第52話「光なき天」
アメリカ。コロラド州。
シャイアン山地下基地。
北米航空宇宙防衛司令部——NORAD。
かつて冷戦時代、ソ連の核攻撃に備えて建設された要塞。
今——それは、人類最後の目となっていた。
地下千メートル。岩盤をくり抜いた巨大な空間。
そこには、数百のモニターが並んでいる。
世界中の衛星からの映像。
気象データ。
軍事情報。
そして——感染地域の監視。
管制室の中央に、司令官——空軍中将のロバート・マクナマラが立っていた。
五十八歳。白髪交じりの短髪。三十年のキャリアを持つベテラン。
だが——今、彼の顔には疲労の色が濃い。
一週間、まともに眠っていない。
眠れなかった。
世界が、崩壊していく様を見ながら。
マクナマラは、中央モニターを見つめる。
そこには——地球の衛星画像。
赤く塗りつぶされた領域が、日に日に広がっている。
日本列島——全域赤。
朝鮮半島——南部赤。
中国——沿岸部と北部、赤。
ロシア——極東地域、赤。
東南アジア——タイ、ベトナム、カンボジア、赤。
世界人口の四割——三十億人が、既に失われていた。
オペレーターの声が響く。
「司令。衛星KH-12から、異常な報告です」
マクナマラが、振り向く。
「何だ?」
「日本上空で——電磁波の異常干渉が検出されました。パターンは未確認。分析中です」
マクナマラは、眉をひそめる。
「電磁波? 詳細を」
オペレーターが、キーボードを叩く。
画面に、データが表示される。
周波数——0.1ヘルツから10ヘルツ。
極低周波。
人間の脳波と同じ帯域。
振幅——通常の一万倍。
発信源——日本列島全域。
マクナマラは、息を呑む。
「……一万倍だと?」
「はい。しかも——発信源は単一ではありません。複数の発信源が、同期しています」
画面に、日本列島の地図が表示される。
その上に、無数の赤い点。
それぞれが、電磁波の発信源。
そして——その全てが、同じリズムで明滅している。
まるで——。
心臓の鼓動のように。
マクナマラは、呟く。
「……群体知性」
オペレーターが、振り向く。
「司令?」
「Z-01——藤原京が作り出した、群体知性だ。個々のゾンビの脳波が、同期している。それが——電磁波として観測されている」
マクナマラは、モニターを凝視する。
赤い点は——数百万個。
それが、全て同期している。
一つの巨大な脳。
いや——超越した何か。
人類が、かつて到達したことのない領域。
集合意識。
群体知性。
新種族の、形。
マクナマラの背筋に、悪寒が走る。
「この波動を——Z波と命名する。全世界に警告を発令しろ」
「了解」
だが——その時。
別のオペレーターが、叫んだ。
「司令! 衛星DMSP-18、通信途絶!」
マクナマラが、振り向く。
「何?」
「気象観測衛星DMSP-18が——応答しません。最後の位置は——日本上空」
マクナマラは、歯噛みする。
「Z波の干渉か?」
「可能性があります。電磁波が衛星の電子機器を——」
その言葉が終わる前に。
また別のオペレーターが、報告する。
「衛星Landsat-9、通信途絶!」
「衛星Terra、通信途絶!」
「衛星Aqua、通信途絶!」
次々と。
日本上空を通過する衛星が、沈黙していく。
マクナマラは、拳を握りしめる。
「……Z波が、衛星を破壊している」
いや、破壊ではない。
無効化。
電子機器を狂わせ、機能を停止させている。
それは——意図的だった。
京が——観測されることを、拒否している。
マクナマラは、通信機を取る。
「国防総省に連絡しろ。Z波の脅威レベルを、最高に引き上げる。そして——」
彼は、画面を見る。
赤く染まった日本列島。
その上空で、無数の衛星が沈黙している。
「日本上空への、衛星接近を禁止する。あの空域は——もう、我々のものではない」
◆
宇宙。
高度六百キロメートル。
国際宇宙ステーション——ISS。
そこには、最後の宇宙飛行士たちが残っていた。
六名。
アメリカ人二名。ロシア人二名。日本人一名。欧州宇宙機関一名。
彼らは——地上に帰れなくなっていた。
帰還用のソユーズ宇宙船は、三ヶ月前に打ち上げられる予定だった。
だが——地上が崩壊し、打ち上げは中止された。
彼らは——取り残された。
宇宙で。
ISSの観測モジュールで、日本人宇宙飛行士——佐々木健太は、地球を見下ろしていた。
三十八歳。JAXA所属。三度目の宇宙飛行。
だが——こんな光景を見るとは、思っていなかった。
地球は——変わっていた。
青い星。
美しい星。
だが——その表面に、暗い影が広がっている。
夜側を見ると——光が消えている。
かつて、都市の灯りで輝いていた地域が、真っ暗になっている。
東京。
ソウル。
上海。
全て——消えている。
電力が、止まっている。
文明が、死んでいる。
佐々木は、目を閉じる。
故郷——東京。
家族がいた。
妻と、娘が。
彼女たちは——今、どこにいるのか。
生きているのか。
それとも——。
佐々木は、目を開ける。
考えても、仕方がない。
彼は——ここにいる。
地上から四百キロメートル離れた、宇宙に。
何もできない。
ただ——見ているだけ。
その時。
観測機器が、異常を示した。
電磁波検出器が、激しく反応している。
佐々木は、画面を確認する。
極低周波——0.1ヘルツから10ヘルツ。
発信源——日本列島。
振幅——異常値。
佐々木は、眉をひそめる。
