第55話「虚ろなる神話」
中国。四川省。成都。
百万人の避難民を抱える、人類最後の大規模避難地。
高さ十メートルの壁が、街を囲んでいる。
鉄筋コンクリート製。
壁の上には、百基の機関銃座。
入口には、二十台の戦車。
それでも——防げなかった。
壁の外には、五十万体のゾンビが待機していた。
人民解放軍残存部隊の指揮官——李将軍が、司令室の窓から外を見つめる。
五十五歳。北京軍区出身。三十年の軍歴を持つ歴戦の軍人。
だが——今、彼の顔には疲労の色が濃い。
参謀が、報告する。
「将軍。食料は、あと二週間分です」
「配給を削減しろ」
「既に——一日一食です」
「二日に一食にしろ」
参謀は、頷くしかなかった。
李将軍は、壁の向こうのゾンビの群れを見る。
動かない。
まるで——何かを待っているかのように。
その答えは——すぐに明らかになった。
◆
成都から、三百キロメートル西。
チベット高原の麓に——神谷刃は立っていた。
一人で。
群れも、部下もなく。
ただ——東へ歩く。
成都へ。
刃の眼は、紅く光っている。
その視線は——虚ろだった。
焦点が、定まらない。
刃の口が、動く。
「……殺す」
低く、掠れた声。
獣の唸りのように。
「全て——殺す」
彼は、歩く。
一歩、また一歩。
その足跡が、地面に深く刻まれる。
まるで——重力が増幅されているかのように。
足元から——亀裂が走る。
蜘蛛の巣状に。
大地が、震える。
刃が歩くたびに、地面が揺れる。
小石が、跳ねる。
刃の身体から、赤いオーラが噴き出す。
まるで——炎のように。
それは——殺意だった。
純粋な、殺意。
理性のない。制御されていない。
ただ——破壊を求める、衝動。
刃は——壊れていた。
人間性を、失っていた。
理性を、失っていた。
残っているのは——本能だけ。
殺す本能。
壊す本能。
だが——。
彼の奥底に、わずかな何かが残っていた。
記憶。
かつて、守りたいと思った者の記憶。
かつて、大切だと思った何かの記憶。
曖昧で、もう思い出せない。
ただ——感覚だけが残っている。
守る。
それが——彼の最後の理性だった。
◆
成都。
壁の上で、見張りの兵士が叫んだ。
「来るぞ! 西から——何かが来る!」
李将軍が、双眼鏡を取る。
地平線の向こうから——一つの影。
人影。
だが——人間ではない。
周囲の空気が、歪んでいる。
赤いオーラが、見える。
李将軍の手が、震える。
「……Z-02」
神谷刃。
紅の鬼神。
太平洋艦隊を、単独で壊滅させた怪物。
核を、斬り裂いた化け物。
人類の悪夢。
それが——来る。
李将軍は、通信機を取る。
「全軍、戦闘配置! Z-02が接近中!」
その言葉が終わる前に——。
刃が、動いた。
跳躍。
音速を超える速度。
ソニックブーム。
衝撃波が、大地を抉る。
刃は——壁に到達した。
そして——。
刀を、振るう。
横薙ぎ。
一閃。
赤い光が、放たれる。
幅、五百メートル。高さ、百メートル。
巨大な赤い刃が——壁を切断した。
音もなく。
抵抗もなく。
鉄筋コンクリートが、豆腐のように斬られる。
断面は、滑らかだった。
ガラスのように。
壁が——崩れる。
轟音。
土煙が、舞い上がる。
地面が、揺れる。
刃が、中に入ってくる。
ゆっくりと。
まるで——散歩をするかのように。
李将軍は、叫ぶ。
「撃て! 全力で撃て!」
機関銃が、火を噴く。
戦車が、砲撃する。
ロケットランチャーが、発射される。
だが——。
刃は、刀を一閃させる。
回転斬り。
その軌跡が、赤い円盤になる。
全ての弾丸が、斬られる。
全ての砲弾が、空中で爆発する。
攻撃は——全て無効だった。
刃は、進む。
街の中へ。
大通りを。
まっすぐに。
避難民たちが、逃げ惑う。
叫び声。悲鳴。泣き声。
子供を抱えて走る母親。
老人を支える若者。
皆——必死だった。
だが——刃は、止まらない。
