第35話「北の光」
――人間が人間として生きられる時間は、もう残り少ない。
第1部「黎明」では、田舎の村で静かに始まった感染が、
一つの共同体を内側から崩壊させる様を描いた。
第2部「裂け目」では、その亀裂が都市へ、社会へと広がり、
報道と政治と民衆の三者が、互いを引き裂き合いながら瓦解していく過程を追った。
藤原京は、意識を保ちながらも本能に支配される矛盾を抱え、
群れの一部として、ただ歩き続けた。
神谷刃は、戦場で感染し、覚醒の兆しを見せ始めた。
藤宮澪は、記録者として人間の終わりを見つめ続けた。
そして今——
日本政府は機能を停止し、
自衛隊の組織的抵抗は最後の輝きを失おうとしている。
人類の時代が終わる。
次に来るのは、新しい種族の夜明けだ。
第3部「蠢動」への扉が、今、開かれる。
夜明け。
空が、わずかに明るくなってきた。地平線が、青白く光っている。
北方山岳のキャンプ。
いや——キャンプだった場所。
炎は消え、煙だけが立ち上っている。焦げた木材の匂い。血の匂い。死の匂い。
遺体が、雪の中に転がっている。避難民の遺体。兵士の遺体。ゾンビの遺体。
神谷刃は、その中に立っていた。
剣を背負い、血まみれの服を着たまま。
周囲には——生存者がいる。
二十人ほど。
子供が五人。女性が八人。老人が三人。兵士が四人。
皆、疲れ切っている。絶望した顔。虚ろな目。
刃は、彼らを見た。
守らなければならない。
これだけは——まだ人間だった頃の、自分の役目だ。
刃は、口を開いた。
「行くぞ」
低い声。かすれた声。
「北へ。峠を越える」
生存者たちが、顔を上げた。
「峠の向こうに——避難所がある」
刃が言う。
「そこまで、連れていく」
一人の女性が、震える声で言った。
「本当に……あるんですか……避難所……」
刃は、頷いた。
嘘かもしれない。
でも——希望を与えなければ、この人たちは動けない。
「ある。必ずある」
刃が断言する。
女性が、小さく頷いた。
刃は、歩き出した。
生存者たちが、後を追う。
雪の中を。
北へ。
峠へ向かって。
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峠への道は、険しかった。
雪が深い。膝まで埋まる。一歩進むたびに、足が雪に沈む。引き抜くのに力がいる。
風が強い。体が揺れる。横風が吹くたびに、バランスを崩しそうになる。
斜面が急だ。滑る。足を踏み外せば、転落する。
刃は、先頭を歩く。
足跡をつけ、道を作る。後ろの者たちが歩きやすいように。
時々、振り返る。
生存者たちが、ついてきているか確認する。
子供が、泣いている。寒さと疲労で。
母親が、抱きかかえている。自分も疲れ切っているのに。
「もう少しよ。頑張って」
母親が、子供に囁く。震える声で。
老人が、よろめく。足が雪に取られる。
兵士が、支える。
「大丈夫ですか」
「ああ……まだ、歩ける……」
老人が、か細い声で答える。息が白い。
別の女性が、咳をする。ゴホッ、ゴホッ。
「水……水をください……」
兵士が、水筒を差し出す。
女性が、飲む。わずかに残った水を。
刃は、立ち止まった。
後ろを振り返る。
生存者たちが、疲れ切った顔で立っている。
「休憩するか?」
刃が聞く。
兵士の一人が、首を横に振る。
「いえ……止まったら、凍え死にます。進みましょう」
刃は、頷いた。
そして——前を見た。
峠が——見える。
あと、少しだ。
あと五百メートルほど。
でも——
刃の感覚が、何かを捉えた。
気配だ。
ゾンビの気配。
西——五百メートルほど先。
十体ほど。
こちらへ——向かってくる。
刃は、立ち止まった。
生存者たちも、止まる。
「どうしたんですか?」
兵士の一人が聞く。
刃は、剣に手をかけた。
「ゾンビが来る」
生存者たちが、息を呑む。
「隠れろ。岩の陰に」
刃が指示する。
生存者たちが、慌てて岩の陰へ隠れる。
刃は——一人、前に出た。
剣を抜く。
刃が、朝日を反射する。
やがて——ゾンビの群れが現れた。
十体。
血まみれで、喉を鳴らし、這うように走ってくる。
刃は——構えた。
群れが、刃へ突進する。
刃の目が——金色に光った。
一体目が飛びかかる。
剣を振る。
結果。
首が飛ぶ。
血が雪を染める。
二体目、三体目が同時に襲いかかる。
刃が回転し、剣を薙ぐ。
結果。
二体とも、胴が裂ける。
内臓が飛び散る。
四体目が背後から。
刃が振り向きもせず、背後へ突き刺す。
結果。
頭を貫く。
ゾンビが倒れる。
