第42話「最後の無線」
北海道。
札幌市郊外。
地下五十メートル。
そこに、日本最後の司令部があった。
コンクリートの壁。
厚さ二メートル。
核攻撃にも耐えられる、強度。
鉄の扉。
重さ五トン。
油圧で開閉する、要塞の門。
無数のケーブル。
通信線。
電力線。
データ線。
全てが、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
かつては核シェルターとして建設された施設。
冷戦時代の遺物。
だが、まさかこんな形で使われるとは。
誰も、予想していなかった。
今は、人類最後の砦。
日本政府の、最終拠点。
軍の、最後の指揮所。
だが――その砦も、もう持たない。
食料は、残り一週間分。
燃料は、三日分。
弾薬は、ほぼゼロ。
そして――
希望も、もうない。
⸻
司令室。
広い部屋に、モニターが並んでいる。
だが、その半分は真っ黒だ。
電源が切れている。
いや――送信元が、消滅している。
東京。
横浜。
大阪。
名古屋。
全ての都市からの信号が、途絶えた。
もう、本州には人間がいない。
いや――正確には。
組織化された人間が、いない。
生き残りは、散在している。
だが、連絡は取れない。
指揮系統は、崩壊した。
⸻
司令官席に、一人の男が座っていた。
陸上自衛隊北部方面総監。
階級は陸将。
名を、北条という。
五十代後半。
白髪交じりの短髪。
深い皺が、顔に刻まれている。
かつては、精悍な軍人だった。
背筋を伸ばし、堂々としていた。
部下からの信頼も厚かった。
だが、今は違う。
彼の目は、虚ろだった。
背中は、丸まっている。
制服は、皺だらけだ。
もう何日、眠っていないのか。
もう何日、まともな食事をしていないのか。
わからない。
北条は、多くを失った。
家族を。
妻は、東京で感染した。
娘は、大阪で行方不明になった。
息子は、九州で戦死した。
もう、誰も残っていない。
それでも、北条は戦い続けた。
軍人として。
日本人として。
人間として。
だが――
もう、限界だった。
ただ、座っているだけ。
モニターを、見ているだけ。
絶望を、噛み締めているだけ。
⸻
部屋には、他に十数名の将校がいた。
みんな、疲れ切った顔をしている。
制服は、汚れている。
目には、クマができている。
誰も、希望を持っていない。
ただ、任務だけが彼らを動かしている。
最後まで、戦う。
それが、軍人の責務だから。
だが――
もう、何のために戦うのか。
それさえ、わからなくなっている。
⸻
通信士が、報告する。
「本州各地からの応答、ありません」
「……そうか」
北条が、小さく頷く。
もう、驚きもしない。
予想通りだ。
いや――予想以上に、早かった。
「四国は?」
「昨日の午後を最後に、途絶えました」
「九州は?」
「三日前から、応答なしです」
北条は、目を閉じる。
(……終わった)
日本列島。
全てが、陥落した。
北海道だけが、残っている。
だが、それももう長くはない。
⸻
参謀長が、北条に近づく。
四十代の男。
名を、吉田という。
「総監。決断を」
北条は、目を開ける。
「……決断?」
「本州放棄の、公式宣言です」
吉田の声は、震えている。
それを言うのが、どれだけ辛いか。
北条にも、わかる。
本州放棄。
その言葉の重さ。
それは、国家の放棄だ。
東京を。
首都を。
政治の中心を。
皇居を。
天皇陛下を。
国の象徴を。
国会を。
立法府を。
民主主義の根幹を。
全てを、見捨てる。
一億の国民を、見捨てる。
いや――もう、国民はいない。
生き残りは、数万。
いや、数千かもしれない。
それでも――
見捨てることに、変わりはない。
だが――
北条は考える。
宣言する意味が、あるのか?
誰のための、宣言なのか?
もう、政府はない。
国会もない。
メディアもない。
誰が、この宣言を聞くのか?
