第65話 「澪、目覚める」
意識が、戻ってくる。
ゆっくりと。
まるで、深海から浮上するように。
暗闇。
冷たさ。
そして、静寂。
何も聞こえない。
何も見えない。
何も感じない。
だが、確かに存在している。
自分という、意識。
藤宮澪は、目を開けた。
白い天井。
無機質な照明。
蛍光灯の、冷たい光。
医療施設特有の、消毒液の匂い。
ここは、どこだ。
記憶が、断片的に戻ってくる。
感染。
逃走。
避難船。
北方への航海。
そして、冷凍睡眠。
アーク・ステーション。
医療区画。
コールドスリープ・ユニット。
第三層、第七区画、ベッド番号一八二。
澪は、ゆっくりと身体を起こした。
筋肉が、きしむ。
ミシミシと音がする。
関節が、鳴る。
ポキポキと。
長期間動かしていなかった、証拠。
どれくらい、眠っていたのか。
視界の端に、モニターが見える。
青白い光を放っている。
そこに、日付が表示されていた。
2028年11月15日
午前6時42分
澪の記憶では、2025年8月3日。
三年と三ヶ月。
彼女は、三年間眠っていた。
千日以上。
ベッドから降りる。
足が、ふらつく。
重力を忘れている。
壁に手をつき、バランスを取る。
冷たい。
壁が、冷たい。
金属の感触。
筋力が、落ちている。
体重も、減っている。
推定、十キログラム。
身長百六十センチメートル。
体重、おそらく四十キログラム。
だが、生きている。
心臓が、動いている。
ドクン、ドクン。
肺が、動いている。
スーハー、スーハー。
生きている。
部屋の中を見回す。
縦五メートル、横五メートル、高さ三メートル。
白い壁。
白い床。
白い天井。
すべてが、白。
窓はない。
ドアが一つ。
モニターが一つ。
ベッドが一つ。
それだけ。
簡素な、部屋。
まるで、牢獄のような。
モニターに近づく。
画面に、文字が表示されていた。
【蘇生完了】
【患者名:藤宮 澪】
【年齢:28歳】
【冷凍睡眠期間:1,200日】
【バイタルサイン:正常】
【心拍数:72 bpm】
【血圧:110/70 mmHg】
【体温:36.4℃】
【筋力低下:予測範囲内】
【担当医を呼び出しますか?】
澪は、画面をタッチした。
YES。
画面が切り替わる。
【呼び出し中】
【担当医:Dr. Wolfgang Schmidt】
【到着予定時刻:3分】
澪は、ベッドに座った。
深く、息を吐く。
三年。
三年間、世界は動いていた。
自分が眠っている間に。
世界は、どう変わったのか。
三分後。
ドアが開いた。
白衣の男性が入ってくる。
年齢、五十代後半。
身長、百八十センチメートル。
白髪混じりの髪。
深い皺。
疲れた目。
「藤宮さん、お目覚めですね」
男性の声は、穏やかだった。
ドイツ訛りの、英語。
「私は、担当医のヴォルフガング・シュミット」
「はじめまして……」
澪の声が、かすれる。
喉が、乾いている。
砂漠のように。
「ここは……」
「アーク・ステーション、医療区画です」
シュミットが、水の入ったカップを差し出す。
「ゆっくり飲んでください」
「一気に飲むと、吐きます」
澪は、水を飲んだ。
少しずつ。
冷たい。
喉を通る感覚が、生きていることを実感させる。
美味しい。
水が、こんなに美味しいなんて。
「ありがとうございます」
澪が礼を言う。
シュミットは、微笑んだ。
だが、その目は笑っていなかった。
「体調は、いかがですか?」
「少し……ふらつきますが」
澪が答える。
「問題ありません」
「筋力低下は、予測範囲内です」
シュミットがタブレットを操作する。
「リハビリプログラムを組みます」
「一週間で、日常生活に戻れるでしょう」
一週間。
澪は頷いた。
「私は……どれくらい眠っていたんですか」
「三年と三ヶ月です」
シュミットが答える。
「2025年8月3日、午後三時に冷凍睡眠へ」
「そして今日、2028年11月15日、午前六時に蘇生」
「正確には、千二百日と十五時間です」
千二百日。
澪は、その重みを理解できなかった。
三年という時間。
世界は、どう変わったのか。
「外は……」
澪が問う。
シュミットの顔を、まっすぐ見る。
「地上は、どうなっていますか」
