第47話 龍を縛る義、虎の決断
「甲斐の虎といえば、一昔前までは我が父、信虎を指していた。
由来は、儂以上の戦上手であったからだが、同時に非道な暴君でもあったからだ」
「その父を追放し、甲斐を富ませようとひた走ってきた儂が、同じ異名で呼ばれるとは……。因果なものよ」
上杉輝虎の眼差しを正面から浴び、冷たい汗が背筋を流れ落ちる。
思わず視線を伏せた。
この会談でもっとも重要な場面だが、ここまでの流れを踏まえれば、目を合わせずとも問題はないはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、言葉を重ねていく。
「上杉殿、儂はな……。先の戦いで、貴殿に斬られて思い知ったのだ。
所詮、儂もただの人間に過ぎず、いずれは死ぬのだと……。」
「神の思し召しによって、運よくこの命をつなぐことはできた。
だが、もしあの時、儂が死んでいたら……。武田はどうなっていたか。そう考え、愕然とした」
「間違いなく信濃は荒れる。
儂は甲斐を優先するあまり、信濃を軽んじすぎていたからな。
荒波が押し寄せ、甲斐は一昔前の貧しさへと逆戻りし、武田家そのものが潰える可能性すらあった」
「だが、しかしだ……。
これからは甲斐と信濃を分け隔てなく治める。それを儂が口にしたところで、誰が信じようか」
「ゆえに、儂が生き延びたのが神の思し召しであるならば……。
それは同時に、神が与えた『機』でもあると考えた。
だからこそ、家督を義信に譲ったのだ」
かくして、信繁さんと勘助さんの二人から、何度も何度もリテイクを受け、必死に覚え込んだ俺の長台詞は終わった。
判定を仰ぐように、視線を正面へ戻すと、上杉輝虎は顎をやや上げ、目を閉じたまま腕を組んでいた。
一呼吸、二呼吸、三呼吸と数えて待ち、乾いた喉に唾を送り込もうとした、その矢先。
「義信殿の急逝……。心よりお悔やみ申し上げる。
だが、私が聞きたいのは、なぜ貴方が和を結ぼうとしたのかだ。
家督を譲った理由ではない」
上杉輝虎が目を開いた。
眼差しの鋭さは、閉じる前と変わらない。
だが、義信の死を悼む言葉には真心が感じられ、判定は合格だと悟る。
大きな達成感が胸に満ち、演技ではない笑みが、思わず口元からこぼれた。
「ふっ……。心、忙しきことよ。
今のは前振りに過ぎぬ。
儂が、かつての儂とは違うということを、貴殿に知ってもらわねばならぬからな」
ここまで来れば、勝ち筋は見えた。
この会談における最重要課題は、晴信という人間がいかに変わったかを、相手に信じ込ませることにある。
現代の評価では、晴信は戦上手という強いイメージを持たれているが、実際はそうではない。
本当に戦上手なのは晴信を支える武田家の家臣たちであり、晴信個人は奇襲や策に嵌められた経験も多く、戦術面ではやや弱い。
それでも武田家が勝ち続けてきたのは、晴信が謀略に長け、戦場を整え、戦う前に勝利を掴んできたからだ。
敵将を寝返らせ、勝つためなら卑怯とされることでも平然とやってのける。
その姿勢こそが、義を重んじる上杉輝虎と相容れなかった部分である。
「失礼ながら……。急いておられるのは、むしろそちらではありませんか」
「……まあ、そうだな」
「これまで返事を曖昧にしてきた非はこちらにもあります。
その点は否定いたしません。
しかし……。
大軍を率いてまで私を誘い出した、その真意を。
私は、ぜひとも知りたいのです」
だが、それはすでに解消されたと見るべきだろう。
試しに煽ってみたが、上杉輝虎は武田家と和を結ぶ理由こそ問うものの、それ自体を否定する言葉は口にしなかった。
改めて思う。
上杉輝虎の心中に、いったいどのような変化があったのだろうか。
罵詈雑言の嵐を浴びせられる覚悟すらしてきたというのに、この冷静で洗練された対応ぶりだ。
これはいけると判断し、勝負を仕掛ける。
「なるほど……。もっともな疑問だ。
だが、ここは敢えて問い返させてもらおう。
上杉殿。貴殿は義輝様と親交が深く、なおかつ、その眼で京の有り様を二度も目にしていながら……。何も感じなかったのか?」
「なっ!? 私を愚弄するおつもりか!」
たちまち上杉輝虎は目を見開き、怒気を露わにした。
床几から勢いよく立ち上がる。
無理もない反応だ。
義を旗印に掲げる上杉輝虎にとって、この問いは侮辱以外の何ものでもなかった。
「では、なぜ兵を率いて上洛しないのだ?