「……宣言したところで、何が変わる」
北条が呟く。
「もう、誰も聞いていない」
「記録のためです」
吉田が答える。
「後世に、残すために」
「後世?」
北条が、苦笑する。
「後世など、あるのか?」
⸻
沈黙。
誰も、答えられない。
後世。
それは、希望の言葉だ。
未来がある、という前提。
だが――
本当に、未来はあるのか?
人類に、明日はあるのか?
吉田が、口を開く。
「それでも……残さなければ」
「何を」
「我々が、戦ったことを」
吉田の目が、潤んでいる。
「最後まで、諦めなかったことを」
北条は、吉田を見た。
若い参謀長。
まだ、希望を持っている。
いや――持とうとしている。
絶望に、抗っている。
北条は、立ち上がった。
⸻
「……わかった」
北条が言う。
「宣言を出す」
吉田が、敬礼する。
「ありがとうございます」
北条は、通信士に向かう。
「全周波数で、送信できるか」
「はい。可能です」
「では、準備を」
通信士が、機器を操作する。
スイッチを入れる。
ノイズが、響く。
ザーッ、ザーッ、と。
北条は、マイクを手に取る。
重い。
こんなに、マイクが重いとは。
金属の重さではない。
言葉の重さだ。
これから発する言葉の。
国家の死を告げる、言葉の。
北条の手が、震える。
マイクが、カタカタと音を立てる。
部屋中の視線が、北条に集まる。
みんな、息を呑んでいる。
これが、最後の公式声明になる。
日本国という国家の。
七十年以上続いた、戦後日本の。
二千年以上続いた、この国の。
最後の言葉。
⸻
北条は、深呼吸する。
一回。
二回。
三回。
そして――
マイクに、口を近づける。
「こちらは、陸上自衛隊北部方面総監、北条である」
声が、電波に乗る。
全周波数に。
全方向に。
だが――
誰が、聞いているのか。
わからない。
それでも、北条は続ける。
⸻
「現在時刻、20XX年X月X日、午後三時」
北条の声は、静かだ。
だが、明確だ。
一言一言、噛み締めるように。
「本州全域、四国、九州からの応答が途絶えた」
「最後の通信は、四国高松基地。昨日午後二時」
「内容は――ゾンビ襲撃、弾薬尽きる、これが最後」
北条の声が、詰まる。
あの通信士の、最後の叫び。
まだ、耳に残っている。
「推定生存者数、不明」
「だが、組織的抵抗は、完全に停止した」
「推定感染率、九十八パーセント以上」
数字が、淡々と読み上げられる。
だが、その一つ一つが、重い。
死の、記録。
絶滅の、証明。
「政府機能、完全停止」
「首相以下、全閣僚の生死、不明」
「最後の連絡は、一週間前」
「天皇陛下の、御安否も……不明」
北条の声が、途切れる。
喉が、詰まる。
涙が、溢れそうになる。
天皇。
国家の象徴。
国民統合の象徴。
その方が、どうなったのか。
わからない。
おそらく――
北条は、それ以上考えられない。
⸻
北条は、目を閉じる。
涙を、堪える。
そして、続ける。
「よって、陸上自衛隊北部方面総監の権限において、宣言する」
「本州、四国、九州は、これより放棄区域とする」
「全生存者は、北海道への避難を推奨する」
「繰り返す。本州は、放棄した」
その言葉が、空間に響く。
重く。
絶望的に。
本州放棄。
それは、国家の死だ。
日本という国の、終焉。
⸻
北条は、マイクを握りしめる。
まだ、言うことがある。
最後に、言わなければならないことが。
「……全国民に告ぐ」
北条の声が、震える。
「我々は、負けた」
「人類は、新しい種族に敗北した」
「もう、反撃する力はない」
「だが――」
北条の声が、強くなる。
「それでも、生きろ」
「最後の一人になっても、生き延びろ」
「それが、人間の責務だ」
⸻
北条は、一息つく。
そして、最後の言葉。
