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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
ゾンビサイド第3部「蠢動《しゅんどう》」

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第36話「静寂都市」

東京は死んでいた。


高層ビルは骨組みだけを残して傾き、アスファルトには草が生え始めている。


風が吹けば、錆びた看板が軋んだ音を立てた。


かつて一千万の人間が暮らした巨大都市は、今や巨大な墓標に過ぎない。


空は灰色に淀み、太陽の光さえも届かない。


ビルの窓ガラスは割れ、内部には蔦が這い込んでいる。


駅前のスクリーンは黒く沈黙し、二度と映像を映すことはない。


道路標識は錆び、文字は判読できないほど朽ちている。


信号機は電源を失い、ただの鉄の塊と化していた。


音がない。


車のクラクションも、人の怒号も、子供の笑い声も。


何もかもが沈黙している。


ただ風だけが、死んだ街を撫でるように吹き抜けていく。


時折、崩れたビルの破片が地面に落ちる音が響く。


ガラン、ガラン、と。


それさえも、すぐに静寂に飲み込まれた。


東京タワーは斜めに傾き、今にも倒れそうだ。


かつて希望の象徴だったその姿は、今や絶望の記念碑でしかない。


街路樹は枯れ、公園の遊具は錆びついている。


自動販売機は倒れ、中身は全て腐敗していた。


コンビニの看板は色褪せ、文字は読めない。


書店のショーウィンドウには、黄ばんだ雑誌が並んでいる。


もう誰も、それを手に取ることはない。



渋谷スクランブル交差点。


かつて世界一の人口密度を誇ったその場所に、一体のゾンビが立っていた。


神谷刃かみや じん


北方戦線で感染し、ゾンビ化してから一年が経過していた。


彼の体は既に人間のそれではない。


灰色に変色した皮膚。


乾いた血で固まった軍服。


だが、その瞳だけは――鈍い赤みを帯びた瞳だけは、何かを見ていた。


刃は動かない。


ただ、立っている。


周囲には数十体のゾンビが徘徊しているが、誰も刃に近づこうとはしない。


本能が告げている。


この個体は、違う。



刃の意識は、まだ辛うじて残っていた。


(……ここは、どこだ)


視界がぼやけている。


思考が途切れ途切れになる。


記憶が、霧のように薄れていく。


(俺は……誰だ)


名前。


名前が思い出せない。


自分が何者だったのか、何をしていたのか。


全てが曖昧で、掴めない。


北方の雪原。


銃声。


誰かの叫び声。


断片的な映像が、脳裏を過ぎる。


だが、それが自分の記憶なのかさえ定かではない。


ただ一つだけ、確かなものがある。


飢え。


圧倒的な、肉への渇望。


それだけが、刃の中で脈打っている。


胃が、喉が、全身の細胞が叫んでいる。


食え、食え、食え、と。


理性がそれに抗おうとする。


だが、抗えば抗うほど、本能が強くなる。


まるで綱引きのように。


そして――理性の方が、少しずつ引きずられていく。


(……もう、長くない)


刃は自覚していた。


自分の中の人間が、消えかけている。


あと少しで、完全に本能だけの存在になる。


それがわかっているのに、止められない。



ガシャン。


遠くでガラスの割れる音がした。


刃の首が、機械的にそちらを向く。


音の方向を追う。


本能が命じる。


獲物だ、と。


刃の足が動き始めた。


ゆっくりと。


だが、確実に。


一歩、また一歩。


周囲のゾンビたちが、まるで道を開けるように脇へ退く。


刃は気づかない。


ただ歩く。


音の方へ。



路地裏。


崩れたコンビニの前に、一人の男が立っていた。


生存者だ。


三十代半ば、痩せこけた体に汚れた作業服。


手には錆びたバールを握っている。


リュックサックは膨らんでいる。


おそらく、食料の調達中だったのだろう。


男は息を殺していた。


目の前に現れたゾンビ――神谷刃を見て、全身が硬直する。


(……何だ、こいつ)


