第33話「北方行軍」
雪が、降り始めていた。
白い雪。小さな雪。ひらひらと、空から舞い落ちる。
北方の山岳地帯。
避難民の列が、山道を登っていた。
百人ほど。老人、子供、女性、男性。疲れ切った顔。青白い顔。誰もが、限界だった。
荷物を背負い、杖をつき、子供を抱え、一歩、また一歩。
足音が、雪に吸い込まれる。ザクッ、ザクッ。
風が吹く。冷たい風。体温を奪う風。
誰かが、咳をする。ゴホッ、ゴホッ。
誰かが、倒れる。ドサリ、という音。
列が、止まる。
「大丈夫か!」
兵士が駆け寄る。
倒れたのは、老人だった。
七十代くらい。痩せた体。白い髪。閉じた目。
呼吸が——していない。
兵士が、老人の首に手を当てる。
脈が——ない。
死んでいる。
兵士は、目を伏せた。
「……行こう」
兵士が立ち上がる。
「置いていくのか!」
避難民の一人が叫ぶ。
「埋葬しないのか!」
「時間がない」
兵士が答える。
「このままでは、全員が凍死する」
避難民は、何も言えなかった。
列が、再び動き出す。
老人の遺体を、残して。
雪が、遺体を覆い始める。
白い雪。静かな雪。
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同じ頃。
森の中。
藤宮澪は、走っていた。
息が白い。吐く息が、白く凍る。
足が冷たい。ブーツの中まで、冷気が入り込んでいる。
手が悴む。指が動かしにくい。
でも——止まれない。
背後から、まだ追われている。
足音が、聞こえる。
ザッ、ザッ、ザッ。
兵士たちだ。
澪は、木の陰に隠れた。
呼吸を整える。肩で息をする。
足音が、近づいてくる。
「この辺りにいるはずだ!」
声が響く。
「見つけ次第、射殺しろ!」
澪は、唇を噛んだ。
射殺——
もう、捕まえる気はないのか。
澪は、腰のナイフを握った。
戦うのか——
いや、勝てない。
相手は五人。こちらは一人。しかも、武器はナイフだけ。
澪は、木の陰から覗いた。
兵士たちが、散開している。
一人、二人、三人——
五人全員が、見える。
その中の一人が、こちらを向いた。
目が合う。
しまった——
「いたぞ!」
兵士が叫ぶ。
銃を構える。
澪は、走り出した。
パン。
銃声が響く。
木の幹に、弾が当たる。バキン、という音。木片が飛び散る。
澪は、ジグザグに走る。
木から木へ。
パン、パン。
銃声が続く。
澪の横を、弾が掠める。
耳元で、ヒュン、という音。
近い。
澪は、斜面を滑り降りた。
雪が積もっている。滑る。
体が傾く。バランスを取る。
転びそうになる。でも、踏ん張る。
斜面の下——川がある。
凍っている。
澪は、氷の上に飛び降りた。
着地。
氷が軋む。ミシミシ、という音。
割れる——
澪は、走った。
対岸へ。
氷の上を。
ミシミシ、ミシミシ。
氷が、割れ始める。
ヒビが入る。
澪は、必死に走る。
あと少し——
対岸に、たどり着いた。
振り返る。
兵士たちが、川の向こう岸にいる。
一人が、氷の上に足を踏み出そうとする——
バキン。
氷が割れる。
兵士が、水に落ちる。
悲鳴が響く。
「助けろ!」
他の兵士たちが、慌てる。
澪は——その隙に、走り去った。
北へ。
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同じ頃。
森の奥。
神谷刃は、ゾンビを狩っていた。
剣を振るい、一体、また一体。
血が飛び散る。
首が転がる。
刃の服は、血で染まっている。
顔にも、血がついている。
でも——止まらない。
次のゾンビを探す。
気配を感じる。
東——二百メートル。
三体。
刃は、そちらへ向かった。
走る。
木々の間を抜け、雪を踏み、岩を飛び越える。
速い。
人間の速さではない。
やがて——ゾンビが見える。
三体。
血まみれで、喉を鳴らしている。
刃を見て——襲いかかってきた。
刃は、剣を抜いた。
一閃。
一体目の首が飛ぶ。
二閃。
二体目の胴が裂ける。
三閃。
三体目の頭が割れる。
すべて——数秒だった。
刃は、剣を納めた。
呼吸が——乱れていない。
疲れていない。
力が、溢れている。
刃は、自分の手を見た。
血まみれの手。
震えていない。
これは——
人間の手なのか。
それとも——
刃の頭に、声が響いた。
——殺せ。
——もっと殺せ。
——それが、お前の役目だ。
刃は、頭を振った。
違う。
俺は、人を守るために戦っている。
ゾンビを倒すために——
でも——
本当にそうか。
刃は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、激しく打っている。
ドクン、ドクン、ドクン。
血が、沸き立っている。
これは——
戦いの高揚か。
それとも——
刃の中で、何かが変わり始めている。
理性と、衝動の境界。
その境界が——曖昧になっている。
刃は、空を見上げた。
雪が、降っている。
白い雪。
静かな雪。
その雪が——血で汚れた地面を、覆い隠していく。
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同じ頃。
海の向こう。
大陸。
藤原京は、砂浜に立っていた。
波が、足元を洗う。
ザザー、ザザー。
京は、ようやく——陸地にたどり着いた。
長い泳ぎだった。
何日——いや、何週間泳いだのか。
わからない。
時間の感覚が、ない。
ただ、泳ぎ続けた。
そして——ここに、たどり着いた。
京は、砂浜を歩いた。
足跡が、砂についていく。
周囲を見渡す。
木が生い茂り、岩が転がり、鳥が鳴いている。
そして——
何か、建物がある。
いや——建物ではない。
集落だ。
京は、その集落へ向かった。
近づくと——わかった。
これは——
人間の集落ではない。