シュミットの表情が、曇った。
彼は、ゆっくりと首を横に振る。
深く、息を吐く。
「話すべきことが、たくさんあります」
彼の声が、低くなる。
「まずは、椅子に座ってください」
澪は、椅子に座った。
シュミットも、向かいの椅子に座る。
二人の間に、沈黙が流れる。
シュミットは、タブレットを机に置いた。
そして、澪の目を見た。
「単刀直入に言います」
シュミットの声が、低くなる。
「人類は、敗北しました」
澪は、息を呑んだ。
「地上の九十七パーセントは、覚醒ゾンビの支配領域です」
シュミットが続ける。
「人類生存者は、推定七千二百名」
「全員が、このアーク・ステーションに避難しています」
「他に、生存拠点はありません」
七千。
かつて七十億いた人類が、七千。
〇・〇〇〇一パーセント。
「そんな……」
澪の声が震える。
「嘘でしょう……」
「残念ながら、事実です」
シュミットがタブレットを操作する。
画面に、データが表示される。
「あなたが眠っている間、多くのことがありました」
彼の声が、静かに響く。
画面に、年表が表示される。
2025年9月:日本本州陥落
2025年12月:韓国・台湾陥落
2026年3月:中国全土陥落
2026年6月:東南アジア陥落
2026年10月:欧州陥落
2027年2月:中東陥落
2027年5月:南米陥落
2027年8月:北米陥落
2027年12月:アフリカ陥落
2028年6月:オセアニア陥落
次々と表示される、日付と地域名。
すべてが、陥落。
すべてが、失われた。
「人類は、抵抗を続けました」
シュミットの声が、静かに響く。
「あらゆる手段を使いました」
画面が切り替わる。
核兵器使用記録:127発
生物兵器使用記録:43種
化学兵器使用記録:89種
プラズマ兵器使用記録:2発
「核も、使いました」
シュミットが続ける。
「生物兵器も、使いました」
「化学兵器も、使いました」
「そして、オメガ・ファイアも」
「オメガ・ファイア?」
「プラズマ収束砲です」
シュミットが説明する。
「温度、一億度」
「広島型原爆の二十四倍の威力」
「東京とムルマンスクを、焼却しました」
一億度。
澪は、言葉を失った。
「だが、無駄でした」
シュミットの声が、さらに低くなる。
「彼らは、すべてに適応しました」
「核にも」
「生物兵器にも」
「化学兵器にも」
「プラズマにも」
「適応……」
「進化です」
シュミットが画面を切り替える。
「Z波は、学習します」
「そして、進化します」
「攻撃するたびに、強くなります」
画面に、Z波強度のグラフが表示される。
右肩上がりの、指数関数的な曲線。
2025年8月:レベル5.2
2026年8月:レベル6.8
2027年8月:レベル8.4
2028年11月:レベル10.3
「三年前、レベル五でした」
シュミットが指でグラフをなぞる。
「今は、レベル十を超えています」
「倍増しています」
澪は、データを凝視した。
理解が、追いつかない。
その時、頭に激痛が走った。
ズキン。
澪は、頭を押さえる。
両手で、こめかみを押さえる。
「大丈夫ですか?」
シュミットが立ち上がる。
心配そうな表情。
「少し……頭が」
澪が呻く。
また、痛みが走る。
ズキン、ズキン、ズキン。
鼓動と同期している。
心臓が打つたびに、痛む。
そして、映像が流れ込んできた。
黒い波動。
紅い波動。
緑の波動。
青い波動。
無数のゾンビ。
群れ。
統合意識。
ネットワーク。
これは、何だ。
映像は、止まらない。
次々と流れ込んでくる。
洪水のように。
東京の廃墟。
ムルマンスクの氷原。
モスクワの荒野。
そして、二つの存在。
金色の眼。
黒い波動。
理性の王。
藤原京。
紅い眼。
紅い波動。
破壊の鬼。
神谷刃。
「澪さん!」
シュミットの声が、遠くに聞こえる。
だが、映像は止まらない。
さらに流れ込んでくる。
波動。
意識。
記憶。
感情。
これは、Z波の記録だ。
澪は、理解した。
自分の脳内に、Z波の記録がある。
三年分の、すべてが。
なぜ。
記憶を辿る。
三年前。
感染前。
彼女は、ウイルス研究者だった。
国立感染症研究所。
Z-Virusの初期サンプルを解析していた。
その時、事故があった。
