遡って、触れる、境界の感覚を
朝の港は、すでに賑やかだった。彌彦神社の祭りに向かう船便が出ると聞いて、人が集まっている。荷を抱えた家族連れ、酒樽を運ぶ商人、楽器を背負った一座らしき人たち。空気が、どこか浮き足立っていた。
「……思ったより、人多いね」
満足燈彦が、少しだけ肩をすくめる。
「祭りがあるとこんなもんなのかもね」
船は、西川という信濃川の西を流れる支流を遡って、夕方頃に到着するらしい。向こうに着いたら、そのまま大部屋の宿に入れるそうだ。
川船は、三艘、用意されていた。私たちは、指示された船に乗り込んだ。船は小さく、丸太をくりぬいたような舟艇、あと帆が付いている。小型のヨットと大型のカヌーの中間みたいな感じだ。
笑い声、酒の匂い、誰かが鳴らす笛の音。巫女装束の私に、何度か視線が向くけれど、好奇のそれ以上ではない。
彼は、少し落ち着かない様子で、船縁に腰を下ろした。
「川を逆に行くのって不思議だと思ってたけど、川でも風を使うんだな」
「下るより、景色を楽しめるかも」
そう言って、私も外を見る。
船が動き出すと、港の喧噪はすぐに遠ざかった。代わりに広がるのは湿地帯の風景だった。ただ、いわゆる自然湿原ではなく、所々に田んぼも見えるし、小屋もある。米どころの原風景が、ゆっくりと流れていく。そして遠くに望む山が、静かに息をしている。
同じ川なのに、阿賀野川とはまるで違う。こちらは、人の暮らしと自然が一体になっている。
「……彌彦って、どんなところなんだ?」
彼が、そうぽつりと口にする。
「越後国一宮。大きな神社だけど、海を遮る山の麓にあって、人の往来を見てきた場所」
船が、ゆっくりと進む。
「祭神は天香具山命だったかな。神話で言えば、別名、高倉下。覚えてる?」
そう尋ねると、満足がこちらを見て少し顔を歪ませる。
「覚えてるよ。久世先生の授業で、グループワークのときのお題だった、初代天皇……神武天皇の東征神話に出てきた」
あのグループワークで、私は彼と初めて話した、と思う。それ以前のことは記憶が圧縮されているのか、本当に話したことがなかったのかは定かではないが、覚えがない。
「神武東征のとき、神の剣を届けた人。神の意志、その流れを繋いだ存在で、天皇の正当性を示した一人でもある」
「長脛彦を殺した、ブルータスだよ」
彼はそう軽口を叩く。あのグループワークのときは、ほとんど自分の考えを話さなかったのに、今日はちゃんと話してくれる。それは嬉しかったが、やはり癖は強い。
「それ、ログ残るよ。あと、これから行く社の主祭神、変なこと言わないで」
私がそう忠告すると、彼はへの字口をつくり、口をつぐんだ。
あのグループワーク。無難にまとめた発表が終わりそうだった最後に、彼は東征神話に、過激な指摘を加えた。
――神武天皇は、選ばれた天皇ではあるけど、神に選ばれたのではなく、状況に選ばれた天皇、天皇になることを選ばされたのではないか。……というような視点でも検討の価値があるかもしれません
その言外には、「人の都合によって、天皇にされた」という批判的な視点が含まれていた。そして、その指摘を久世先生は拾いあげ、指摘の根拠、その裏付けしながら、東征神話がいかに作り上げられていったのか、また、その構造を解説した。そして、気づけば講義の終了チャイムが鳴り、私たちの後で待機していた各グループの発表は翌週に持ち越しとなったのであった。
本人に、そんな意図はなかったのだろうことはわかっていた。ただ、あのとき同じグループだった私は、結果的にスタンドプレーですべてを持っていった彼に、モヤモヤした感情を抱いた。それははっきり覚えている。
でも、今ならば彼の見ていた世界が分かる気がする。私は実感してしまったから。
……選ばされた。状況によって選ばれた。まるで、この前までの私だ。
太陽が南中からかなり傾いた頃、船は速度を落とした。風が少しおさまったからだろう。そして遠くには、彌彦山の稜線が見えた。
「もうすぐ着くよ」
そう言うと、眠そうにしていた彼は、少しだけ息を吐いた。
祭りの前、人が集まり、神が降りる前の時間。船は、静かに岸へ近づいていった。
夕刻前、川船が岸に着いたころ、遠く西の空はもう朱を帯び始めていた。川を遡る船旅は賑やかだった。祭りを目当てにした人々の声、笑い、酒の匂い。けれど船を降りた瞬間、そのざわめきは足早に遠のいていく。残された私たちも、ゆっくりとそのあとを追った。
この辺りは、朝までいた港や、川から見ていた湿地帯、そしてそこから上流に行くにつれ広がっていった田園の雰囲気ともだいぶ違う。建物は増えてきたが、人は静かだ。祭りの前にもかかわらず、喧騒とは程遠い。微かにお囃子の音が聞こえるくらいだ。
遠目からでも見える鳥居、その先にある山の裾に抱かれるようにして立つ社は、荒ぶる気配はなく、しかし軽くもない。ここは、祀りが人と同じ目線で並んでいる場所だと感じた。
「……いいところだね」
私がそう言うと、彼は周囲を見回しながら頷いた。
