幕 間 上杉輝虎、夢の跡
「義信が死に、勝頼が家督を継ぐ。
結果だけ見れば、儂が四年前に予見した通りでありますが、これは先ほども否定したところ」
「ならば、信玄は何故、復帰せず相談役に留まったのか。
そこにこそ、答えがあると儂は考えます」
重ねられる爺の問いかけ。
年寄りの話は長いと相場は決まっているが、それでも焦れったく感じられた。
「ええい、早く教えてくれ!」
「では……。先の戦の後、殿は事あるごとに憤っておられましたな?
信玄は、自分が確かに討ち取ったはずだと」
そこへ、さらなる問いかけが重ねられたその瞬間。
武田家との先の戦いで受けた屈辱が、まざまざと蘇った。
その怒りは言葉となり、次から次へと溢れ出す。
「そうだ! 儂は、確かに信玄を斬った!
首こそ取れなかったが、儂の刀は信玄の首を、深々と斬り裂いたのだ!」
「濃い霧の中であろうと、儂が信玄を見誤るはずがない!
その姿も、手応えも、確かにあった!」
「だからこそ、これ以上の無益な戦いを止めさせるため、儂はその旨を全軍に伝えたのだ!」
「ところがどうだ!
勝ちを急ぐ気持ちがあったとはいえ、一夜明ければ……。
儂は武田から、ホラ吹き呼ばわりだ!」
「その悔しさが、分かるか?
この儂が、嘘つきと呼ばれたのだぞ!」
「たまたま落ち延びた生島足島神社に、名医が居ただけではないか!
その名医が居なければ、信玄は間違いなく死んでいた!」
思い返せば、思い返すほど、怒りは煮えたぎった。
爺が聞いてくれるのであれば、一晩でも、二晩でも、語り続けたかった。
「そう、それです!」
「……う、うん?」
しかし、爺が人差し指を勢いよく突き出し、大声で遮ると、儂は思わず言葉を飲み込んだ。
「家中に、一人くらい心当たりはございませんかな?
以前は先陣を切るのが生きがいのように戦場でイケイケドンドンだった者が……。
半死半生の傷を負い、九死に一生を得た結果、性格が丸くなり慎重さを身につけた。そんな者を」
「ま、まさかっ!?」
そして、ようやく爺が言いたかったことの意味を理解する。
爺の言う通り、そういった例は確かに存在する。
だが、信玄もそれに当たるというのか。
「ましてや、信玄は生島足島神社で九死に一生を得ております。
殿の仰る通り、そこに名医がたまたま居たのですから、天の思し召しをさぞや感じたことでしょう」
「だからこそ、それまでの行いを悔い改め、仏門へ入ったのでございます。
まあ……。京での行いぶりから察するに、本当は八百万の神に仕える神職に就きたかったのかも知れませぬ」
「しかし、武田家は清和源氏の血筋。
遠く遡れば、帝の血が流れており、神職を許された一族以外が勝手に就けば、帝に対する反逆と見なされる可能性がございますからな」
爺の言葉は説得力に満ちていた。
言葉を重ねるたびに、その信憑性は増し、否定したい衝動を押し留められる。
儂は信玄が心を改めることを望んでいたはずだ。
いざ改心の様子を目の当たりにし、それを最も信頼する爺が肯定すると、心は千々に乱れ、鼻息まで荒くなる。
この感情の正体は、一体何なのか。
「で、では……。あ、ああも大軍を率いてきた理由は、何だ!」
心が震えていると、声も自然と震えた。
身もまた震え、その指で善光寺平の彼方に見える武田家の軍勢を指し示す。
「それは殿ご自身が、一番よくお解りかと」
「わ、儂が迷っているからか?」
しかし、爺の駄目押しが再び、儂の心の醜さを直視させる。
儂はその可能性に、最初から気付いていた。
気付いていながらも、心の隅に置き、目を背けていたのだ。
「左様……。
一昨年、上洛して以来、殿は将軍様の願いをのらり、くらりと躱してまいりました。
是とも非とも答えを出さず、曖昧に誤魔化して……。」
「正直、何事も即決を旨とする殿らしからぬ姿ではありました。
だが、それも詮無きこと。
我らが知る信玄と、将軍様が語る信玄とでは、大きな隔たりがございましたからな」
「しかし、もう無視も出来ず、誤魔化しも通用しません」
「そう、信玄は痺れを切らし、殿を話し合いの場に立たせるため、大軍を率いて出向いてきたのです。
今日か明日には、必ず使者を送ってくるでしょう。
その使者が誰であるかで、信玄の本気度がはっきりと分かるはずです」
しばらくして、爺の話に耳を傾けるうちに、興奮は少し収まり、この胸をかき乱していた心の正体が見えてきた。
これは、達成感である。
血を分けた親兄弟ですら憎み、戦い合う戦国の世を儚みつつ、義の旗を掲げ、幾多の戦場を駆け抜けてきた自分の行為は、決して間違いではなかったのだ。
「たとえ、その使者が木っ端であろうと、今回は話し合いにのみ応じ、退くべきでございます。
今、武田家と刃を交えれば、必ず敗北いたすでしょう」
「八幡原なる地にて、信玄が三日三晩に渡って行われた英霊祭……。
上杉、武田を問わず、善光寺平を巡る戦いで散った者たちを『英霊』として称えるとは……」
爺が今言った『英霊祭』こそ、確かな証拠である。
断言する。かつての信玄なら、このような催しを決して行わなかった。
信濃中の寺社から僧や神官を招き、英霊を祀る社や石碑び建立までしている。
忍の報告によれば、いずれは全ての武家が武運の神として崇める、八幡神の総本社『宇佐神宮』から正式な分社様を招き、大きな神社を建立する計画があるという。
つまり、信玄の野心放棄宣言に等しい。
もしこれほどの祭を催しておきながら、信玄が北信濃における版図拡大を企み、善光寺平を戦場に変えたとすれば、信濃中の寺社は間違いなく背を向ける。
善光寺平のみならず、信濃全域の統治に多大な悪影響を及ぼすことは、疑いようもない。
「敵ながら、見事っ!
たとえ戦場で命を散らそうとも、英霊と称えられるのであれば、武田の兵どもは信玄のために喜んで命を差し出すでしょう」
「死兵ほど厄介なものはござりません。
それが万を超えれば……。敗北は必至!」
「されど、それ以上に問題なのは……。
兵どもが、今の武田と戦うことに疑念を抱き始めていることでございます」
「英霊と称えられた者の中には、兵どもの親兄弟や子どもが少なからずおります。
……であるならば、英霊として称えてくれた信玄に刃を向けることは、すなわち親兄弟や子どもに刃を向ける所業となります」
もっとも、それは我らにも当てはまる。
爺の言う通り、今の武田家の軍勢に戦いを仕掛ければ、敗北は必至である。
儂の訴える義は地に落ち、その旗を二度と掲げることはできない。
さすがは信玄と称賛する他はない。
万事、成すことに抜かりがない。
いつしか心は今日の大空のように青く澄み渡り、軽やかな笑いが自然と零れた。
「はっはっはっはっはっ!
改心したとはいえ、信玄は信玄! 一筋縄ではいかんな!」
「ふぉっふぉっ! まったくでございますな!」
余談だが、信玄が使者を送ってきたのは、この日の夕方であった。
しかも、その使者が信玄の腹心中の腹心、実弟の武田信繁であったため、陣中は上を下への大騒ぎとなったのは言うまでもない。




