第46話「人類反攻」
ジュネーブ。
地下三百メートル。世界安全保障評議会の緊急会合は、もはや会議の体を成していなかった。
円卓を囲む十二ヶ国の代表たちは、それぞれが疲弊し、絶望し、それでも最後の希望にすがろうとしていた。
スクリーンに映る日本列島は、灰色と赤黒の斑点で覆われている。
衛星画像が捉えたそれは、かつて一億二千万の人間が暮らした国土の死体だった。都市は崩壊し、道路は寸断され、生存者の反応は完全にゼロ。
北海道と四国、九州の一部にわずかな熱源反応があるだけ。それも、いつまで持つか分からない。
議長席のアメリカ代表——国防長官代理のマーカス・ホロウェイが、ゆっくりと立ち上がった。
五十代半ば。白髪混じりの短髪。軍人出身の彼は、三日間不眠で会議を続けていた。
「提案する」
彼の声は低く、しかし明瞭だった。
「コードネーム”クレンジング”。対象は日本列島全土。使用兵器——B61戦術核爆弾、五十二発」
会議室が凍りつく。
誰もが予想していた提案だった。それでも、実際に口にされると、空気が凍る。
ロシア代表——外務次官のイワン・ストレルコフが眉をひそめた。
「五十二発だと? 焦土作戦にしても過剰だ。十発でも都市部は壊滅する」
「過剰?」
ホロウェイが冷笑する。
「我々が相手にしているのは、ゾンビではない。進化体だ。Z-01とZ-02。人類を超越した知性と、核兵器級の破壊力を持つ怪物だ。あの二体が存在する限り、封じ込めは不可能だ」
中国代表——人民解放軍総参謀部の劉少将が机を叩いた。
「ならば最初から大陸間弾道ミサイルを使え。中途半端な爆撃で済む相手ではないだろう。東風41なら——」
「ICBMは使わない」
イギリス代表——国防省情報部長のエリザベス・コールが静かに遮った。
「放射能汚染が太平洋全域に及ぶ。それは我々の敗北を意味する。戦術核なら、局地的な焼却で済む。風向きを計算すれば、汚染は最小限に抑えられる」
「局地的?」
フランス代表——外務省アジア局長のピエール・デュランが嘲笑う。
「日本全土を焼き尽くすことが、局地的だと? 君たちは正気か」
「正気だ」
ホロウェイが断言した。
「日本は既に死んでいる。政府は崩壊し、自衛隊は壊滅し、生存者はほぼゼロ。我々がすべきは、その死体を焼却し、感染拡大を防ぐことだ」
ドイツ代表が手を挙げた。
「待ってくれ。まだ北海道には三万人以上の生存者がいる。四国にも——」
「その三万人を救うために、七十億人を危険にさらすのか?」
ホロウェイが切り捨てる。
「Z-01は既に海を渡る能力を持っている。次は朝鮮半島だ。その次は中国、ロシア、東南アジア。時間の問題だ」
劉少将が立ち上がった。
「我が国は既に沿岸部に防疫線を構築している。人民解放軍二十万を投入し——」
「無駄だ」
ホロウェイが遮る。
「Z-02は単独で戦車中隊を壊滅させた。Z-01は空爆を無効化した。軍事力では止められない」
インド代表が口を開く。
「では、生物兵器は? ウイルスにはウイルスで対抗すべきではないか」
「既に試した」
コールが答える。
「MI6がエボラウイルスの変異株を投下した。結果——Z-Virusに吸収され、逆に進化を促進した。生物兵器は逆効果だ」
沈黙。
誰も反論できなかった。
ホロウェイが再び口を開く。
「諸君。我々は既に全ての選択肢を試した。通常兵器、生物兵器、化学兵器。全て無効だった。残された手段は、核だけだ」
彼はスクリーンを指差す。
「Z-01とZ-02を確実に殺すには、爆心地の温度を一億度以上にする必要がある。それができるのは、核だけだ」
カナダ代表が小さく呟いた。
「……神よ、許したまえ」
ホロウェイが頷く。
「その通りだ。これは虐殺だ。だが——必要な虐殺だ」
彼は全員を見回した。
