第40話「蠢く王」
東京湾。
夜明け前の、静寂。
海は黒く、空は深い藍色に染まっている。
まだ太陽は昇っていない。
だが、地平線が、わずかに明るくなり始めていた。
その海面に、波紋が広がる。
一つ。
また一つ。
まるで、何かが近づいてくるかのように。
そして――
海中から、影が現れた。
⸻
藤原京。
かつて、日本の田舎に住んでいた青年。
小動物に噛まれて感染し、ゾンビ化した。
それから――どれくらい経ったのだろう。
京は、もう時間の感覚を失っていた。
日も。
月も。
季節さえも。
全てが、曖昧になっている。
ただ、歩き続けてきた。
北へ。
西へ。
そして、海を渡った。
大陸へ。
朝鮮半島を抜け、中国へ。
そこで、京は多くのものを見た。
人間の終焉を。
上海の高層ビル群が、炎に包まれるのを。
北京の紫禁城が、血で染まるのを。
香港の港が、死体で埋まるのを。
ゾンビの増殖を。
数百万、数千万の群れが、都市を覆うのを。
人間よりも多く。
人間よりも強く。
世界の、崩壊を。
文明が、次々と倒れていくのを。
軍隊が、敗走するのを。
政府が、消滅するのを。
そして――京は、変わった。
群れを率いるようになった。
最初は数十。
次に数百。
やがて数千。
彼らは、京に従った。
理由はわからない。
ただ、本能で従った。
京は、それを受け入れた。
進化した。
覚醒した。
人肉を食うたびに、力が増していった。
視界が広がった。
思考が深くなった。
そして――理解した。
自分が、何者になろうとしているのかを。
今、彼は帰ってきた。
故郷へ。
日本へ。
始まりの地へ。
⸻
京は海面に立っている。
いや――立っているのではない。
浮いている。
水面に、足をつけたまま。
まるで、固体の上に立っているかのように。
それは、ありえない光景だった。
だが、京にとっては自然なことだ。
彼の足元には、見えない力場がある。
空間を固定する、力。
それが、京を支えている。
京は東京の方を見た。
遠くに見える、灰色の街。
煙が、あちこちから上がっている。
燃えているのだ。
人間の時代が。
京の瞳が、光る。
鈍い金色の光。
まるで、古い金貨のように。
⸻
京の背後には、群れがいた。
数千のゾンビが、海底を歩いている。
彼らは、京に従っている。
大陸から、ずっと。
京が命じれば、動く。
京が止まれば、止まる。
完全な、支配。
だが、それは暴力的な支配ではない。
理性的な、秩序ある支配。
京は、ただの力では動かない。
意思で。
理屈で。
そして――目的のために。
京は、進化の先を見ている。
ただ生き延びるだけではない。
新しい世界を、築くために。
⸻
京が一歩、前に進む。
水面が、わずかに波打つ。
だが、京は沈まない。
もう一歩。
また一歩。
京は、東京へ向かって歩き始めた。
海の上を。
群れが、それに従う。
海底から、無数のゾンビが這い上がってくる。
波打ち際に、次々と。
まるで、津波のように。
いや――それ以上に、不気味に。
彼らは、音を立てない。
ただ、静かに上陸する。
そして、京の後を追う。
⸻
お台場。
かつて観光地だった場所。
今は、廃墟でしかない。
フジテレビの球体展望台は、半分崩れている。
中のスタジオは、機材が散乱している。
カメラは倒れ、照明は落ちている。
もう、誰も放送することはない。
観覧車は、止まったまま錆びている。
ゴンドラは、いくつか地面に落ちていた。
中には、まだ死体が残っている。
ショッピングモールは、略奪され、焼かれている。
ガラスは全て割れ、商品は散乱している。
服。
靴。
食器。
全てが、無価値になった。
その廃墟に、人影があった。
生存者たちだ。
二十名ほど。
男性が十二名。
女性が五名。
子供が三名。
彼らは、ここを拠点にしていた。
海に近く、ゾンビが少ない。
食料も、モールの残りがある。
そして――船を見つければ、逃げられる。
そう考えて、留まっていた。
だが、船は見つからない。
もう三週間も、探している。
港にある船は、全て使えない。
燃料がないか、エンジンが壊れているか。
希望は、少しずつ消えていった。
だが――
⸻
「何だ、あれは……」
見張りの男が、双眼鏡を覗いている。
四十代、痩せた体に汚れた作業服。
彼の名は、木村という。
木村は、海を見ていた。
そして――見た。
海の上を歩く、影を。
「嘘だろ……」
木村の手が、震える。
双眼鏡が、ガタガタと音を立てる。
海面に立つ、人影。
その背後には、無数のゾンビ。
津波のような、群れ。
木村は叫んだ。
「みんな! 逃げろ! ゾンビだ! 海から来る!」
⸻
生存者たちが、慌てて動き出す。
荷物を掴む。
武器を手に取る。
子供を抱き上げる。
だが、どこへ逃げる?
