水の中
落ちる、と思った瞬間、妙に冷静だった。
……ああ、来たな。
いつか足をすくわれる日が来るって、ずっと思ってた。
急に売れて、一気に注目を浴びて、もてはやされて。そう、あとは落ちるだけ。でも、誰かに引きずり降ろされるのは嫌だった。だから、ずっと努力もしてきたし、変な噂や醜聞が作られないよう、気を付けてもいた。
ただ、それでも早いか遅いかの違いだけで、これは予定表のどこかに書いてあった出来事だ。
ただ、――よりによって、ゲームの中。
……笑える。
現実じゃない。ここは試験用のVR世界。死んでも、現実の私には何の傷も残らない。強制ログアウトされて、初期キャラに戻るだけ。ダメージなんてない。むしろ美味しいまであるかもしれない。
それくらい、分かってる。ちゃんと、理解してる。
なのに。
……もう少し、このままでいたかったな。
そう思ったことに、自分で驚いた。このキャラで、この身体で、あの船で、あの人たちと。理屈じゃない。損得でもない。ただの感覚だ。
外套が風を孕んで、身体が宙に浮く。次の瞬間、世界が反転して、冷たい水が全身を包んだ。
――重い。
思ったより、海は重かった。
音が消える。視界が濁る。肺が反射的に空気を求めるけど、でも何も掴めない。
……無理だな。
ここで終わり。そう判断した、その直後だった。
誰か船から、海に飛び込んだのが見えた。
……助けに? は?
……無駄だって。馬鹿じゃないの?
……ここ、嵐の海だよ。荒波だよ。二人まとめて死ぬだけ――
腕を掴まれた。
強い。人の力じゃない、というほどじゃない。でも、異様に確実で、迷いがない。抱き寄せられる感覚。誰かは分からない。水の中で、像が歪む。
でも、海中を浮上する途中で少しだけぼやけて見えた。
その装備。無骨で、ちょっとちぐはぐで、妙に目立つ。
……満足。
なんで、あんたが。言葉にしようとしたけど、口は泡しか吐き出さない。代わりに、視界の端で、彼の輪郭が――おかしいことに気づいた。
水のせいで歪んでる――はずなのに、違った。影だけが、遅れてついてくる。影が、二重に見える。身体の動きに、遅れて、別の何かがついてきている。水の抵抗を、無視するみたいな動き。速い。異常に。
水面に顔が出た。空気が肺に入ってくる感覚が、生の感覚を呼び戻す。
「……しがみついとけ」
低い声。短い命令。説明も、確認もない。
反論しようとした。でも、そんな余裕はなかった。本能的に、言われた通りに腕にしがみつく。
その瞬間。
――引っ張られた。
海を、裂くみたいな感覚。波を越える、じゃない。波の中を、切り抜けていく。
速い。正気じゃない速さに感じた。
しがみつく力を強める中で、視界の端に、岩肌が見えた。近い。思ったより、ずっと。
「――あそこ!」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。指差す。岩場。波が砕けている場所。
満足の進路が、わずかに変わる。ためらいはない。確認もない。
次の瞬間、身体が岩に叩きつけられた。衝撃。痛み。でも――生きてる。足が、岩に触れる。
二人分の重さで転がるように、岸に這い上がったところで、ようやく呼吸が戻ってきた。ごほっ、と咳き込む。塩水と一緒に、余計な考えが全部吐き出される。
視界が安定して、隣を見る。満足は、息を荒くしている。でも、立とうとしている。まるで、これくらい当たり前みたいに。
……意味が分からない。
助かる確率なんて、限りなくゼロだったはずだ。合理的じゃない。効率も悪い。リスクしかない。……なのに。
「……馬鹿じゃないの」
そう言ったつもりだったけど、声は震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、分からない。
満足は、何も答えなかった。ただ、波打ち際の向こうを一度だけ見て、それから私を見た。
その目が、妙に静かで。そのとき、はっきり思った。
……ああ、こいつは、本当はこういう人なのか。




