第36話「静寂都市」
東京は死んでいた。
高層ビルは骨組みだけを残して傾き、アスファルトには草が生え始めている。
風が吹けば、錆びた看板が軋んだ音を立てた。
かつて一千万の人間が暮らした巨大都市は、今や巨大な墓標に過ぎない。
空は灰色に淀み、太陽の光さえも届かない。
ビルの窓ガラスは割れ、内部には蔦が這い込んでいる。
駅前のスクリーンは黒く沈黙し、二度と映像を映すことはない。
道路標識は錆び、文字は判読できないほど朽ちている。
信号機は電源を失い、ただの鉄の塊と化していた。
音がない。
車のクラクションも、人の怒号も、子供の笑い声も。
何もかもが沈黙している。
ただ風だけが、死んだ街を撫でるように吹き抜けていく。
時折、崩れたビルの破片が地面に落ちる音が響く。
ガラン、ガラン、と。
それさえも、すぐに静寂に飲み込まれた。
東京タワーは斜めに傾き、今にも倒れそうだ。
かつて希望の象徴だったその姿は、今や絶望の記念碑でしかない。
街路樹は枯れ、公園の遊具は錆びついている。
自動販売機は倒れ、中身は全て腐敗していた。
コンビニの看板は色褪せ、文字は読めない。
書店のショーウィンドウには、黄ばんだ雑誌が並んでいる。
もう誰も、それを手に取ることはない。
⸻
渋谷スクランブル交差点。
かつて世界一の人口密度を誇ったその場所に、一体のゾンビが立っていた。
神谷刃。
北方戦線で感染し、ゾンビ化してから一年が経過していた。
彼の体は既に人間のそれではない。
灰色に変色した皮膚。
乾いた血で固まった軍服。
だが、その瞳だけは――鈍い赤みを帯びた瞳だけは、何かを見ていた。
刃は動かない。
ただ、立っている。
周囲には数十体のゾンビが徘徊しているが、誰も刃に近づこうとはしない。
本能が告げている。
この個体は、違う。
⸻
刃の意識は、まだ辛うじて残っていた。
(……ここは、どこだ)
視界がぼやけている。
思考が途切れ途切れになる。
記憶が、霧のように薄れていく。
(俺は……誰だ)
名前。
名前が思い出せない。
自分が何者だったのか、何をしていたのか。
全てが曖昧で、掴めない。
北方の雪原。
銃声。
誰かの叫び声。
断片的な映像が、脳裏を過ぎる。
だが、それが自分の記憶なのかさえ定かではない。
ただ一つだけ、確かなものがある。
飢え。
圧倒的な、肉への渇望。
それだけが、刃の中で脈打っている。
胃が、喉が、全身の細胞が叫んでいる。
食え、食え、食え、と。
理性がそれに抗おうとする。
だが、抗えば抗うほど、本能が強くなる。
まるで綱引きのように。
そして――理性の方が、少しずつ引きずられていく。
(……もう、長くない)
刃は自覚していた。
自分の中の人間が、消えかけている。
あと少しで、完全に本能だけの存在になる。
それがわかっているのに、止められない。
⸻
ガシャン。
遠くでガラスの割れる音がした。
刃の首が、機械的にそちらを向く。
音の方向を追う。
本能が命じる。
獲物だ、と。
刃の足が動き始めた。
ゆっくりと。
だが、確実に。
一歩、また一歩。
周囲のゾンビたちが、まるで道を開けるように脇へ退く。
刃は気づかない。
ただ歩く。
音の方へ。
⸻
路地裏。
崩れたコンビニの前に、一人の男が立っていた。
生存者だ。
三十代半ば、痩せこけた体に汚れた作業服。
手には錆びたバールを握っている。
リュックサックは膨らんでいる。
おそらく、食料の調達中だったのだろう。
男は息を殺していた。
目の前に現れたゾンビ――神谷刃を見て、全身が硬直する。
(……何だ、こいつ)
普通のゾンビとは、明らかに違う。