「門前町って、こんな感じだったっけ。もっと、こう……せわしない印象がある」
「時代が違うしね」
ただ、参道に向かう道を進んでいくと、さすがに人が増えてくる。そして、微かに聞こえていたお囃子も、はっきりと耳に届く。
そして、日が沈んだ頃には、すっかり雰囲気が変わっていた。露店の数も、人の密度も、どこかおかしい。まるで、現代の祭りや、人気の花火大会にでもタイムスリップしたかのような、賑わい。人込み。騒がしさになっていた。
紙灯籠よりも、目立つのは色つきの光。それが宙に浮かび、ゆらゆらと動いている。
「平安時代の……祭りって、こんなだっけ」
思わず彼がそう口に出すと、私も首を傾げた。
「私も、あまりわからないけど、でも……」
言い表すならば、やはり現代的。その言葉がしっくりくる。山の祭りとは違う。祈りより先に、欲と好奇心が立ち上っているような感じだった。
太鼓の音。笛の高音。それらに混じって、どこか調子の外れた三味線の音が聞こえた。
「祭りって、だいたいこうなるんだよ」
そう言いながら、彼は人の流れを避けるように歩いていくので、私はそれについていく。屋台が並ぶ。焼き魚。甘味。酒……。
そして――境内の隅に一角だけ、空気の質が違う場所があった。
提灯の色が暗い。赤でも橙でもない、どこか濁った黄。人だかりはあるのに、笑い声が少しひきつっている、そんな空気感がそこにあった。
布で囲われた小屋がいくつか並んでいる。看板の文字は、やけに大きい。
『百年生きる肉』
『海より来たる不死の証』
『一切れで、寿命が延びる』
その下に、小さく添えられた文字。
『人魚の肉』
そこで、彼の足が止まった。
「……満足くん?」
……こんな明らかに詐欺みたいなものに興味があるのだろうか。
私も立ち止まり、彼の表情をのぞき込む。何かとんでもないものを見てしまった。そんな顔をしていたが、私の視線に気づくと、目を反らす。
「さあさあ! 本物だ! 嘘じゃない! 昔から伝わる話だろう? 人魚の肉を食った者は、老いぬと!」
屋台の前に立つ男が、声を張り上げている。
男の背後には、同じ布地で作られた小屋がある。屋台と、見世物小屋は、明らかに同じ一団だった。
「……買う人、いるのかな」
「いるよ」
彼は即答した。
「信じる人じゃなくて、信じたい人が……たぶん買う」
そう呟くと、彼は天幕へと目を向けた。屋台の横を通り過ぎると、布の隙間から影が見えた。人の背丈より低い影。首が、妙に長く伸びる影。誰かが三味線を弾いているらしく、調子の狂った音が、布越しに漏れている。
ちゃんとは見えないがわかる、二人羽織のろくろ首の見世物だろう。ただ、こういった見世物小屋のようなスタイルは、平安時代にはなかったはず。久世先生が監修をしているならば、安易なズレをそのまま置くとも思えない。
祭りは人が多い。人が多ければ、雑多にもなる。そう考えれば説明はつく。つく、はずだった。ただ、現代的な参道の雰囲気、屋台、そしてこの見世物小屋。そこには違和感しかなかった。そう考えると何かがある。そんな空気が、あからさまに漂っている気がしてくる。
「満足くん」
私は、彼の袖を軽く引いた。
「なにかありそう」
そう呟くと、彼も何かを感じとっていたようだ。
「うん、ちょっと怪しい感じがする。見世物としての怪しさじゃなくて、別の意味で無視していい感じがしない」
最近一緒にいる、彼らがよく使っているゲーム用語を思いだす。
「たとえば、何かの、えっと、フラグ?」
彼は、首を振ってから答える。
「どういう意味付けなのかはわからない。けど、実は港の酒場でも、同じ人魚の肉の噂を耳にした。ただの偶然かもしれないし、そうでないかもしれない。今は、そんなところで……なんの確信もない」
見るからに怪しいが、エンタテイメントとして見れば、彼らは悪いことをしているわけではない。そういう世界観を作っている。現実とファンタジーの狭間を、私たちに改めて見せつけてくる。
そこで、私は気づいた。
「あの人たちは、境界で生きている……、いや、そこでしか生きることを許されていない人たち……」
つい、そう考えたことを口にしていた。
「……ああ」
複雑な表情で頷く。そうだ、彼も多賀城からずっと、境界に立っていた。きっと、そのことはわかっていたのだろう。
私は、もう一度、屋台の看板を見る。
『百年生きる肉』
普段ならば笑ってやりすごす程度のもの。でも、なぜか喉の奥が、ひどく乾く。
もし本当に、そういうものがあるのだとしたら。――それは、祝福なのか。それとも、罰なのか。私はそんなことを考えていた。
「行こう」
その声に、意識が引き戻される。
見世物小屋は、祭りが終わっても、きっと彼らはどこかへ移動する。人魚の肉の屋台も、名前を変えて、別の土地へ行くのだろう。
夜の彌彦神社に、三味線の音が、かすかに溶けていった。そして――どこからが祭りで、どこからが現実なのか、境目だけが曖昧になった。