彼の視界には、人間が映っていない。
ただ——前だけを見ている。
刃が、刀を振るう。
縦一文字。
三十階建ての高層ビルが、中央から崩壊する。
瓦礫が、降り注ぐ。
人々が、潰される。
数百人が、一瞬で死ぬ。
刃は——それを見ていない。
ただ——歩く。
破壊しながら。
殺しながら。
◆
成都の中心部。広場。
避難民たちが、集まっていた。
逃げ場がない。
ゾンビの群れが、四方から迫っている。
その中心に、刃が立っていた。
刀は、血に濡れている。
何百人を、斬った血。
刃の眼は、紅く光っている。
だが——その奥に、何かがあった。
迷い。躊躇。
それは——わずかだった。
ほとんど、感じられない。
だが——確かに、あった。
刃は——人々を見る。
老人。女性。子供。
全てが——怯えている。
泣いている。
命乞いをしている。
刃の手が——止まる。
刀を、構えたまま。
だが——振り下ろさない。
彼の紅い眼が、わずかに揺れる。
彼の脳裏に——何かが浮かぶ。
記憶。
断片的な記憶。
かつて、自分も人間だった。
かつて、守りたいと思った者がいた。
大切な者が。
だが、それは曖昧だった。
霧のように。
もう——思い出せない。
名前も、顔も、声も。
全てが——失われていた。
刃は——混乱する。
殺すべきか。
守るべきか。
その葛藤が——彼を苦しめる。
その時。
群衆の中から、一人の老人が進み出た。
八十歳ほど。白髪の男。
痩せた身体。
震える足。
だが——彼の眼には、決意があった。
彼は——刃の前に跪く。
膝を地面につける。
両手を地面につける。
そして——。
頭を下げた。
額が、地面に触れる。
「どうか——我々を殺さないでください」
その声は、震えていた。
だが——明確だった。
「あなたは——神です。破壊の神。死の神。我々は——あなたに従います」
刃は——動かない。
ただ——老人を見つめる。
老人は、続ける。
「我々を——殺すのではなく、導いてください。あなたの力で——我々を守ってください」
その言葉に——群衆が反応する。
次々と、人々が跪く。
そして——祈り始める。
「神よ——」
「紅の神よ——」
「我々を——お救いください」
それは——狂気だった。
殺そうとしている相手に、命乞いではなく、崇拝を捧げる。
だが——それは、人間の最後の生存戦略だった。
敵わない相手なら——神として崇める。
殺されないために——信仰する。
刃は——困惑する。
なぜ——こいつらは、跪いている?
なぜ——祈っている?
その答えは——刃には、分からなかった。
だが——。
彼の手が、刀を下ろす。
ゆっくりと。
刀が、鞘に収まる。
カチン、という音。
それが——合図だった。
人々は——歓声を上げる。
いや、歓声ではない。
それは——安堵の叫び。
生き延びた、という実感。
刃は——踵を返す。
そして——歩き去る。
人々は——その背中を見送る。
そして——誰かが呟く。
「神だ——本当に、神だ」
その言葉が——広がる。
「紅の神が——我々を救った」
「破壊の神が——慈悲を示した」
「我々は——選ばれたのだ」
それは——信仰の始まりだった。
恐怖から生まれた、信仰。
だが——確かに、信仰だった。
◆
その日から——成都では、奇妙な現象が起こり始めた。
人々が——刃を崇拝し始めたのだ。
広場に、祭壇が作られた。
石を積み上げて。
高さ、三メートル。
その上に——刃の像が置かれた。
刃の像が——彫られた。
木製。
赤く塗られた木像。紅い眼。刀を持つ姿。
職人が三日三晩かけて彫り上げた。
それは——神の像だった。
人々が、祭壇を囲む。
昼も夜も。
人々は——毎日、祈る。
紅の神に。破壊の神に。
そして——願う。
守ってください。
導いてください。
我々を——見捨てないでください。
李将軍は——その光景を見ていた。
彼は——理解できなかった。
なぜ——敵を崇拝する?