「諸君。我々は今、人類史上最悪の決断を下そうとしている。だが、この決断なくして、人類に未来はない」
沈黙。
重く、長い沈黙。
やがて議長が、震える声で採決を宣言した。
「では——投票に移る。コードネーム”クレンジング”の実行に、賛成の者は——挙手を」
最初に手を挙げたのは、アメリカだった。
次にイギリス。
フランスが続く。
ドイツが、ためらいながら手を挙げる。
ロシアが、無表情で手を挙げる。
中国が、怒りを押し殺して手を挙げる。
そして——残りの六ヶ国も、全てが手を挙げた。
ゆっくりと。
ためらいながら。
それでも確実に。
十二の手が、空中に浮かぶ。
議長が目を閉じた。
「——全会一致。コードネーム”クレンジング”、承認」
人類は、初めて自らの手で国土を焼くことを決めた。
会議室を出るとき、ホロウェイは振り返らなかった。
振り返れば、自分が何をしたのか理解してしまう。
理解すれば、立っていられなくなる。
だから彼は、ただ前を向いて歩いた。
廊下の突き当たりで、彼は壁に手をついた。
吐き気が込み上げる。
だが、何も出てこなかった。
胃の中は、とっくに空っぽだった。
◆
太平洋艦隊。
横須賀沖二百キロ。
空母ジョージ・ワシントンの作戦司令室は、緊張に包まれていた。
室内には三十名の士官が詰めている。全員が疲労の色を隠せない。だが、誰一人として席を立とうとしなかった。
中央のモニターには、赤く塗りつぶされた日本列島が表示されている。その上に、白い十字マークが五十二個。
一つ一つが、都市の死を意味していた。
作戦参謀——ジェームズ・カーター中佐が、淡々と説明を続ける。
「第一波は東京・大阪・名古屋。都市圏の中枢を焼却します。使用弾頭はB61-12。出力は五十キロトン。広島型原爆の三倍以上です」
彼は次のスライドに移る。
「第二波は北関東・中部地方。新潟、長野、静岡を含む十五都市。第三波で九州北部と四国を処理。計五十二発で、本州の居住可能地域八割を焼却可能です」
「残りの二割は?」
司令官——第七艦隊司令官ダニエル・ロックウェル中将が尋ねた。
六十歳。ベトナム、湾岸戦争、イラク戦争を生き抜いた歴戦の軍人。
「山間部です。ゾンビの密度が低く、費用対効果が見込めません。第四波以降で通常爆弾による掃討を——」
「却下」
ロックウェルが遮る。
その声は、静かだった。だが、誰もが震え上がった。
「山間部も焼け。費用対効果など知ったことか。一匹でも残せば、また増殖する。完全焼却だ」
「了解しました」
カーター中佐が敬礼する。
ロックウェルはモニターを見つめたまま、動かない。
彼の目には、赤く染まった日本列島だけが映っていた。
副官が近づく。
「司令。作戦開始は——」
「すぐにだ」
ロックウェルが答える。
「躊躇すれば、躊躇した分だけ死者が増える。今すぐ始めろ」
「了解」
副官が指示を飛ばす。
艦内放送が響いた。
『全艦戦闘配置。繰り返す、全艦戦闘配置。コードネーム”クレンジング”、作戦開始』
室内の空気が変わる。
全員が持ち場につく。
モニターに次々と情報が表示される。
爆撃機発進。
護衛戦闘機展開。
巡航ミサイル待機。
艦砲射撃準備完了。
ロックウェルは、ゆっくりと椅子に座った。
彼はポケットから、一枚の写真を取り出す。
妻と、二人の娘。
五年前に撮った、家族写真。
娘たちは今、カリフォルニアの大学に通っている。
妻は、サンディエゴで彼の帰りを待っている。
彼は写真を見つめた。
そして——静かに呟いた。
「神よ、我らを許したまえ」
それは祈りではなく、呪いだった。
自分自身への、呪い。
カーター中佐が報告する。
「第一波爆撃隊、日本上空に到達。投下まで——三分」
ロックウェルは写真をポケットにしまった。
そして、前を向く。