立ち方。
纏う空気。
そして、その瞳。
赤く、鈍く、光っている。
男は過去に何度もゾンビと遭遇していた。
だが、こんな個体は初めてだ。
背筋に冷たいものが走る。
本能が警告している。
逃げろ、と。
だが、足が動かない。
金縛りにあったように、体が言うことを聞かない。
男の喉が、ゴクリと鳴った。
心臓が、バクバクと音を立てる。
その音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
⸻
刃が、一歩踏み出す。
男が後退る。
「来るな……!」
バールを振り上げる。
だが、手が震えて力が入らない。
刃は止まらない。
もう一歩。
もう一歩。
距離が、三メートルを切る。
男の理性が崩壊した。
「うわあああああっ!」
バールを振り下ろす。
刃の頭部目掛けて、全力の一撃。
ゴッ。
鈍い音。
⸻
刃の手が、バールを掴んでいた。
振り下ろされた鉄の棒を、素手で受け止めている。
男の目が見開かれる。
「な……」
バールが、軋む音を立てた。
メキメキと。
金属が歪んでいく。
刃の握力で、鉄の棒が曲がっている。
ありえない。
人間の、いや、ゾンビの力ではない。
これは化け物だ。
刃の瞳が、男を見た。
赤い光が、一瞬強くなる。
そして――
ブンッ。
刃の腕が動いた。
一瞬の動き。
男の視界が回転する。
何が起きたのか理解する前に、体が宙を舞っていた。
ドガァッ!
壁に叩きつけられる。
コンクリートに亀裂が走った。
ズルリと地面に崩れ落ちる。
「がはっ……」
血を吐く男。
口の中が鉄の味で満たされる。
肋骨が何本も折れている。
呼吸が苦しい。
視界が霞む。
刃はゆっくりと近づいた。
一歩。
また一歩。
死神が、近づいてくる。
⸻
男を見下ろす。
(……食え)
本能が命じる。
(この肉を食え)
刃の口が開く。
乾いた唇の隙間から、黄ばんだ歯が覗く。
男は動けない。
ただ、震えることしかできない。
「た……たすけ……」
刃の手が、男の肩を掴んだ。
力が込められる。
男の悲鳴が――
その時。
⸻
ピタリ、と刃の動きが止まった。
男を掴んだまま、微動だにしない。
まるで時間が止まったかのように。
男が恐る恐る刃を見上げる。
刃の瞳が、揺れていた。
赤い光が明滅している。
まるで、内部で何かが戦っているかのように。
刃の口が震えている。
歯が、カチカチと音を立てた。
そして――
刃の口から、言葉が漏れた。
「……にげ、ろ」
掠れた、途切れ途切れの声。
だが、確かに人間の言葉だった。
男が息を呑む。
(喋った……?)
ゾンビが、言葉を?
そんなことが、あり得るのか?
刃の顔が歪む。
苦痛に耐えているような表情。
額に青筋が浮き、全身が小刻みに震えている。
「……はや、く……」
もう一度、掠れた声。
今度ははっきりと聞こえた。
刃の手が、男の肩から離れた。
そして、よろめくように一歩後退る。
「にげろ……もう……もた、ない……」
最後の言葉。
それは警告だった。
自分の理性が、もう限界だという。
男は理解した。
この化け物は――まだ、人間だった頃の何かを残している。
そして今、その最後の欠片が男を助けようとしている。
男は立ち上がり、よろめきながら走り出した。
振り返らない。
ただ、全力で。
刃はその場に立ち尽くしている。
拳を握りしめ、歯を食いしばり、全身で何かに抗っている。
⸻
男の足音が遠ざかる。
やがて、完全に消えた。
刃は動かない。
ただ、自分の手を見ていた。
(……俺は、何を……)
思考が混濁する。
助けた?
なぜ?
なぜ食わなかった?
