第32話「変異」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
森の中。
神谷刃は、目を覚ました。
冷たい土の感触。背中に、湿った落ち葉が張り付いている。ひんやりとした感触。湿った空気が、肺に入る。木々の匂い。土の匂い。腐葉土の匂い。そして——わずかに、血の匂い。
空を見上げる。枝の隙間から、朝日が差し込んでいる。木漏れ日が、顔を照らす。暖かい。鳥が鳴いている。チチチ、という声。遠くで、カラスが鳴く。カァ、カァ。
刃は、体を起こした。
背中が痛い。服が破れている。泥と血で汚れている。血が滲んでいる。自分の血か、それとも——
でも——生きている。
心臓が打っている。肺が動いている。血が流れている。
刃は、左腕を見た。
包帯が、ボロボロだ。ほどける。
傷が、露出する。
紫色の筋が——止まっていた。
首まで達していた筋が、そこで止まっている。広がっていない。
刃は、息を呑んだ。
なぜ——
感染は、進行するはずだ。止まることはない。必ず、全身に広がり、脳に達し、発症する。
でも——止まっている。
刃は、手を握った。開いた。拳を作った。
力が、ある。
昨日よりも、強い。
視界が、クリアだ。
音が、よく聞こえる。
遠くで枝が折れる音。葉が揺れる音。小動物が駆ける音。
匂いが、わかる。
土の匂い。木の匂い。そして——
血の匂い。
ゾンビの匂い。
刃は、立ち上がった。
ゾンビが——近くにいる。
どこだ。
刃は、剣を抜いた。
刃が、朝日を反射する。
気配を探る。
東——いや、北東だ。
三百メートルほど先。
五体。
刃は、走り出した。
木々の間を抜け、枝を避け、岩を飛び越える。
速い。
人間の走りではない。
いや——まだ人間だ。
でも、違う。
何かが——変わった。
刃は、ゾンビの群れを見つけた。
五体。
崩れた服を着て、血まみれで、喉を鳴らしている。グゥ、グゥ、という音。獣のような音。
その中の一体が、刃に気づいた。濁った目が、刃を捉える。
刃を見て——襲いかかってきた。
他の四体も、続く。
刃は、剣を構えた。
溜め。
一体目が飛びかかる。両腕を広げ、口を開け、牙を剥く。
刃が剣を振る。横一閃。刃が、空気を切る音。
結果。
首が飛ぶ。綺麗に切断される。
血が噴き出し、体が崩れ落ちる。ドサリ、という音。首が地面を転がる。
二体目が腕を伸ばす。爪が伸びている。鋭い爪。刃の顔を狙う。
刃が身を捻り、剣を横薙ぎに振る。
結果。
腕が切断される。肘から先が飛ぶ。
ゾンビが、バランスを崩す。よろめく。
刃が踏み込む。一歩、二歩。距離を詰める。
剣を突き刺す。額へ。
結果。
頭を貫く。刃が、頭蓋骨を突き破る。ズブリ、という音。
ゾンビが、動かなくなる。刃が剣を引き抜く。血が滴る。
三体目が、背後から襲いかかる。刃は振り向きもせず、気配だけで感知する。
剣を背後へ突き出す。回転しながら。
結果。
ゾンビの喉を貫く。
ゾンビが、倒れる。喉から血を噴き出しながら。
四体目が、地を這うように接近する。低い姿勢。速い。
刃が跳躍し、空中で剣を振り下ろす。
結果。
頭が真っ二つに割れる。
ゾンビが、ピクリとも動かなくなる。
五体目——最後の一体が、叫びながら突進してくる。
刃が剣を構え、一歩踏み込み、胴を薙ぐ。
結果。
胴体が、上下に分かれる。
上半身と下半身が、別々に倒れる。内臓が飛び散る。
残り三体。
刃は、息も切らさず戦い続けた。
速く、正確に。
やがて——すべてのゾンビが、倒れた。
刃は、剣を納めた。
手が、震えていない。
呼吸が、乱れていない。
疲れていない。
刃は、自分の呼吸を確かめた。
速い。だが苦しくない。
血の巡りが異様に早い。脈が、心臓ではなく全身で打っているように感じる。ドクン、ドクン、ドクン。体中が、生きている。
皮膚の下を、何かが這っている。熱い光が脈動しているようだった。紫の筋が、血管の中で蠢いている。
森の匂いが、異様に鮮明だ。腐肉と土と血の層が、色彩のように脳に焼きつく。一つ一つの匂いが、分離して認識できる。
——俺は、生きている。
いや、違う。
生きている”つもり”でしかないのかもしれない。
これは——
刃は、自分の手を見た。
人間の手だ。
でも——何かが違う。
境界の存在。
人間でもなく、ゾンビでもない。
その間に——いる。
刃は、空を見上げた。
青い空。白い雲。
俺は——何になったんだ。
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同じ頃。