「全艦、対空警戒。Z-01とZ-02の反撃に備えろ」
「了解」
誰もが知っていた。
Z-01は、空爆を無効化する能力を持つ。
Z-02は、音速で移動できる。
核攻撃が成功する保証など、どこにもなかった。
だが——やるしかなかった。
モニターに、カウントダウンが表示される。
『投下まで、180秒』
室内が静まり返る。
誰も息をしていないかのようだった。
『120秒』
ロックウェルの拳が、震えていた。
『60秒』
カーター中佐が、目を閉じる。
『30秒』
副官が、十字を切った。
『10秒』
時間が、止まった。
いや——止まったように感じた。
そして。
『投下』
モニターの光点が、落下を始めた。
誰も、声を出さなかった。
ただ——画面を見つめていた。
五秒後。
閃光。
衛星映像が、真っ白に染まる。
そして——きのこ雲。
東京に、太陽が生まれた。
◆
東京。
廃墟と化した国会議事堂の屋上に、藤原京は立っていた。
眼下に広がるのは、死者の街。
動くものは全てゾンビ。生きているものは何一つない。
京は空を見上げる。
灰色の雲が低く垂れ込めている。その向こうに、何かが来る。
それは音ではなく、気配だった。
殺意。
人間の、最後の殺意。
京の口元がわずかに歪む。
笑ったのか、それとも——。
背後で足音。
振り返ると、神谷刃が立っていた。血に濡れた刀を引きずり、紅い眼で京を見つめている。
二人は無言で向き合った。
やがて刃が、短く言う。
「来るぞ」
「ああ」
京が頷く。
「人間の最後の悪あがきだ」
「殺すのか」
「殺せない」
京が首を振る。
「核は、我々でも防げない。だが——」
京の眼が、金色に光る。
「死なない」
刃が笑った。
それは獣の笑いだった。
「なら、殺されてやる」
刃が踵を返す。
京は再び空を見上げた。
雲の向こうで、何かが光る。
人類の、最後の光。
◆
太平洋上空、高度一万二千メートル。
B-2ステルス爆撃機”スピリット・オブ・ミズーリ”が、音もなく飛行していた。
全翼機。漆黒の機体。レーダーに映らない死神。
コックピットには、二人の男がいた。
機長のコールサインは”リーパー”。死神。
副操縦士のコールサインは”ゴースト”。幽霊。
二人とも、三十代半ば。百回以上の実戦経験を持つベテランだった。
だが——今日ほど、手が震えたことはなかった。
リーパー——本名ジョン・ハリスは、計器盤を見つめている。
目標まで、あと五分。
彼の手は、操縦桿を握りしめていた。
機内通信が入る。
『リーパー、こちら司令部。目標まで三分。最終確認を』
「了解」
リーパーは答える。
その声は、機械的だった。感情を殺さなければ、声が震える。
「爆弾倉、開放準備完了。核弾頭B61-12、起爆システム正常。目標座標——東京都心部、北緯35.6762度、東経139.6503度」
『認証コード、入力せよ』
リーパーは、コンソールに手を伸ばす。
そこには、赤いキーパッドがあった。
核兵器投下の、最終認証。
彼は震える手で、十二桁のコードを打ち込んだ。
一文字、また一文字。
間違えれば、全てがやり直しになる。
だが——間違えたいと思ってしまう自分がいた。
コードが完了する。
モニターに表示される、赤い文字。
『AUTHORIZED』
承認。
リーパーは目を閉じた。
家族の顔が浮かぶ。
妻のサラ。明るくて、いつも笑っていて、子供たちに優しかった。
娘のエミリー。十歳。ピアノが上手で、夢はピアニストだと言っていた。
息子のデイビッド。七歳。野球が好きで、いつか大リーガーになると言っていた。
彼らは今、疎開先のカナダにいる。
バンクーバー郊外の、親戚の家に。
それだけが、唯一の救いだった。
少なくとも、家族は生きている。
少なくとも、守るべきものは残っている。