「……何だ、これは」
彼は、データを記録する。
そして——地上に送信しようとする。
だが——。
通信が、途絶した。
画面が、ノイズで埋まる。
音声も、途切れる。
佐々木は、通信機を叩く。
「こちらISS。応答願う。こちらISS——」
返事はない。
ただ——ノイズだけが響く。
佐々木は、窓の外を見る。
地球を。
日本列島を。
そこから——何かが放射されている。
目には見えない。
だが——確実に、そこにある。
電磁波。
いや——それ以上の何か。
佐々木の脳裏に、言葉が浮かぶ。
——Z波。
それは——新種族の言語。
人間には理解できない、波動。
だが——確実に、存在している。
そして——世界を、変えようとしている。
佐々木は、記録を続ける。
誰も見ないかもしれない。
誰も受信できないかもしれない。
だが——記録する。
それが——科学者の、使命だから。
◆
北海道。稚内。
日本最北端。
そこには、最後の避難施設があった。
地下シェルター。
三万人が、息を潜めている。
その中の一室。
モニタールームで、観測員たちが作業していた。
彼らは——まだ、外を監視している。
カメラで。
センサーで。
わずかな希望を持って。
その一人——観測員の田中が、画面を見つめていた。
四十代。元気象庁職員。
彼の専門は——オーロラ観測。
北海道で、長年オーロラを追っていた。
だが——今、画面に映っているのは、オーロラではなかった。
いや——似ている。
だが、違う。
空が——光っている。
緑色に。
だが、それはオーロラの緑ではない。
もっと——不自然な緑。
人工的な緑。
そして——その光は、脈動している。
明滅を繰り返している。
まるで——呼吸するかのように。
田中は、データを確認する。
電磁波——異常値。
磁場——異常な歪み。
大気イオン濃度——通常の百倍。
全てが——異常だった。
田中は、上司を呼ぶ。
「課長! これを見てください!」
課長——元札幌管区気象台の山本が、駆け寄る。
五十代。白髪の男。
「何だ?」
「空が——光っています。だが、オーロラではありません」
山本は、画面を見る。
そして——息を呑む。
「……何だ、これは」
「分かりません。だが——電磁波の発信源は、南です。本州方向から——」
山本は、理解する。
「Z波か」
「おそらく」
二人は、画面を見つめる。
緑の光。
それは——美しかった。
神秘的だった。
だが——同時に、恐ろしかった。
それは——死の光。
新種族が放つ、波動の光。
山本は、呟く。
「……北の光」
田中が、振り向く。
「何ですか?」
「いや——」
山本は、首を振る。
「何でもない。だが——記録しろ。全てを」
「了解」
田中は、記録を続ける。
緑の光。
脈動する光。
それは——やがて、消える。
だが——また現れる。
毎晩。
規則的に。
まるで——何かを告げるかのように。
それが——北の光。
Z波が作り出す、新しい現象。
人類が、初めて目撃する光景。
それは——終焉の、前兆だった。
◆
NORAD。
マクナマラは、世界中から送られてくる報告を見ていた。
北海道——緑の光、確認。
アラスカ——緑の光、確認。
シベリア——緑の光、確認。
北極圏全域で——同じ現象。
Z波が、大気を励起している。
電磁波が、イオン層を刺激し、発光させている。
それは——オーロラに似ている。
だが、違う。
人工的。
意図的。
まるで——。
マクナマラの脳裏に、一つの考えが浮かぶ。
——通信。
Z波は、通信手段なのか?
ゾンビたちが、互いに意思疎通するための?
いや——それ以上か。
世界中のゾンビに、同時に命令を送る?
地球規模の、群体知性?
マクナマラは、震える。
もしそれが真実なら——。
人類は、もう勝てない。
個々のゾンビではなく、地球全体が一つの意識体になる。
それは——神に等しい存在。
マクナマラは、通信機を取る。
「国連に緊急報告。Z波の観測結果を送信する。そして——」
彼は、画面を見る。
赤く染まった地球。
その上空で、緑の光が明滅している。
光なき天。
いや——新しい光が生まれている。
人類の光ではない。
新種族の光。
「全人類に告げろ。空を見るな。北の光を見るな。それは——我々のものではない」
オペレーターが、困惑する。
「司令? それは——」
「命令だ」
マクナマラが、遮る。
「Z波は、人間の脳に影響を与える可能性がある。特に——視覚を通じて」
彼は、自分でも信じられない言葉を口にしていた。
だが——直感が、警告している。
あの光は、危険だ。
見てはいけない。
さもなければ——。
マクナマラは、目を閉じる。
そして——祈る。
神に。
あるいは——もう神はいないのかもしれない。
この世界に。
◆
その夜。
世界中で——人々が空を見上げた。
北半球。
高緯度地域。
そこに住む人々が——緑の光を見た。
美しい光。
神秘的な光。
だが——その光を見た者たちは、気づかなかった。
自分たちの脳波が——わずかに、変化していることに。
Z波に——同調し始めていることに。
それは——侵食だった。
静かな。
緩やかな。
だが——確実な、侵食。
人類の脳が——少しずつ、変わり始めていた。
新種族に——近づき始めていた。
それが——北の光の、真の意味。
誰も——気づかなかった。
気づいた時には——もう、遅い。
光なき天。
いや——新しい光の天。
それは——人類最後の空だった。
(了)




