例えば人生最後の日とか
最後の日とか
随分と更新出来なくて申し訳ないなと思っていた今日この頃、ようやく更新しました。大変すまない。忙しかったです。けれど、まだ忙しい事には変わりないので、本当に忙しくなくなるのはいつかなと思いました。一生来なくてもいいかな。
今年は色々あって、知り合った人も増えました。今、僕の周りにいる結構な人は僕の本を読んだからいるっている人が多いから、やっぱり表に出るのとそうでないのはこんなにも違うのだと知りました。
365の作業をしていた去年、あれからもう一年も経ったのかと思うと何だか不思議な気持ちでいっぱいだったりする。時間は一瞬だなと、歳を重ねる度に思う。同じ日は二度と来ないのに、似たような日々の連続だから感覚が狂っていく。ところで今日も首が痛いです。
あの頃の僕は何を思っていたっけと思い出す。確か一発屋で終わる事を酷く恐れていた。忘れもしない。出す事が決まった時、僕は次何を書こうかって思ったんだ。これから始まる作業への心配ではなく、本が出たその先を見ていた。僕にとって売れる事は重要だけど、正式に続けられる事の方が大きかったんだ。売れる=書き続けるに繋がるから余計にそう思ったんだろう。
僕は、その先を見ていた。
その先の、一年後の未来で僕はどう変わっただろうか。君への後悔を綴った物語は形を変え、この手から離れていった。巣立ちを見守る親のような気分だった。今、僕の胸は晴れやかだ。どうにもならない現実を受け止めて、変えられる選択を取っている。不思議な気分だ。僕は自分がこんな風になって、今この場所に立っている事など予想がつかなかった。
いつかの未来は、意外にもすぐそこにあった事。ならば僕の考える未来は、僕次第で期間を狭められる事を知った。この手には何もないと思っていたけれど、僅かな希望が残っていたらしい。いや、残っていたのではなく生まれたのだろう。何もなかった荒地に芽が出てくるのと同じように、それが大きくなるかは分からない。けれど、大きな希望になるかもしれない。そんな始まりを貰った気分だ。
まさか一年後も同じような状況にいるなんて、誰が予想しただろう。僕自身も考えられなかった。世界は思っていたよりも広くて、人生は思っていたより悲観的ではなかったらしい。後は、僕がどう変えられるかだけだった。
飛ぶにはまだ早い。けれど助走は学んだ。羽を動かす術も学んだ。そういえば、何で僕の名前が優衣羽なのかっていう話なんだけど、大前提としてもじっている所があって、漢字も変換で出てきたくらいなんだけど、最後の羽って文字は僕が飛び立ちたいからその漢字を選んだんだ。羽ばたくための翼が必要だと思った。ここじゃないどこかに行くために、僕に足りないのは羽とそれを動かすための勇気だと思った。
今、その羽は確かに背中に存在している。僕の名前の最後を彩り、飛び立たせる準備をさせている。軽い気持ちで決めた名前だけど、実は画数に意味があったり才を宿しているのは面白いなと思った。
年の瀬に思い出すのは、人生最後の日に何をしたいかだ。死を悟った時、何をしたいかと問われたら、世界が滅びる最後の日にどんな行動をとるか、僕はこれまでありきたりな返事をしていたと思う。美味しい物を食べたいとか、遠くに行きたいとか、何もせず家にいるとか。ずっと有り触れた回答をしていた。
けれど今は違う。多分、きっとその日にならないと分からないって答える。悲観するのも、非現実的だと唱えるのも、この身を投げ出すのも、きっとどれも正解で不正解だ。一つだけ確かな事があるとすれば、夢の中で何度も出てくる人物に一度でいいから会ってみたいと思うくらいだ。その人が好きでも何でもない。ただ、なぜ何回も出てくるのか不思議で仕方ないだけ。会った所で何かをしようとも思わない。ただ、この謎の現象にスッキリしたいのだと思う。運命とかどうでもいいから僕自身がスッキリするために会いに行くかもしれない。どこにいるか分からないけど。
ああ、でも。人生最後の日に皆にメッセージを送るかもしれない。それは気取った言葉なのか、くだらない一言なのか、悲観に暮れた感情なのかは分からないけど、何かしらは届けるだろう。知り合ってくれてありがとうと、僕に自信をくれてありがとうと話すだろう。
明けない夜はないんだって知ったんだ。忘れる事が幸せだとは限らないとも知った。背負う事が正解ではないのも分かっている。見えもしない未来に縛られるのも、向き合う事から逃げるのも、全部辞めようと思った。
ここから先は僕の物語だ。誰かへの想いを綴るのではない。僕の中で作り上げて完結させる物語だ。だからきっとまた賛否が分かれると思う。それに一喜一憂するだろう。でも、これが僕だから受け入れられない人は逆にさようならって言えるくらいの人間になるよ。
それではばいばい。また夜明けに。