もう、逃げ場はない。
陸には、既にゾンビが溢れている。
海は、今まさにゾンビに覆われようとしている。
絶望。
それしかない。
木村は、もう一度海を見た。
海面を歩く影が、近づいてくる。
ゆっくりと。
だが、確実に。
まるで、死神のように。
⸻
京は、お台場に上陸した。
足が、砂浜を踏む。
サクッ、と音がする。
乾いた、軽い音。
京は立ち止まり、周囲を見回す。
廃墟。
崩れたビル。
錆びた観覧車。
そして――
怯える人間たち。
京の瞳が、彼らを捉える。
金色の光が、強くなる。
⸻
木村と、京の視線が合った。
その瞬間。
木村の体が、硬直する。
動けない。
金縛りにあったように。
いや――それ以上に、強い何かが、体を縛っている。
見えない力。
空間そのものが、固まっているような。
まるで、透明な壁に押し潰されているような。
呼吸が、苦しい。
心臓が、バクバクと音を立てる。
だが、体は動かない。
指一本、動かせない。
木村だけではない。
周囲にいた全ての人間が、動けなくなっていた。
子供も。
女性も。
老人も。
全員が、その場に立ち尽くしている。
まるで、彫像のように。
時間が止まったかのように。
ある女性は、子供を抱きかかえたまま固まっている。
子供は泣いている。
だが、母親は動けない。
慰めることも、抱きしめることもできない。
ただ、涙だけが頬を伝う。
ある男性は、銃を構えたまま固まっている。
引き金に指がかかっている。
だが、引けない。
筋肉が、言うことを聞かない。
恐怖が、全身を支配している。
⸻
京は、彼らに近づく。
一歩。
また一歩。
足音が、静寂に響く。
ザッ、ザッ、と。
乾いた音。
それが、まるで死の鐘のように聞こえる。
人間たちは、目だけを動かす。
それしか、動かせない。
京を見る。
近づいてくる、死神を。
ある者は、祈る。
神に。
仏に。
助けてくれ、と。
ある者は、後悔する。
なぜ、ここに留まったのか。
なぜ、逃げなかったのか。
ある者は、諦める。
もう、終わりだ、と。
死ぬしかない、と。
京が、木村の前に立つ。
見上げる木村。
見下ろす京。
二人の視線が、交差する。
木村は、京の瞳を見た。
金色の瞳。
それは、人間のものではない。
だが、獣のものでもない。
何か――別の存在の瞳。
理性がある。
明確な、意思がある。
それが、逆に恐ろしい。
ただの化け物なら、まだいい。
だが、これは違う。
考えている。
判断している。
そして――
京の口が、開く。
「……動くな」
低く、静かな声。
だが、その声には絶対的な力があった。
命令の力。
支配の力。
木村は、従うしかない。
体が、言うことを聞かない。
⸻
京は、木村の顔を見る。
恐怖に歪んだ、顔。
死を覚悟した、目。
京は、何かを考えている。
この人間を、どうするべきか。
食うべきか。
殺すべきか。
それとも――
京の瞳の光が、揺れる。
金色が、明滅する。
そして――
京が、踵を返した。
⸻
「……行け」
京の声。
その瞬間、木村の体が自由になった。
金縛りが、解けた。
木村は、その場に崩れ落ちる。
「はあっ……はあっ……」
荒い呼吸。
全身が、汗でびっしょりだ。
他の生存者たちも、同じように解放された。
みんな、その場に座り込む。
立っている力が、ない。
京は、彼らを見ずに歩き去る。
群れも、それに従う。
数千のゾンビが、生存者たちの脇を通り過ぎていく。
だが、誰も襲わない。
ただ、通り過ぎるだけ。
まるで、そこに人間がいないかのように。
⸻
木村は、京の背中を見た。
遠ざかっていく、影。
(何だ……あいつは……)
普通のゾンビとは、明らかに違う。
喋った。
命令した。
そして――見逃した。
なぜ?
わからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの存在は――
人間を超えている。
⸻
京は、東京の中心へ向かって歩いていた。
群れを率いて。
彼の瞳は、まだ光っている。
金色に。
そして――その光は、次第に強くなっていく。
京の体内で、何かが変化している。
進化が、加速している。
細胞が。
神経が。
全てが、新しい段階へと移行していく。
京は、それを感じていた。
自分が、何かになろうとしていることを。
ただのゾンビではない。
何か、別の存在に。
⸻
その時。
京の意識に、何かが触れた。
遠くからの、呼びかけ。
いや――波動。
同じ種類の、エネルギー。
覚醒体の、気配。
京は、立ち止まる。
方角を確認する。
西。
横浜の方向。
そこに、いる。
自分と同じ、覚醒体が。
だが――違う。
京とは、真逆の存在。
京が冷たい理性なら、あちらは熱い本能。
京が静かな支配なら、あちらは激しい破壊。
対極。
だが、同等。
京の瞳が、鋭く光る。
金色が、紅を映す。
まるで、遠くの炎を見ているかのように。
興味。
いや――それ以上の何か。
運命を、感じる。
この出会いは、避けられない。
いずれ、対面する。
そして――
どうなる?
戦うのか?
それとも――
⸻
京の周囲の空気が、歪み始めた。
見えない力が、溢れ出す。
それは、圧力となって周囲に広がる。
まるで、巨大な重しが乗せられたかのように。
地面が、わずかに震える。
コンクリートに、ヒビが入る。
細かいヒビが、蜘蛛の巣のように広がっていく。
ビルの窓ガラスが、ヒビ割れる。
パキッ、パキッ、と音を立てて。
やがて、粉々に砕ける。
ガラスの破片が、雨のように降り注ぐ。
群れが、一斉に唸り声を上げる。
ウォオオオオ……
それは、畏怖の声。
京という存在への、賛美の声。
従順の、証。
京は、腕を前に伸ばす。
ゆっくりと。
まるで、何かを掴むように。
手のひらを、開く。
五本の指が、広がる。
そして――
京の瞳が、強く光った。
金色が、輝く。
まるで、太陽のように。
空間が、変わった。
⸻
京を中心に、半径百メートル。
その空間が、別の領域になった。
空気が、重くなる。
呼吸が、困難になる。
重力が、増す。
いや――重力だけではない。
空間そのものが、京の支配下に入る。
物質の動きが、制限される。
音が、遅くなる。
光が、屈折する。
この領域内では、京が絶対だ。
物理法則さえも、京の意思に従う。
上下も。
左右も。
前後も。
全てが、京次第。
これが――
前兆技《虚界展開》。
京の、最初の覚醒能力。
空間支配の、始まり。
⸻
領域内にいた全てのゾンビが、動きを止める。
従順に。
完全に。
京の命令を、待つ。
京は、西を向く。
横浜を。
そこにいる、もう一つの王を。
感じる。
紅い、激しいエネルギーを。
それは、京とは対照的だ。
京が理性なら、あちらは本能。
京が支配なら、あちらは破壊。
だが――
どちらも、王だ。
新しい時代の。
⸻
京は、歩き始める。
横浜へ。
群れが、それに従う。
領域は、京と共に移動する。
まるで、京の体の一部のように。
東京の廃墟を、黒い波が進む。
その中心に立つ、金色の瞳の男。
理性の王。
支配者。
そして――
もうすぐ、もう一つの王と出会う。
紅の鬼神と。
二つの覚醒体が、激突する。
いや――
激突するのか?
それとも――
⸻
京は、わからない。
ただ、行くだけだ。
呼ばれているから。
引き寄せられているから。
それが、運命だから。
夜明けの光が、東京を照らし始める。
灰色の空が、わずかに明るくなる。
新しい一日の、始まり。
そして――
新しい時代の、夜明け。
人間の時代は、もう終わった。
これからは――
覚醒体の時代だ。
⸻
(了)