刃は——戦い続けた。
五体目、六体目、七体目——
すべて、数秒で倒した。
八体目が、地を這うように接近する。低い姿勢。速い。
刃が跳躍し、空中で剣を振り下ろす。
結果。
頭が真っ二つに割れる。脳漿が飛び散る。
ゾンビが、ピクリとも動かなくなる。
九体目が、叫びながら突進してくる。両腕を広げ、口を開け。
刃が剣を構え、一歩踏み込み、胴を薙ぐ。
結果。
胴体が、上下に分かれる。
上半身と下半身が、別々に倒れる。内臓が雪の上に飛び散る。
十体目——最後の一体が、背後から襲いかかろうとする。
刃が振り向きもせず、剣を背後へ突き出す。回転しながら。
結果。
ゾンビの喉を貫く。刃が首を貫通する。
ゾンビが、血を噴き出しながら倒れる。
すべて——終わった。
数分だった。
十体のゾンビを、数分で。
刃は、剣を納めた。
呼吸が——乱れていない。
疲れていない。
刃は、自分の手を見た。
血まみれの手。
でも——震えていない。
これは——
もう、人間ではない。
でも——まだ、理性はある。
境界の存在。
刃は、生存者たちを振り返った。
「行くぞ」
生存者たちが、岩の陰から出てくる。
刃を見る目が——変わっていた。
恐怖と、畏敬が混じった目。
刃は——何も言わず、歩き出した。
北へ。
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同じ頃。
雪原。
藤宮 澪は、子供を抱えて歩いていた。
雪が、深い。
一歩進むたびに、足が埋まる。引き抜く。また埋まる。
疲れた。
体が、重い。鉛のように重い。
子供が——重い。
いや、子供は軽い。五歳の男の子。十キロほどだろう。
でも、澪の体力が——限界だった。
息が、白い。
吐く息が、すぐに凍る。唇の周りに、霜がつく。
唇が、乾いている。ひび割れている。
喉が、渇いている。砂漠のように。
いつから、水を飲んでいないのか。
いつから、食べていないのか。
わからない。
時間の感覚が、ない。
ただ——歩き続けた。
何時間——いや、何日——
澪は、子供を見た。
まだ、生きている。
小さな胸が、上下している。
顔は青白いが——生きている。
唇が、紫色になっている。凍傷の兆候。
でも、呼吸している。
守らなければ。
この子を——
あの女性の、最後の願いを。
澪は、歩き続けた。
一歩、また一歩。
前だけを見て。
北を見て。
その時——
足が、もつれた。
雪に、足を取られた。
バランスを崩す。
澪は——倒れた。
ドサリ、という音。
雪の中に。
子供を——落とさないように。
抱きしめたまま。
澪は、起き上がろうとした。
でも——
体が、動かない。
力が、入らない。
視界が、暗くなる。
これは——
意識が、遠のいている。
澪は、必死に目を開けようとした。
でも——
瞼が、重い。
閉じていく。
その時——
頭の中で、声が聞こえた。
——立て。
——まだ、終わりじゃない。
誰の声——
わからない。
でも——
澪は、唇を噛んだ。
痛い。
血の味。
意識が——わずかに戻る。
澪は、手を雪につけた。
冷たい。
でも——その冷たさが、意識を繋ぎ止める。
澪は——起き上がった。
ふらつく。
でも、立つ。
子供を、抱え直す。
そして——歩き出す。
一歩、また一歩。
倒れそうになる。
でも、踏ん張る。
澪の視界が——ぼやけている。
でも——
前方に、何かが見える。
光——
いや、違う。
建物だ。
小屋か——
澪は、その建物へ向かった。
必死に。
やがて——たどり着いた。
古い小屋。
壁が崩れかけている。
でも——風を凌げる。
澪は、扉を開けた。
軋む音。ギィ、という音。
中に入る。
暗い。窓が一つだけ。割れたガラス。
でも、外よりは暖かい。風が入ってこない。
小屋の中には——古い家具が残っていた。
壊れたテーブル。倒れた椅子。錆びたストーブ。
床に、埃が積もっている。誰も、長い間、ここに来ていない。
壁に、何か書いてある。
チョークで書かれた文字。
《北へ行った。2024年11月5日》
澪は、その文字を見つめた。
誰が書いたのか。
どこへ行ったのか。
生きているのか——
澪は——床に座り込んだ。
壁に背中をつけて。
子供を、膝に乗せる。
子供が——目を開けた。
「……お姉ちゃん……」
か細い声。
澪が、微笑んだ。
「大丈夫。もう、安全よ」
子供が、小さく頷いた。
そして——また、目を閉じた。
澪は、子供を抱きしめた。
温かい。
まだ、生きている。
澪も——まだ、生きている。
澪は、窓の外を見た。