建物は、崩れかけている。
壁に、爪痕がある。
地面に、血痕がある。
そして——
人影が、見える。
いや——人間ではない。
ゾンビだ。
でも——普通のゾンビではない。
動きが、違う。
ふらついていない。
這っていない。
まっすぐに、歩いている。
人間のように。
京は、一人の——いや、一体のゾンビに近づいた。
男性のゾンビ。
三十代くらいだろうか。
服を着ている。ボロボロだが、着ている。
顔は——人間に近い。
目が、濁っていない。
いや——金色だ。
京と同じ、金色の瞳。
そのゾンビが、京を見た。
そして——口を開いた。
「……お前も、か」
言葉だ。
ゾンビが——喋った。
京は、息を呑んだ。
「お前も——進化したのか」
そのゾンビが、京に近づく。
敵意は、ない。
ただ、興味深そうに見ている。
「俺は、ヤマト」
ゾンビが、自己紹介した。
「お前は?」
京は、しばらく黙っていた。
そして——
「……京」
答えた。
ヤマトが、頷いた。
「京、か。いい名だ」
ヤマトが、集落を指す。
「ここは、俺たちの集落だ」
「俺たち——?」
「ああ」
ヤマトが、笑った。
人間のような笑顔。
「進化した感染体の集落だ」
京は、集落を見渡した。
他にも——進化したゾンビがいる。
十人——いや、二十人以上。
皆、金色の瞳をしている。
皆、言葉を話している。
皆、理性を保っている。
これは——
新しい種族だ。
人間でもなく、ゾンビでもなく——
何か、別の存在。
ヤマトが、京の肩に手を置いた。
「ようこそ、京」
ヤマトが言う。
「お前は、もう一人じゃない」
京は——何も言えなかった。
ただ、集落を見つめていた。
金色の瞳をした者たちを。
自分と同じ、境界の存在たちを。
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北方の山岳地帯。
避難民の列は、まだ進んでいた。
雪の中を。
寒さの中を。
死の影を背負いながら。
兵士の一人が、地図を見ている。
「あと、どれくらいだ?」
隣の兵士が聞く。
「……わからない」
地図を見ている兵士が答える。
「この先に、避難所があるはずだが——」
「はず、か」
隣の兵士が、苦笑する。
「もう、何も確かなことはないんだな」
二人は、黙った。
列が、進む。
北へ。
ただ、北へ。
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森の中。
澪は、走っていた。
まだ、追われている。
でも——距離が開いた。
少しだけ。
澪は、立ち止まった。
木に背中をつけ、息を整える。
肺が痛い。
足が痛い。
全身が、痛い。
でも——生きている。
澪は、北を見た。
雪が、降っている。
この先に——何があるのか。
わからない。
でも——
澪の脳裏に、金の瞳がちらついた。
藤原京。
彼は——北にいるのか。
それとも——
澪は、再び走り出した。
北へ。
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森の奥。
刃は、剣を背負い、歩いていた。
ゾンビを狩り終えた。
この周辺には——もういない。
刃は、北を見た。
雪が、降っている。
この先に——
避難所があるはずだ。
人々がいるはずだ。
守るべき者が、いるはずだ。
でも——
刃は、自分の手を見た。
血まみれの手。
これで——人を守れるのか。
それとも——
刃は、拳を握った。
まだ、人間だ。
まだ、理性がある。
それを、信じる。
刃は、歩き出した。
北へ。
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大陸の集落。
京は、ヤマトに案内されていた。
集落の中を。
建物の中には、進化したゾンビたちが住んでいる。
火を焚いている者もいる。
食事をしている者もいる。
人間と——変わらない。
いや、違う。
彼らが食べているのは——
人肉だった。
京は、目を逸らした。
ヤマトが、京を見る。
「嫌悪するか?」
「……いや」
京が答える。
「ただ——」
「ただ?」
「人間だった頃を、思い出した」
ヤマトが、頷いた。
「俺もだ」
ヤマトが、空を見上げる。
「俺たちは、人間じゃない」
ヤマトが言う。
「でも、ゾンビでもない」
「じゃあ——何だ」
「新しい種族だ」
ヤマトが、京を見る。
「進化した存在だ」
京は、黙っていた。
進化——
それが、正しいのか。
わからない。
でも——
京は、この集落で——
何かを学べるかもしれない。
自分が、何者なのか。
どこへ向かうべきなのか。
京は、ヤマトに聞いた。
「ここには——何人いる?」
「三十人ほど」
ヤマトが答える。
「皆、お前と同じだ」
「北から来た者は?」
「北?」
ヤマトが首を傾げる。
「北から来た者は——いない」
「そうか」
京は、北を見た。
雪が——降っていない。
ここは、暖かい。
でも——
京の心は、北を向いている。
あの島で見た文字。
《海の向こうで、待っている》
あれは——
誰が書いたのか。
何を待っているのか。
京は——知りたかった。
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三者が、それぞれ北へ進んでいた。
刃は、森を抜け、山を登る。
澪は、追手を逃れ、雪の中を走る。
京は——大陸から、さらに北を目指す決意をする。
三人の道は、まだ交わらない。
でも——やがて、交わる。
その時——
何が起きるのか。
終末の行軍が、始まっていた。
人類の終わりと——
新しい種族の始まりの、狭間で。
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(了)