「これより、この司令部も放棄する」
部屋が、ざわめく。
将校たちが、顔を上げる。
「我々は、避難民と共に北へ向かう」
「もう、軍ではない」
「ただの、生存者だ」
北条は、マイクを置く。
もう、言うことはない。
全てを、伝えた。
⸻
通信士が、報告する。
「送信、完了しました」
「誰か、応答は?」
「……ありません」
静寂。
誰も、聞いていなかった。
いや――
聞いていても、応答する余裕がなかった。
それでも、いい。
記録は、残った。
電波は、飛んだ。
どこかで、誰かが。
録音しているかもしれない。
それが、希望だ。
最後の、希望。
⸻
北条は、将校たちを見回す。
「全員、撤退準備だ」
北条の声は、落ち着いていた。
もう、迷いはない。
決めたのだ。
生き延びると。
最後まで、戦うと。
「はい」
みんなが、動き出す。
荷物をまとめる。
衣類。
食料。
水。
医薬品。
最低限のものだけ。
機器の電源を落とす。
モニターが、一つずつ消えていく。
真っ黒になる。
もう、二度と点くことはない。
重要書類を、持ち出す。
作戦記録。
通信記録。
感染データ。
これらは、後世のために。
いや――
後世があれば、の話だが。
司令室が、慌ただしくなる。
足音。
物音。
声。
だが――
その動きには、活気がない。
ただ、機械的に動いているだけ。
希望のない、撤退。
敗北の、行軍。
⸻
吉田が、北条に近づく。
「総監。これを」
手渡されたのは、拳銃だった。
「……何のためだ」
「万が一のためです」
吉田の顔は、真剣だ。
「もし、感染したら……自決を」
北条は、拳銃を受け取る。
冷たい。
重い。
これが、最後の選択肢。
人間として、死ぬための。
「……ありがとう」
北条が、腰に拳銃を差す。
そして、歩き出す。
司令室を、後にする。
振り返らない。
もう、戻ることはない。
⸻
廊下を歩く。
足音が、響く。
コンクリートの壁が、冷たい。
蛍光灯が、点滅している。
電力も、もう限界だ。
北条は、地上へ向かう。
階段を上る。
一段。
また一段。
重い足取りで。
やがて、地上への扉に辿り着く。
北条は、扉を開ける。
⸻
外は、曇っていた。
灰色の空。
冷たい風。
もう冬が近い。
北条は、空を見上げる。
(……これが、最後か)
司令部として、機能した最後の日。
軍として、存在した最後の日。
そして――
国家として、終わった日。
北条は、深呼吸する。
冷たい空気が、肺を満たす。
生きている。
まだ、生きている。
それだけで、十分だ。
⸻
背後から、将校たちが出てくる。
二十名ほど。
それが、最後の軍人だ。
北条は、彼らを見た。
疲れた顔。
だが、諦めていない顔。
まだ、戦える顔。
「行くぞ」
北条が言う。
「北へ。生き延びるために」
「はい」
全員が、敬礼する。
最後の、敬礼。
そして――
彼らは歩き出した。
北へ。
希望のない、行軍。
だが、それでも進む。
生きるために。
⸻
司令部の扉が、閉まる。
ガシャン、と重い音。
もう、開くことはない。
施設は、放棄された。
機器は、停止した。
全てが、沈黙した。
ただ、風だけが吹いている。
冷たく。
虚しく。
そして――
遠く、南の空。
黒い雲が、近づいていた。
いや、雲ではない。
群れだ。
数万のゾンビが、北上している。
二人の王を先頭に。
金色と紅色の、瞳を持つ王を。
人類最後の砦も、やがて陥ちる。
それは、時間の問題だった。
⸻
無線は、もう聞こえない。
誰も、送信しない。
誰も、応答しない。
ただ、ノイズだけが流れている。
ザーッ、ザーッ、と。
それが、人類の最後の声。
文明の、最後の音。
やがて、それも消える。
完全な、沈黙が訪れる。
新しい時代の、静けさ。
⸻
(了)