雪が、降っている。
そして——
遠く、北の方角に——
光が見えた。
オーロラのような、光。
緑色と青色が、混じった光。
揺らめいている。
あれは——何だ。
澪は——その光を見つめた。
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同じ頃。
大陸。
海岸。
藤原京は、歩いていた。
集落を——離れた。
ヤマトには、何も言わなかった。
ただ——夜明け前に、出た。
北へ。
凍てつく海岸を。
波が、打ち寄せている。
ザザー、ザザー。
冷たい波。
氷が、浮いている。
風が、強い。
吹雪だ。
雪が、横から叩きつけてくる。
視界が、悪い。
でも——京は、歩き続けた。
北へ。
ただ、北へ。
あの文字が——頭から離れない。
《海の向こうで、待っている》
誰が——待っているのか。
何が——待っているのか。
京は——知りたかった。
自分が、何者なのか。
どこから来たのか。
どこへ行くのか。
答えが——北にある気がした。
京は、吹雪の中を歩き続けた。
やがて——
前方に、何かが見えた。
影だ。
人影——
いや、違う。
ゾンビでもない。
何か——別の存在。
京は、立ち止まった。
影が——近づいてくる。
ゆっくりと。
まっすぐに。
京の目が、金色に光る。
警戒する。
影が——雪の中から現れた。
それは——
人間の形をしていた。
でも、人間ではない。
全身が——白い。
雪のように白い肌。
髪も白い。
目も——白い。
いや——
瞳の中に、光がある。
金色の光。
でも、京の金色とは違う。
もっと強い光。
もっと純粋な光。
その存在が——京を見た。
そして——口を開いた。
「……お前も、来たのか」
声が——響いた。
人間の声ではない。
もっと——深い声。
京は、警戒したまま答えた。
「お前は——誰だ」
その存在が——微笑んだ。
人間のような微笑み。
「俺は——覚醒種だ」
覚醒種——
京の胸が、ざわついた。
「お前たちとは——違う」
その存在が言う。
「進化の、その先だ」
京は、息を呑んだ。
進化の——その先。
「お前も——いずれ、こうなる」
その存在が、京に近づく。
「北へ行け」
「そこに——すべての答えがある」
京は、その存在を見つめた。
「北に——何がある」
「お前の、起源だ」
起源——
京の心臓が、強く打った。
「Z-01——」
その存在が、京の名を呼んだ。
いや——コードネームを。
「お前は——最初から、選ばれていた」
京は——何も言えなかった。
その存在が——背を向けた。
「北へ行け」
「光が、見えるはずだ」
そして——
吹雪の中へ、消えていった。
京は——その場に立ち尽くしていた。
覚醒種——
進化の、その先。
自分も——いずれ。
京は、北を見た。
吹雪の向こう——
光が見えた。
オーロラのような、光。
緑色と青色が、混じった光。
揺らめいている。
京は——歩き出した。
その光へ向かって。
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三人が——
それぞれの場所で——
北の光を見ていた。
刃は、峠の上から。
澪は、小屋の窓から。
京は、海岸から。
三人の視線が——
同じ方向を向いていた。
北。
光が、揺らめいている。
それは——
呼んでいるようだった。
来い、と。
ここへ、と。
答えが、ここにある、と。
刃は、生存者たちを振り返った。
「あの光が見えるか」
生存者たちが、光を見る。
「あそこへ行く」
刃が言う。
「あそこに——きっと、答えがある」
澪は、子供を抱きしめた。
「あの光——」
澪が呟く。
「あなたは、あそこにいるの……京……」
京は、光を見つめた。
「待っていろ」
京が呟く。
「今、行く」
三人が——
北へ向かって、歩き出した。
それぞれの道を。
でも——やがて、交わる。
北の光の下で。
そこで——
何が待っているのか。
覚醒種と呼ばれる存在が——
三人を、待っている。
新たなフェーズが——
始まろうとしていた。
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(了)
ゾンビサイド第2部「裂け目」は、本話をもって完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
続く第3部「蠢動」は、2月2日 20時より公開予定です。
第3部は月・水・金/20時更新。
物語は、より深い段階へ進みます。




