第53話「沈む島国」
北海道。稚内。
地下シェルター。
最後の通信室。
そこには、三人の通信士が残っていた。
彼らは——日本最後の声だった。
通信士長——元海上自衛隊の森田一尉が、ヘッドセットを装着している。
三十二歳。通信の専門家。十年のキャリア。
だが——今、彼が送信しているのは、軍事通信ではなかった。
遺言。
日本という国の、遺言。
森田は、マイクに向かって話す。
「こちら日本国、稚内地下シェルター。2025年11月15日、午前6時32分。これが——最後の定時連絡となる」
彼の声は、冷静だった。
だが——その手は、震えていた。
森田は、続ける。
「日本列島は、完全に制圧された。本州、四国、九州——全てがゾンビの支配下にある。北海道も——時間の問題だ」
モニターには、外部カメラの映像が映し出されていた。
地上。
稚内の街。
そこには——群れがいた。
数万のゾンビが、シェルターの入口を取り囲んでいる。
彼らは、待っている。
中の人間が、出てくるのを。
あるいは——入口を破壊して、侵入するのを。
森田は、画面から目を逸らす。
そして——原稿を読む。
政府が用意した、最後のメッセージ。
「日本国政府は、本日をもって機能を停止する。内閣総理大臣以下、全閣僚が死亡または行方不明。国会は解散。官僚機構は崩壊。自衛隊は壊滅」
彼は、一度息を吸う。
「生存者は——推定三万人。全て、この稚内地下シェルターに避難している。だが——食料は、あと一週間分しかない」
隣の席で、通信士の佐藤が呟く。
「……一週間」
森田は、頷く。
「そうだ。一週間後——俺たちは、餓死する」
もう一人の通信士——若い女性、鈴木が震える声で言う。
「外に——出られないんですか?」
森田は、画面を指差す。
「見ろ。外には、数万のゾンビがいる。出た瞬間——終わりだ」
鈴木は、俯く。
涙が、頬を伝う。
森田は、通信を続ける。
「我々は——ここで死ぬ。日本人として、最後まで」
彼は、マイクを握りしめる。
「これから——世界に、告げる。日本国は、滅亡した。一億二千万の国民は、ほぼ全滅。生き残った三万人も——もうすぐ、死ぬ」
彼の声が、わずかに震える。
「だが——我々は、最後まで人間だった。ゾンビにならず、理性を保ち、尊厳を持って死ぬ」
森田は、深呼吸する。
そして——最後の言葉を告げる。
「さようなら。世界。さようなら——人類」
通信が、途切れる。
森田は、ヘッドセットを外す。
そして——椅子に座り込んだ。
鈴木が、泣いている。
佐藤が、黙って画面を見ている。
森田は——何も言えなかった。
ただ——時間が過ぎるのを、待つだけ。
◆
アメリカ。ワシントンD.C.近郊。
カナダ国境の避難施設。
そこに、アメリカ暫定政府が避難していた。
大統領代理のマクレーン。
国防長官代理。
国務長官代理。
全てが「代理」だった。
正式な大統領も、閣僚も、既に死んでいる。
彼らは——敗残者だった。
会議室で、マクレーンは日本からの最後の通信を聞いていた。
スピーカーから流れる、森田の声。
「さようなら。世界。さようなら——人類」
通信が、途切れる。
ノイズだけが、響く。
マクレーンは、目を閉じる。
そして——深く息を吐いた。
「……日本が、落ちた」
国防長官代理——ジェームズ・ハリスが、机を叩く。
「くそっ! 一億二千万人が——全滅だと!」
マクレーンは、目を開ける。
「全滅ではない。三万人が、まだ生きている」
「だが、もうすぐ死ぬ」
ハリスが、吐き捨てる。
「餓死するか、ゾンビに食われるか。どちらにせよ——終わりだ」
マクレーンは、反論しない。
それは——事実だった。
国務長官代理——エリザベス・コールが、口を開く。
「日本の次は——どこです?」
マクレーンは、モニターを見る。
世界地図。
赤く塗りつぶされた領域が、日に日に広がっている。
「朝鮮半島は、既に陥落寸前だ。韓国政府は崩壊。北朝鮮も、沈黙している」
彼は、次の地域を指差す。
「中国は——沿岸部が壊滅。内陸部に政府が逃げ込んでいるが、時間の問題だ」
さらに指を動かす。
「ロシアは——極東地域を放棄した。モスクワまで、防衛線を後退させている」
そして——東南アジア。
「タイ、ベトナム、カンボジア——全て、陥落した」
マクレーンは、画面から目を逸らす。
「次は——インドだ。そして、中東。ヨーロッパ。アフリカ」
彼は、全員を見回す。
「やがて——世界中が、赤く染まる」
沈黙。
誰も、反論できなかった。
コールが、震える声で尋ねる。
「我々には——もう、手段がないんですか?」
マクレーンは、首を振る。
「ない。核も効かない。生物兵器も効かない。通常兵器など、論外だ」
彼は、拳を握る。
「我々は——負けた」
その言葉が、会議室に響く。
重く。
絶望的に。
ハリスが、立ち上がる。
「ならば——何をする? このまま、死を待つのか?」
マクレーンは、答える。
「生き延びる。できる限り、生き延びる。それが——我々の使命だ」
「使命?」
ハリスが、冷笑する。
「もう、そんなものはない。我々は——ただの難民だ」
マクレーンは、立ち上がる。
そして——ハリスを見る。
「難民でも、生きる。それが——人間だ」
二人は、睨み合う。
やがて——ハリスが、視線を逸らす。
彼は、座る。
そして——頭を抱えた。
会議室に、沈黙が戻る。
誰も——何も言えなかった。
◆