だから——これをやるしかない。
リーパーは目を開けた。
隣席のゴーストが、こちらを見ている。
彼も、家族がいた。
妻と、生まれたばかりの息子が。
二人は、無言で頷き合った。
そして——前を向く。
眼下に広がる、灰色の大地。
かつてそこには、街があった。
人がいた。
笑い声があった。
子供たちの声があった。
恋人たちがいて、家族がいて、友人がいた。
今は、何もない。
ただ——死者だけが蠢いている。
機内通信が響く。
『投下、三十秒前』
リーパーは、爆弾倉開放スイッチに手を置いた。
赤いカバーを開ける。
その下に、黒いボタン。
それを押せば、全てが終わる。
いや——全てが始まる。
『二十秒前』
彼は息を吸う。
深く、深く。
肺の中に、冷たい空気が満ちる。
『十秒前』
指がボタンに触れる。
金属の冷たさが、指先に伝わる。
それは——引き金の冷たさだった。
「神よ」
彼は呟く。
「これが正しいと、言ってくれ」
返事はない。
ただ、カウントダウンだけが響く。
『五秒前』
リーパーは、家族の顔を思い浮かべた。
『四』
サラの笑顔。
『三』
エミリーのピアノ。
『二』
デイビッドの笑い声。
『一』
そして——。
『投下』
ボタンを押す。
カチン、という小さな音。
それだけで、世界が変わる。
機体が軽くなる。
爆弾倉から、B61-12が切り離される。
重量四百キログラム。
出力五十キロトン。
それは——小さな太陽だった。
「爆弾投下完了」
リーパーが報告する。
「離脱する」
『了解。全速で退避せよ』
リーパーは操縦桿を引いた。
機首が上がる。
スロットルを全開にする。
エンジンが唸る。
B-2が、全速で空を駆ける。
背後で——光が生まれた。
振り返ってはいけない。
それは、訓練で叩き込まれていた。
核の閃光を直視すれば、網膜が焼ける。
だが——リーパーは振り返った。
そして、見た。
太陽よりも白く。
太陽よりも熱く。
太陽よりも——絶望的な光。
それは、地上から湧き上がっていた。
ビルが溶ける。
道路が蒸発する。
全てが、光に飲まれていく。
リーパーは目を閉じた。
涙が、頬を伝う。
彼は——泣いていた。
初めて、任務中に泣いた。
彼は殺人者になった。
何万人を殺したのか、もう分からない。
だが——それでも。
それでも、これは正しいのだと。
信じるしかなかった。
◆
東京。
光が、全てを飲み込んだ。
ビルが溶ける。
アスファルトが蒸発する。
ゾンビたちが、一瞬で炭になる。
そして——京と刃も、光の中に消えた。
爆風が吹き荒れる。
衝撃波が大地を抉る。
きのこ雲が立ち上り、空を覆う。
東京は、完全に消滅した。
世界中の衛星が、その光景を捉えている。
ジュネーブの会議室で、歓声が上がった。
「やった! Z-01とZ-02を確認——消失!」
「第一波、成功! 第二波、名古屋に投下開始!」
「大阪も準備完了! 日本は——終わる!」
人類は、勝利を確信した。
だが。
その三十分後。
衛星が捉えたのは——。
焼け野原の中心で、立ち上がる二つの影。
一つは黒く。
一つは紅く。
金色の眼と、紅い眼が、同時に光る。
世界が、凍りついた。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
「核を——受けて、生きている」
モニターの中で、藤原京が空を見上げる。
その口が、動いた。
音声はない。
だが、全員がその言葉を理解した。
——次は、お前たちの番だ。
スクリーンが、真っ暗になった。
衛星が破壊されたのではない。
Z波の干渉で、通信が途絶したのだ。
世界連合は、敗北を悟った。
核すら通じない。
ならば、何が通じる。
答えは、もう誰も持っていなかった。
人類の反攻は、始まる前に終わった。
(了)