聞けば、昨年……。いや、一昨年だったか。
越中の半ばまで兵を進めながら、結局は引き返している。
その理由は何だ?」
「それはっ!」
「そう、儂がいるからだ」
「ぐっ!?」
「儂を警戒し、越中の半ば以上へは兵を進められなかったのだろう?」
「……その通りだ」
続けた煽りも、最初から答えの分かっている問いかけだ。
それを怒鳴ろうとする上杉輝虎に先んじて告げると、輝虎は憤りの行き場を失い、悔しそうに言葉を吐き捨てた。
「儂も同じだ。貴殿に睨まれていては、身動きが取れんのだよ」
まさしく、台本通り。
その茫然と表情こそが勝利の証だ。心の中で小さくガッツポーズを決める。
人知れず今日まで重ねてきたリハーサルの苦労が報われた。
そして、その答えこそが、上杉輝虎の問いへの真の答え。
すなわち、武田家の総力を挙げた上洛の意思表示にほかならなかった。
「もしや、上洛をお考えで!」
その意を悟り、黙ってはいられなくなった藤孝殿が声を上げた。
「ふっ……。長らく待たせたな」
「おおっ!」
俺がニヤリと笑って頷くと、藤孝殿は喜色満面の笑みを浮かべた。
桶狭間の戦いが歴史通りに起きた今年こそが、戦国時代の分岐点だ。
戦国の寵児『織田信長』の台頭に続き、新兵器『鉄砲』の普及による戦術の劇的な変化。
この歴史の大きなうねりに立ち向かわず、現状に甘んじて変わらなければ、全国の大名は史実と同じ道を辿ることになる。
鉄砲そのものは、アンテナを高く張れば甲斐や信濃でも手に入る。
すでに物好きな鍛冶師を数名招聘し、信濃のとある山奥では、鉄砲の独自開発と改良、さらには将来を見据えた量産計画が動き始めている。
「貴殿が、上洛っ……。だとっ!?」
だが、信長が本格的に台頭し始めれば、武田家は良くて現状維持だ。
織田が尾張の北、美濃を版図に加えれば石高で武田を上回り、さらに尾張の西、伊勢志摩まで手に入れれば、資金力でも決定的な差がつく。
尾張はあまりにも好立地だ。
だからこそ、信長がまだ本格的に台頭する前の今こそが、絶好の機会となる。
だが、上洛を実行するうえで最大の障害となるのが、晴信と上杉輝虎の確執だ。
後顧の憂いを断たねば、武田家は西へ進むことはできない。
「だが、しかし……。
儂と貴殿の因縁を思えば、言葉をいくら重ね、誓紙を何枚取り交わしたところで、不安は残ろう」
「むっ!?」
信繁さんは言った。
上杉輝虎との確執を解くなど、絶対に不可能だと。
勘助さんは言った。
上杉輝虎との確執は十年に及ぶ。
可能性があるとすれば、それは粘り強く交渉を重ねた末、十年後だと。
俺は二人に言い返した。
上杉輝虎の強い正義感は、美点であると同時に欠点でもある。
それを上手く利用すれば、確執を解かずとも、同盟を結ばざるを得なくなる、と。
「よって儂は、上杉殿が盟約を結んでくださるのであれば……。
犀川を境とした北の善光寺平を御料地として、帝に献上する意思がある!」
そう、これこそが上杉輝虎を説き伏せるための三つ目の必勝策。
藪を突いたら、蛇ではなく龍が出てくるぞ大作戦だ。