レベル4実験室。
サンプル容器の破損。
ウイルスが漏洩。
彼女は、微量に曝露した。
感染はしなかった。
抗体が、形成された。
だが、Z波に触れた。
脳が、Z波を記録した。
その記録が、脳内に残っている。
そして、今、目覚めた。
三年分の、Z波の記録とともに。
「澪さん!」
シュミットが肩を揺する。
強く。
映像が、止まった。
澪は、深く息を吐いた。
ハアハアハア。
荒い呼吸。
額に、冷や汗が浮かんでいる。
「大丈夫ですか?」
シュミットが問う。
「何が見えたんですか?」
澪は、シュミットを見た。
そして、静かに答えた。
「彼らの、記憶です」
シュミットの目が、見開かれる。
「彼ら?」
「覚醒ゾンビです」
澪の声が、静かに響く。
「私の脳内に、Z波の記録があります」
「三年分の、すべてが」
「そんな……」
シュミットが絶句する。
「それは……可能なんですか」
「可能です」
澪が答える。
「私は、見ました」
「彼らの視点を」
「彼らの感情を」
「彼らの意図を」
シュミットは、椅子に座り込んだ。
澪は、立ち上がった。
ふらつく身体を、意志で支える。
壁に手をつき、バランスを取る。
「私を、クラウス評議官のところへ連れて行ってください」
澪の声が、強くなる。
「しかし、あなたはまだ……」
「今すぐです」
澪が遮る。
「伝えなければならないことがあります」
「人類が、知るべきことが」
シュミットは、躊躇した。
だが、澪の目を見て、頷いた。
「分かりました」
彼が立ち上がる。
「ついてきてください」
「ただし、ゆっくりと」
二人は、部屋を出た。
廊下は、白かった。
すべてが、白。
無機質な、世界。
人工の、光。
澪は、壁に手をつきながら歩いた。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
途中、何人かの人々とすれ違う。
全員が、疲れた顔をしている。
希望のない、目。
エレベーターに乗る。
上昇していく。
第六層へ。
中央管制室へ。
エレベーターの中で、澪は考えていた。
自分の脳内にある、記録。
Z波の、記憶。
それは、何を意味するのか。
そして、一つの結論に至った。
自分は、橋渡しだ。
人類とZ波の、橋渡し。
観測者。
記録者。
そして、語り部。
人類最後の、証人。
エレベーターが止まった。
扉が開く。
そこには、疲れ果てた人々がいた。
三十名ほどのオペレーター。
全員が、モニターを見つめている。
誰も、話していない。
静寂。
そして、中央の指揮席に座る、一人の男性。
白髪。
深い皺。
疲労に満ちた目。
ヴェルナー・クラウス。
第一評議官。
彼は、澪を見た。
そして、驚きの表情を浮かべた。
「藤宮さん……目覚めたのですか」
彼の声は、かすれていた。
「はい」
澪が答える。
「そして、伝えるべきことがあります」
クラウスは、立ち上がった。
ゆっくりと。
老人のように。
彼は、澪に近づく。
「何を?」
「彼らの、真実を」
澪の声が、管制室に響く。
「Z波の、意図を」
管制室が、静まり返った。
全員が、澪を見ている。
三十の視線。
澪は、深く息を吸った。
そして、静かに告げた。
「彼らは、滅ぼそうとしているのではありません」
沈黙。
「では、何を?」
クラウスが問う。
「更新です」
澪の声が、静かに響く。
「人類という種を、更新しようとしているんです」
「古いバージョンを削除し、新しいバージョンをインストールする」
「それが、Z波の目的です」
静寂。
誰も、言葉を発しない。
そして、澪は続けた。
「私は、見ました」
「彼らの記憶を」
「彼らの意図を」
「そして、彼らの未来を」
クラウスが、問う。
「未来とは?」
「新しい世界です」
澪が答える。
「人類が終わり、新しい種族が始まる世界」
「それは、もう止められません」
管制室が、震えた。
誰もが、理解した。
人類の時代は、もう終わっている。
澪は、窓の外を見た。
北極の空。
まだ、夜明け前。
星が、瞬いている。
そして、静かに呟いた。
「私は、それを記録します」
「人類最後の、記録者として」
「終わりを、見届けます」
静寂。
そして、新しい役割が始まる。
(了)




