくとも、人を傷つけぬためには必要だ」
「そう」
それだけ言って、彼女は黙った。
アレクシスの眉間に皺が寄る。
何かを言い返してくれればよかったのかもしれない。口論になれば、互いの非はまだ均等に見える。だがエレノアは、弁明もしなければ謝罪もしない。まるで相手の怒りすら、自分には取るに足らぬものだとでも言いたげに。
その沈黙が、また誤解を深める。
「ごめんなさい、殿下」
クラリスが小さく割って入った。
「私が勝手にお声をかけてしまったのです。エレノア様を責めないでください」
「君が庇う必要はない」
「でも……」
周囲の視線が三人のあいだを行き来する。
誰もが思っていた。この構図は、近いうちに決壊する。高潔な王子と心優しい少女、そこに冷たい婚約者。あまりにも筋書きが出来すぎている。もはや誰も、それを止めようとはしない。ただ、決定的な一幕を待っている。
楽団が曲を変えた。
夜会の中央では、数組の男女が優雅に踊り始める。春の終わりの夜にふさわしい、軽やかなワルツ。幸福な社交界の象徴のような光景だった。
その光景を見つめたまま、エレノアは静かに言った。
「殿下、開会から四十分が経ちました」
「……何だ?」
「南方の穀物商会の代表が、まだ王家の来賓席へ案内されておりません。今夜の夜会には、王都東区の倉庫使用権に関する意向確認も含まれていたはずです」
「それがどうした」
「どうもしません。ただ、このまま放置なさるなら、明日から小麦の買い付け価格がさらに上がるだけです」
周囲の空気が、ぴたりと止まった。
アレクシスは一瞬言葉を失い、それから低く返した。
「今、この場で話すことか?」
「今この場でしか申し上げられないことです。あちらの代表は短気で、待たされることを何より嫌います。しかも隣にいるのはベルナール子爵夫人。夫人は西部の製粉業者と繋がっておりますから、王家との交渉が長引くようなら、喜んで別の買い手を紹介するでしょう」
「君は……」
「それから、第三柱の陰にいらっしゃる青い上着の方。北部の運送組合の代理人です。今夜、彼が何も言わずに帰れば、来月の川運賃は上がります」
誰も口を挟めなかった。
エレノアの視線は相変わらず冷たく、声音にも誇示はなかった。ただ事実を列挙しているだけだ。それなのに、聞かされる側は、自分たちが足元の仕組みを何ひとつ見ていなかったことを思い知らされる。
クラリスだけが、呆然と彼女を見ていた。
「エレノア様……それを、ずっとご覧になっていたのですか」
「夜会とは、そういう場でしょう」
返された言葉は淡々としていて、やはり少しも優しくない。
だがこのとき初めて、クラリスは社交界の噂とは別のものを見た気がした。
この人は、本当にただ意地悪なだけの女なのだろうか、と。
しかしその違和感は、次の瞬間には掻き消される。
「それでも」
アレクシスが低く言った。
「それでも君は、人への接し方を変えようとしない。どれだけ有能であっても、他者を傷つけてよい理由にはならない」
その言葉に、周囲はほっとしたように息をついた。
そうだ。今の一幕でたじろいだとしても、根本は変わらない。エレノアは冷たい。傲慢だ。人を人とも思わぬ物言いをする。ならばやはり、この物語の役どころは変わらない。
再び、悪女は悪女の席へと戻される。
エレノアは王太子を見つめた。
灰青の瞳に、硝子灯の光が冷たく映る。
「殿下のお言葉は、いつも正しいのですね」
「皮肉のつもりか」
「いいえ。羨ましいだけです」
その一言だけは、どこか本音のように響いた。
アレクシスは眉をひそめたが、問い返さなかった。問い返しても、この女はどうせ答えない。彼もまた、長い婚約期間の中でそれを知っている。
音楽が終わり、拍手が起きる。
給仕が新しい葡萄酒を運び、貴婦人たちは次の相手へと噂を移していく。夜会は表向き、何事もなかったかのように続いていくはずだった。
けれど空気は変わっていた。
薄い氷に、小さな罅が入ったように。
誰もが心のどこかで、何かの始まりを感じていた。
そのとき、大広間の入り口近くでざわめきが上がった。
遅れて到着したらしい一団の中に、王家の文官がいる。顔色が悪い。急ぎの報せでも持ち込んだのだろうか――そんな推測が、さざ波のように広がっていく。
エレノアは、ほんのわずかに視線を向けた。
ただそれだけで、彼女には分かった。
遅い、と。
南方商会への案内が滞った。北部の運送組合も不満を抱いたまま帰るかもしれない。王都の倉庫使用権、春麦の買い付け、河川輸送の調整。どれも今夜のうちに目を通しておくべきものだった。
けれどこの場の誰一人として、それを夜会の裏側を支える骨組みだとは思っていない。
見えていないのだ。
だから、壊れる。
エレノアはその事実を告げなかった。
どうせ誰も、まだ信じない。
代わりに彼女は静かに扇を閉じ、背筋を伸ばしたまま大広間を見渡した。光に酔い、音楽に安心し、幸福なふりを続ける人々。その中心で、王太子アレクシスはなおも正義の側に立っている。
きっと今夜は、まだ終わらない。
もっとはっきりした形で、この場の誰もが望んでいる一幕が訪れる。
断罪。
そんな言葉が、まだ誰の口からも出ていないというのに。
それでもエレノアには、はっきりと聞こえていた。
近づいてくる崩落の足音が。
――そしてその音は、なぜかひどく、静かだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし少しでも
「この悪女、本当にただの悪役なのか?」
「ここからどう断罪に繋がるのか気になる」
と思っていただけたら、ブックマークで追っていただけるととても励みになります。
次話では、夜会の空気がさらにきな臭くなり、
エレノアを取り巻く“噂”と“罪状”が、いよいよ表の場に引きずり出されます。
静かに立っているだけの彼女が、なぜここまで嫌われているのか。
そして、誰がこの舞台を整えたのか。
続きを楽しみにしていただけたら嬉しいです。
当面の間は1日3話を投稿予定です。
ブックマークしてお待ちください。