海沿いのキャンプ地。
感染者処理班のテント。
藤宮澪は、そこにいた。
テントの中は、暗い。ランプの明かりだけが、辺りを照らしている。
澪の前には——また感染者がいた。
今度は、女性だ。
二十代後半。痩せた体、青白い顔、震える唇。
腕に、噛み跡がある。
発症は、まだだ。
でも——時間の問題だ。
女性は、椅子に縛られている。ロープで、手首と足首を。
澪は、ライフルを構えていた。
銃口が、女性の額を向いている。
引き金に、指がかかっている。
でも——
撃てない。
「お願い……」
女性が、か細い声で言う。
「私を……助けて……」
澪は、唇を噛んだ。
助けられない。
感染したら——もう、終わりだ。
治療法は、ない。
ワクチンも、ない。
できることは——殺すことだけだ。
「お願い……」
女性が、涙を流す。
「私には……子供がいるの……」
澪の手が、震えた。
「まだ……会いたい……」
澪は、目を閉じた。
深く息をする。
そして——
銃を下ろした。
「できない……」
澪が、呟く。
「私には……できない……」
その時、テントの入口が開いた。
将校が入ってくる。冷たい目をした男。
「藤宮軍曹。なぜ撃たない」
澪は、振り返った。
「この人は……まだ人間です」
「感染者だ」
将校が、冷たく言う。
「人間ではない」
「でも——」
「命令だ」
将校が、拳銃を抜く。
女性に向ける。
「撃て。それができないなら——」
パン。
銃声が、テントに響いた。
女性の頭に、穴が開く。
動きが、止まる。
澪は、息を呑んだ。
「次は、お前が撃て」
将校が、澪を見る。
「拒否すれば——お前も、処分される」
澪は、何も言えなかった。
将校が、去る。
テントに、澪だけが残された。
死体と、二人きり。
澤は、拳を握りしめた。
これ以上——できない。
この任務を、続けられない。
澪は、ライフルを置いた。
テントの外に出ると、空は灰色だった。
遠くの海面に、薄い光が揺れている。朝日が、雲の間から覗いている。
風が冷たい。肌を刺す。
澪は、拳を握った。
あの少年の声が、耳の奥でこだまする。
「早く殺してくれ——」
唇を噛む。血の味。鉄の味。
軍服の袖に、涙が落ちる。染みが広がる。
逃げれば、すべてを失う。
軍人としての誇り。仲間。立場。
でも、残れば、自分が壊れる。
人間として、何かが——取り返しがつかないほど壊れる。
その境界で、澪は一歩を踏み出した。
外は、明るい。
朝日が、キャンプ地を照らしている。
兵士たちが、動いている。
澪は、キャンプ地の端へ向かった。
誰にも気づかれないように。
フェンスがある。
澪は、フェンスを越えた。
そして——走り出した。
北へ。
どこへ行くのか、わからない。
でも——ここにはいられない。
罪悪感が、澪を押し潰す。
恐怖が、澪を追いかける。
でも——止まれない。
澪は、走り続けた。
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同じ頃。
海の向こう。
小さな島。
藤原京は、研究施設の中を歩いていた。
廊下が続いている。長い廊下。両側に、扉が並んでいる。
暗い。窓がない。光が入らない。
でも、京の目には見える。金色の瞳が、暗闇を見通す。
壁が、錆びている。ペンキが剥がれている。床に、埃が積もっている。誰も、長い間、ここに来ていない。
空気が、淀んでいる。カビの匂い。錆の匂い。そして——死の匂い。
京は、施設の奥へ進んだ。
一つ目の部屋を覗く。
実験室だった。
機材が散乱している。顕微鏡が倒れ、試験管が割れ、書類が床に散らばっている。
京は、次の部屋へ。
そこには——檻があった。
鉄の檻。錆びている。
中に——骨がある。
人間の骨だ。
いや、違う。
人間の骨と——何か別の骨が、混ざっている。
変形している。異常に長い腕の骨。指が六本ある手の骨。巨大な頭蓋骨。鋭い牙が生えている顎。
これは——
実験の失敗作だ。
京は、檻から離れた。
次の部屋へ。
水槽の部屋。
巨大な水槽。ガラスが割れ、中の水は抜けている。床が濡れている。
底に——何かがあった。
人間の形をしていた。
いや、していない。
半分、人間で、半分——ゾンビだ。
右半身は、人間の肌。白い肌。
左半身は、腐った肌。緑色の肌。
顔も、半分だけ人間。目が開いている。虚ろな目。
半分は、ゾンビ。目が濁っている。
死んでいる。
動かない。
でも——その姿は、京に何かを語りかけていた。
これが——融合の結果だ。
成功ではない。
失敗だ。
京は、扉を見つけた。
