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三秒前と、お別れしよう  作者: 優衣羽
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今年もまた、匂いが君を思い出させる


冷房の効いた部屋で肩をさすって「寒い」と口にしていれば、君がやってきて自分のカーディガンを脱いで手渡した。「俺は大丈夫だから」と言って僕の膝上に置いたことを憶えている。ちょうどこんな気温の日だった。ちょうどこんな空気の匂いがした。


変わっていく季節の中で、どうしても変わらないのは空気の匂いだ。僕がこの地で、この国で生きている以上毎年同じ季節に同じ匂いを嗅ぐだろう。草をちぎった青臭い匂いと夏の涼やかな匂いが混じって初夏の匂いが生まれる。息を吸うたび胸が苦しくなって微笑みと共に鼻の奥がつんとするのは、まだ僕の記憶に君の断片が存在しているからだ。



もうずっと消えてしまった君の存在は幻だったのかもしれないと考え始めるようになった。僕が作った都合のいい幻想で、僕が描いた空想だったのかもしれない。しかし、君は確かに存在していたと分かる。脚色されようが、忘れてしまおうが、僕の長い人生の中でたった一年しか共に過ごしていない君がこの頭を独占するなんておかしいだろう。君はもう、忘れてしまったのかもしれない。憶えているのは僕だけかもしれない。それはそれで悲しいけれど、仕方のないことだと笑って済ませることが出来るのも知っている。僕はもう大人だった。


だから、君の断片が見えてしまうと。もうずっと心の奥に閉じ込めた君との思い出が顔を出してしまう。まだ子供だった僕が、大人になってしまったことを認めたくないと叫んでいる。正直な言葉を口にすることが出来ないくせに、ノートの片隅に君を描いた。君の隣にいようとした。それが恋であることにも気づかずに、身体は君の隣で息を吸うことを求めていた。


ワイシャツの袖ボタンまできっちり留めて、本当は寒かったのも知っている。時折、君が震えていたのを見た。それでも僕の膝にかかったカーディガンを見て授業中に笑っていたことを憶えている。僕の記憶はいつだって君のことで埋め尽くされている。


どうして初夏が好きなのか。多分君に恋していたからだ。自分の中で恋愛という言葉の答えが出る前に、君のことを求めていた。当たり前に優しさをくれたから、誰にでもする人なのだと勘違いした。本当は周りから見ても絶対に特別扱いを受けていることを知っていたのに。気づきたくなかったのだ。だってもう、傷つきたくなかった。


学生の恋愛なんて一瞬で終わることを知っていた。付き合ってから、思っていた人と違うと言われたのも一度や二度ではない。結局皆僕の表面しか見ていなかったから、振られることはなかったけど理解してくれないことばかりだった。それが嫌で、恋愛ごとから逃げていたのも事実だ。


詰まる所、僕は傷つきたくなくて自己保身に走り君を傷つけた大馬鹿者なのだ。


もう戻らない過去を振り返って後悔するのは大馬鹿者の所業だ。しかし、思い返す度懐かしさと少しの胸の痛み、そして微笑みで終わらせることが出来るようになったのは間違いなく僕があの日から歩き続けた結果なのだ。


あの日で立ち止まっていたなら僕はまだ君の面影を探していただろう。振り返って悲しくなって、君のいた場所を探そうとしただろう。会って何かを話すことも出来ないくせに、ただその姿を目に焼き付けたがっただろう。でも、今の僕は違う。


ずっと、ずっと。さよならも言えないまま遠い所まで来てしまった。後ろを振り返ればあの日がずっと遠くにある。制服姿の僕が、君の隣で息をしているままで止まっている。そこから先の僕はずっと一人だ。一人で困難に立ち向かって一人で傷つき悲しみ、一人で立ち上がってきた。右か左しか存在しなかった標識を蹴飛ばして何もなかった道に来た。選んだ道に後悔はない。何もなかった道は、少しずつ僕の手によってレールが作られ始めている。僕の目標に合わせて標識が出来た。信号も青いままだ。


それでも、まだ先に進もうとしないのは。僕の心があれが一番だったと叫んでいるからだ。あの気持ちが一番だった。あんなに心地良いものを知らなかった。幸せで目で追いたくなって、けれど僕自身の自立も出来た、バランスの取れた恋だった。依存するわけでもない、君は君、僕は僕であることを君は理解していた。僕の考えと同じこともあれば違うこともあった。けれど、それを嫌だと思う人でもなかった。


だから僕はこの空気を吸うたびに君を思い出すのだ。いつか、君を追い越してしまう人に出会うまで、君が他の誰かと結ばれようともふとした瞬間に君を思い出すのだ。それだけは許してほしい。


何年越しの片想いが叶わなかったとか、何も言えず突然の別れを経験したとか、きっとここに至るまで皆それぞれ色々なことがあっただろう。思い出してあの時こうしていればと思う時もあるだろう。


だから、僕は次は同じ過ちを繰り返さないって決めているんだ。何も言えずに終わってしまった日々が、言ってしまったからこそ傷つけた思いがここにあり続ける限り、君じゃない他の誰かを君と呼び始めるその瞬間まで。想いは静かに、この胸に存在し続けたままで。


空を仰いで変わりゆく季節を受け入れよう。

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