稚内。地下シェルター。
森田たち通信士は、まだ通信室にいた。
もう、送信することはない。
だが——受信は、続けている。
世界中の通信を。
それが——最後の仕事だった。
スピーカーから、様々な言語が流れてくる。
英語。
中国語。
ロシア語。
フランス語。
全て——悲鳴だった。
助けを求める声。
絶望する声。
呪う声。
森田は、それを聞いている。
記録している。
誰のためでもない。
ただ——記録する。
それが——人類最後の記録になるかもしれない。
鈴木が、呟く。
「……世界中が、こうなるんですね」
森田は、頷く。
「ああ。やがて——全ての国が、沈む」
佐藤が、画面を見ている。
外部カメラの映像。
ゾンビの群れは、まだそこにいる。
動かない。
待っている。
まるで——時間が無限にあるかのように。
佐藤が、言う。
「……あいつら、何を考えてるんだろう」
森田は、答える。
「何も考えていない。いや——考えているのかもしれない。だが、俺たちには分からない」
彼は、画面を凝視する。
「あいつらは——もう、人間じゃない。新しい種族だ」
鈴木が、震える。
「怖い——」
森田は、彼女の肩に手を置く。
「大丈夫だ。あと一週間——一緒にいよう」
鈴木は、泣きながら頷く。
三人は、通信室に残る。
外では——日本が、沈んでいく。
静かに。
確実に。
音もなく。
◆
三日後。
食料が、尽き始めた。
シェルター内の三万人に、一日二食。
それでも——足りない。
人々は、飢えていた。
子供たちが、泣いている。
老人たちが、衰弱している。
若者たちは——絶望している。
シェルターの管理室で、責任者の田村が決断を下した。
「配給を——一日一食に減らす」
副責任者が、反対する。
「それでは、持ちません! 人々が——」
「分かっている」
田村が、遮る。
「だが、他に方法はない。少しでも、時間を稼ぐ」
「何のために?」
田村は、答えない。
答えられない。
時間を稼いで、何になる?
救援は、来ない。
脱出も、できない。
ただ——死を先延ばしにするだけ。
それでも——。
田村は、命令を出す。
「配給を削減する。そして——」
彼は、副責任者を見る。
「医療チームに伝えろ。安楽死の準備を始めろ」
副責任者が、息を呑む。
「安楽死——ですか」
「ああ」
田村が、頷く。
「老人から。病人から。希望者から。順番に」
彼は、目を閉じる。
「それが——最後の慈悲だ」
副責任者は、何も言えなかった。
ただ——頷くしかなかった。
シェルターに——死の影が、迫っていた。
◆
五日後。
安楽死が、始まった。
最初は、老人たち。
八十歳以上の高齢者。
彼らは——自ら志願した。
若い者たちに、食料を残すために。
次は、病人たち。
末期癌。
重度の糖尿病。
人工透析が必要な者。
彼らも——志願した。
どうせ、もう長くない。
ならば——他の者のために。
医療室で、医師たちが注射を打つ。
モルヒネ。
大量の、モルヒネ。
痛みなく。
苦しみなく。
ただ——眠るように。
死んでいく。
一日に、百人。
二日で、二百人。
五日で——千人が、死んだ。
遺体は——焼却される。
シェルター内の焼却炉で。
煙が——換気口から、外に漏れる。
その煙を——ゾンビたちが、見ている。
何も言わず。
ただ——見ている。
◆
七日後。
食料が、完全に尽きた。
もう——何も残っていない。
人々は、飢餓に苦しんでいた。
子供たちは、動けなくなっている。
大人たちも、衰弱している。
森田は、通信室で横になっていた。
もう——立つ力もない。
鈴木は、隣で眠っている。
いや、眠っているのか、気絶しているのか。
佐藤は——動かない。
既に、死んでいるのかもしれない。
森田は、天井を見つめる。
薄暗い照明。
それも——もうすぐ消える。
電力が、尽きる。
全てが——終わる。
森田の脳裏に、様々な記憶が浮かぶ。
家族。
友人。
故郷。
全て——失った。
もう——何も残っていない。
森田は、目を閉じる。
そして——呟く。
「さようなら——日本」
その声は、誰にも届かない。
ただ——暗闇に消える。
◆
十日後。
シェルターは、静かだった。
誰も、動かない。
誰も、声を出さない。
全員が——死んでいた。
餓死。
三万人が、全員。
日本最後の生存者たちが——消えた。
外で——ゾンビたちが動き出す。
シェルターの入口を、破壊する。
鋼鉄の扉を、力ずくでこじ開ける。
中に——侵入する。
だが——そこには、死体しかない。
腐敗した、人間の死体。
ゾンビたちは——それを見る。
そして——。
何もしない。
ただ——立ち去る。
彼らには、死体は不要だった。
生きている人間だけが、必要だった。
シェルターは——墓場になった。
日本という国の、墓場。
一億二千万人の、墓場。
それは——静かに、暗闇の中に沈んでいった。
◆
世界中で——日本の最後が、報道された。
ニュース。
新聞。
インターネット。
全てが——同じことを伝える。
「日本国、消滅」
その言葉が——世界に響く。
人々は——恐怖する。
次は、自分たちかもしれない。
次は、自分の国かもしれない。
誰も——安心できなかった。
日本は——最初の犠牲者だった。
だが——最後ではない。
やがて——全ての国が、同じ運命を辿る。
それが——人類の、未来だった。
沈む島国。
それは——人類滅亡の、序章だった。
(了)