普通のゾンビとは、明らかに違う。


立ち方。


纏う空気。


そして、その瞳。


赤く、鈍く、光っている。


男は過去に何度もゾンビと遭遇していた。


だが、こんな個体は初めてだ。


背筋に冷たいものが走る。


本能が警告している。


逃げろ、と。


だが、足が動かない。


金縛りにあったように、体が言うことを聞かない。


男の喉が、ゴクリと鳴った。


心臓が、バクバクと音を立てる。


その音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。



刃が、一歩踏み出す。


男が後退る。


「来るな……!」


バールを振り上げる。


だが、手が震えて力が入らない。


刃は止まらない。


もう一歩。


もう一歩。


距離が、三メートルを切る。


男の理性が崩壊した。


「うわあああああっ!」


バールを振り下ろす。


刃の頭部目掛けて、全力の一撃。


ゴッ。


鈍い音。



刃の手が、バールを掴んでいた。


振り下ろされた鉄の棒を、素手で受け止めている。


男の目が見開かれる。


「な……」


バールが、軋む音を立てた。


メキメキと。


金属が歪んでいく。


刃の握力で、鉄の棒が曲がっている。


ありえない。


人間の、いや、ゾンビの力ではない。


これは化け物だ。


刃の瞳が、男を見た。


赤い光が、一瞬強くなる。


そして――


ブンッ。


刃の腕が動いた。


一瞬の動き。


男の視界が回転する。


何が起きたのか理解する前に、体が宙を舞っていた。


ドガァッ!


壁に叩きつけられる。


コンクリートに亀裂が走った。


ズルリと地面に崩れ落ちる。


「がはっ……」


血を吐く男。


口の中が鉄の味で満たされる。


肋骨が何本も折れている。


呼吸が苦しい。


視界が霞む。


刃はゆっくりと近づいた。


一歩。


また一歩。


死神が、近づいてくる。



男を見下ろす。


(……食え)


本能が命じる。


(この肉を食え)


刃の口が開く。


乾いた唇の隙間から、黄ばんだ歯が覗く。


男は動けない。


ただ、震えることしかできない。


「た……たすけ……」


刃の手が、男の肩を掴んだ。


力が込められる。


男の悲鳴が――


その時。



ピタリ、と刃の動きが止まった。


男を掴んだまま、微動だにしない。


まるで時間が止まったかのように。


男が恐る恐る刃を見上げる。


刃の瞳が、揺れていた。


赤い光が明滅している。


まるで、内部で何かが戦っているかのように。


刃の口が震えている。


歯が、カチカチと音を立てた。


そして――


刃の口から、言葉が漏れた。


「……にげ、ろ」


掠れた、途切れ途切れの声。


だが、確かに人間の言葉だった。


男が息を呑む。


(喋った……?)


ゾンビが、言葉を?


そんなことが、あり得るのか?


刃の顔が歪む。


苦痛に耐えているような表情。


額に青筋が浮き、全身が小刻みに震えている。


「……はや、く……」


もう一度、掠れた声。


今度ははっきりと聞こえた。


刃の手が、男の肩から離れた。


そして、よろめくように一歩後退る。


「にげろ……もう……もた、ない……」


最後の言葉。


それは警告だった。


自分の理性が、もう限界だという。


男は理解した。


この化け物は――まだ、人間だった頃の何かを残している。


そして今、その最後の欠片が男を助けようとしている。


男は立ち上がり、よろめきながら走り出した。


振り返らない。


ただ、全力で。


刃はその場に立ち尽くしている。


拳を握りしめ、歯を食いしばり、全身で何かに抗っている。



男の足音が遠ざかる。


やがて、完全に消えた。


刃は動かない。


ただ、自分の手を見ていた。


(……俺は、何を……)


思考が混濁する。


助けた?


なぜ?


なぜ食わなかった?