本能に逆らった。
その事実が、刃の中で何かを引き起こしていた。
頭の奥が、ズキズキと疼く。
まるで脳が焼けるような痛み。
視界が揺れる。
体が熱い。
いや、熱いというより――沸騰している。
血液が、骨が、筋肉が、全てが煮えたぎっている。
刃は膝をつく。
両手で頭を抱える。
「ぐ……あ……」
うめき声が漏れた。
痛い。
痛い。
痛い。
だが、それは単なる苦痛ではない。
変化の痛み。
生まれ変わる痛み。
刃の体内で、何かが再構築されていく。
神経が、筋肉が、骨が。
全てが、新しい形へと作り替えられていく。
⸻
刃の視界が、歪む。
赤い霧が、視界を覆い始める。
(……ああ)
わかる。
これは、変化だ。
自分の中で、何かが動き始めている。
人間だった頃の記憶が薄れていく代わりに、別の何かが目覚めようとしている。
刃は空を見上げた。
灰色の空。
光のない、死んだ空。
そして――
刃の瞳が、強く赤く光った。
⸻
その瞬間。
周囲にいた全てのゾンビが、一斉に動きを止めた。
まるで見えない糸で操られているかのように。
そして、全員が刃の方を向く。
数十体。
いや、数百体。
渋谷の街中にいた全てのゾンビが、刃を中心に集まり始めた。
ゾ、ゾ、ゾ……
足を引きずる音が重なり合う。
ビルの影から。
地下道から。
崩れた店舗から。
あらゆる場所から、ゾンビたちが這い出してくる。
まるで、召喚に応えるかのように。
刃は動かない。
ただ、立っている。
その周りを、群れが囲んでいく。
円を描くように。
整然と。
統制されて。
まるで軍隊の整列のように。
やがて、群れは完全に静止した。
全員が刃を見ている。
赤い瞳が、数百。
暗闇の中で、それらは鈍く光っていた。
沈黙。
誰も動かない。
ただ、待っている。
刃の命令を。
⸻
やがて。
群れの中心に立つ刃の口が、わずかに動いた。
「……来い」
低く、掠れた声。
だが、その声には力があった。
命令する力。
支配する力。
群れが、一斉に唸り声を上げる。
ウォオオオオ……
それは咆哮ではない。
応答だ。
刃の命令に、群れが応えている。
刃が腕を上げる。
群れが静まる。
完全な沈黙。
刃が前を指す。
群れが動き出す。
言葉はいらない。
意思だけで、全てが伝わる。
これが、新しい支配の形。
言語を超えた、意識の共有。
群体としての、統一。
刃は群れの中心で、全てを感じていた。
数百の個体の視界。
数百の個体の感覚。
それらが、一つに束ねられている。
まるで、自分の体が数百に増えたかのように。
⸻
刃は歩き始めた。
群れがそれに従う。
数百のゾンビが、一糸乱れぬ動きで刃の後を追う。
まるで軍隊のように。
いや――それ以上に統率された、一つの生命体のように。
渋谷の廃墟を、黒い波が進んでいく。
その先頭に立つ男の瞳は、もはや人間のものではなかった。
鈍い赤から、鮮やかな紅へ。
変化が、始まっている。
⸻
東京の空に、カラスが一羽舞い上がった。
死んだ街を見下ろし、一声鳴いて飛び去る。
静寂が戻る。
だが、もうそれは以前の静寂ではない。
何かが動き始めた静寂。
嵐の前の、静けさ。
神谷刃という名の災厄が、目覚めようとしていた。
渋谷の廃墟に立つ群れ。
その中心の男。
紅い瞳を持つ、新しい種族の王。
人間だった頃の記憶は、もう殆ど残っていない。
だが、代わりに得たものがある。
力。
支配。
そして――進化。
刃は、もう人間ではない。
だが、ゾンビでもない。
それを超えた、何か別の存在。
覚醒体。
新世界の、最初の住人。
そして――
遠く、東京湾の彼方から。
もう一つの波が、近づいていた。
黒い、巨大な波が。
海を渡り、陸へと這い上がってくる波。
その波の先頭には、一つの影がある。
金色に光る瞳を持つ、影。
二つの王が、出会う。
その日は、もうすぐだ。
⸻
(了)