なぜ——殺そうとした相手に祈る?
だが——人々は、真剣だった。
本気で——信じていた。
刃が、神だと。
刃が、自分たちを守ると。
李将軍は——呟く。
「……狂っている」
だが——その狂気が、人々を生かしていた。
信仰が——希望を与えていた。
たとえ、それが虚ろな希望でも。
たとえ、それが偽りの神でも。
人々は——それを必要としていた。
絶望の中で。死の淵で。
何かに——すがりたかった。
それが——神話の始まりだった。
虚ろなる神話。
だが——確かに、神話だった。
◆
一ヶ月後。
成都の信仰は——広がっていた。
他の避難所にも。他の都市にも。
人々は——刃の噂を聞く。
紅の神。破壊の神。
だが——慈悲深い神。
信じる者を、救う神。
その噂は——誇張されていく。
伝言ゲームのように。
口から口へ。
街から街へ。
刃が、百万のゾンビを従えている。
刃が、一振りで都市を破壊できる。
刃が、不死身だ。
刃が、空を飛べる。
刃が、思考を読める。
全て——事実だった。
いや、最初の三つは事実だった。
だが、さらに誇張される。
刃が、神だと。
刃が、世界を創造できると。
刃が、全てを支配していると。
それは——嘘だった。
だが——人々は、信じた。
信じたかった。
何かを——信じなければ、生きていけなかった。
やがて——教団が生まれた。
紅神教。
刃を崇拝する、宗教。
教祖は——成都の老人。
あの時、最初に跪いた男。
名を——張という。
元は、ただの商人だった。
だが今——彼は預言者となった。
彼は——教義を作る。
神殿で。祭壇の前で。
紅の神は、破壊と創造の神。
紅の神は、旧世界を滅ぼし、新世界を創る。
紅の神を信じる者は、救われる。
紅の神を否定する者は、滅ぼされる。
単純な教義だった。
だが——力があった。
だが——人々は、従った。
従わなければ——生きていけなかった。
教団は——急速に拡大する。
成都から。
重慶へ。
西安へ。
上海へ。
中国全土に。
そして——朝鮮半島へ。
日本へ。
東南アジアへ。
アジア全域に。
やがて——世界中に。
ヨーロッパへ。
アフリカへ。
南北アメリカへ。
人々は——刃を神として、崇拝し始めた。
会ったこともない。見たこともない。
だが——信じる。
それが——人類最後の、宗教だった。
◆
東京。
刃は——それを知らなかった。
自分が、崇拝されていることを。
自分が、神として、扱われていることを。
彼は——ただ、立っていた。
廃墟の中で。一人で。
彼の眼は、紅く光っている。
だが——その奥に、虚ろさがあった。
彼は——何も感じていなかった。
喜びも。悲しみも。怒りも。
ただ——空虚だった。
刃の口が、動く。
「……俺は、何だ」
その問いに——答えはない。
ただ——風が吹くだけ。
冷たい風。
それが——刃の頬を撫でる。
刃は——空を見上げる。
灰色の雲。
光のない空。
太陽は、見えない。
もう——何日も。
それは——彼の心を映していた。
虚ろ。
空虚。
何もない。
刃は——神ではなかった。
ただの——壊れた存在。
理性を失い。
人間性を失い。
全てを失った存在。
だが——人々は、彼を神と呼ぶ。
崇拝する。
祈る。
救いを求める。
それは——皮肉だった。
虚ろなる神。
空っぽの神。
それが——人類最後の信仰だった。
そして——それは、誰も救わなかった。
(了)