本能に逆らった。


その事実が、刃の中で何かを引き起こしていた。


頭の奥が、ズキズキと疼く。


まるで脳が焼けるような痛み。


視界が揺れる。


体が熱い。


いや、熱いというより――沸騰している。


血液が、骨が、筋肉が、全てが煮えたぎっている。


刃は膝をつく。


両手で頭を抱える。


「ぐ……あ……」


うめき声が漏れた。


痛い。


痛い。


痛い。


だが、それは単なる苦痛ではない。


変化の痛み。


生まれ変わる痛み。


刃の体内で、何かが再構築されていく。


神経が、筋肉が、骨が。


全てが、新しい形へと作り替えられていく。



刃の視界が、歪む。


赤い霧が、視界を覆い始める。


(……ああ)


わかる。


これは、変化だ。


自分の中で、何かが動き始めている。


人間だった頃の記憶が薄れていく代わりに、別の何かが目覚めようとしている。


刃は空を見上げた。


灰色の空。


光のない、死んだ空。


そして――


刃の瞳が、強く赤く光った。



その瞬間。


周囲にいた全てのゾンビが、一斉に動きを止めた。


まるで見えない糸で操られているかのように。


そして、全員が刃の方を向く。


数十体。


いや、数百体。


渋谷の街中にいた全てのゾンビが、刃を中心に集まり始めた。


ゾ、ゾ、ゾ……


足を引きずる音が重なり合う。


ビルの影から。


地下道から。


崩れた店舗から。


あらゆる場所から、ゾンビたちが這い出してくる。


まるで、召喚に応えるかのように。


刃は動かない。


ただ、立っている。


その周りを、群れが囲んでいく。


円を描くように。


整然と。


統制されて。


まるで軍隊の整列のように。


やがて、群れは完全に静止した。


全員が刃を見ている。


赤い瞳が、数百。


暗闇の中で、それらは鈍く光っていた。


沈黙。


誰も動かない。


ただ、待っている。


刃の命令を。



やがて。


群れの中心に立つ刃の口が、わずかに動いた。


「……来い」


低く、掠れた声。


だが、その声には力があった。


命令する力。


支配する力。


群れが、一斉に唸り声を上げる。


ウォオオオオ……


それは咆哮ではない。


応答だ。


刃の命令に、群れが応えている。


刃が腕を上げる。


群れが静まる。


完全な沈黙。


刃が前を指す。


群れが動き出す。


言葉はいらない。


意思だけで、全てが伝わる。


これが、新しい支配の形。


言語を超えた、意識の共有。


群体としての、統一。


刃は群れの中心で、全てを感じていた。


数百の個体の視界。


数百の個体の感覚。


それらが、一つに束ねられている。


まるで、自分の体が数百に増えたかのように。



刃は歩き始めた。


群れがそれに従う。


数百のゾンビが、一糸乱れぬ動きで刃の後を追う。


まるで軍隊のように。


いや――それ以上に統率された、一つの生命体のように。


渋谷の廃墟を、黒い波が進んでいく。


その先頭に立つ男の瞳は、もはや人間のものではなかった。


鈍い赤から、鮮やかな紅へ。


変化が、始まっている。



東京の空に、カラスが一羽舞い上がった。


死んだ街を見下ろし、一声鳴いて飛び去る。


静寂が戻る。


だが、もうそれは以前の静寂ではない。


何かが動き始めた静寂。


嵐の前の、静けさ。


神谷刃という名の災厄が、目覚めようとしていた。


渋谷の廃墟に立つ群れ。


その中心の男。


紅い瞳を持つ、新しい種族の王。


人間だった頃の記憶は、もう殆ど残っていない。


だが、代わりに得たものがある。


力。


支配。


そして――進化。


刃は、もう人間ではない。


だが、ゾンビでもない。


それを超えた、何か別の存在。


覚醒体。


新世界の、最初の住人。


そして――


遠く、東京湾の彼方から。


もう一つの波が、近づいていた。


黒い、巨大な波が。


海を渡り、陸へと這い上がってくる波。


その波の先頭には、一つの影がある。


金色に光る瞳を持つ、影。


二つの王が、出会う。


その日は、もうすぐだ。



(了)

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