鉄の扉。
施錠されている。頑丈な鍵。
京は、扉を蹴った。
ガン。
扉が、歪む。金属が軋む。
もう一度。
ガン。
扉が、外れる。蝶番が壊れる。
中に——部屋がある。
広い部屋。天井が高い。
中央に、巨大なコンピュータがある。
古い機械。埃をかぶっている。
京は、コンピュータに近づいた。
画面が、薄っすらと光っている。
まだ、電源が入っている。
京は、キーボードを叩いた。
画面が、明るくなる。
文字が、表示される。
《感染進化体プロジェクト》
《責任者:橘 悠二》
《目的:感染体の進化促進および制御》
《実験段階:第七段階》
《成功例:ゼロ》
《失敗例:四十七体》
京は、画面を見つめた。
感染進化体——
それが、このプロジェクトの名前だ。
京は、次のページを開いた。
《実験概要》
《感染体は、人肉を摂取することで進化する》
《しかし、その進化は制御不能である》
《我々は、進化を制御し、理性を保ったまま強化された個体を作ることを目指した》
《だが——》
《すべて、失敗した》
京は、さらにページをめくる。
《実験記録 第一段階》
《被験者A:男性、三十歳》
《感染後、人肉を与える》
《結果:進化せず、通常のゾンビ化》
《実験記録 第二段階》
《被験者B:女性、二十五歳》
《感染後、大量の人肉を与える》
《結果:進化を確認。身体能力向上》
《しかし、理性を失い、凶暴化》
《処分》
京は、読み続けた。
何十ものページ。
何十もの実験。
そして——すべて、失敗だった。
やがて——最後のページに、たどり着いた。
《実験記録 最終段階》
《被験者Z:性別不明、年齢不明》
《感染後、特殊な処置を施す》
《結果:進化を確認。身体能力向上。理性保持》
《成功——か?》
《だが、被験者は施設から逃亡》
《現在、行方不明》
《追記:この実験は、失敗である》
《我々は、神を作ろうとした》
《だが、作られたのは——悪魔だった》
京は、画面を見つめた。
被験者Z——
それは、誰だ。
そして——どこへ行ったのか。
京の胸の奥で、何かが反応する。
あの文字と——同じだ。
《海の向こうで、待っている》
京は、コンピュータから離れた。
部屋を出る。
廊下を歩く。
その時——足を止めた。
壁の金属板に、文字が刻まれている。
錆びた金属。削られた文字。
《Z-01:試験体登録名——KYO》
息が止まる。
自分の名前。
偶然なのか、それとも——
頭の奥で、誰かの声が響いた。
——“お前は最初から、選ばれていた”
京は、拳を握った。
心臓が、強く打つ。
これは——記憶なのか。幻聴なのか。
わからない。
でも——確かに聞こえた。
京は、金属板を見つめた。
KYO。
自分は——ここで生まれたのか。
それとも——
京は、施設を出た。
波が、足元を洗う。冷たい水。
目の奥が、金色に燃える。
外は、明るい。
太陽が、空を照らしている。
海が、広がっている。
京は、海を見つめた。
波が、打ち寄せている。
その向こうに——何かがある。
被験者Z。
成功した実験体。
悪魔。
京は、再び海へ入った。
泳ぎ始める。
金色の瞳が、輝く。
海の向こうへ。
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北方の森。
刃は、歩いていた。
避難所へは——戻らない。
もう、人間ではない。
境界の存在だ。
人々の中にいることは——できない。
刃は、木々の間を抜け、道なき道を進む。
どこへ行くのか、わからない。
でも——前へ進む。
それしか、できない。
刃の感覚が、研ぎ澄まされている。
遠くで、何かが動く。
ゾンビだ。
十体ほど。
群れている。
刃は、そちらへ向かった。
戦うために。
それが——今の自分にできることだ。
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海沿いのキャンプ地。
処理班のテントに、兵士が駆け込んできた。
「藤宮軍曹が、逃亡しました!」
将校が、顔を歪める。
「追え。捕らえろ。脱走兵は——銃殺だ」
兵士たちが、走り出す。
澪を追って。
北へ。
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澪は、森の中を走っていた。
息が上がる。喉が焼けるように痛い。
足が痛い。ブーツが足首に食い込む。
でも——止まれない。
木々の間を抜ける。枝が顔を掠める。痛い。頬が切れる。
根っこに躓きそうになる。バランスを取り直す。
背後から、足音が聞こえる。
ザッ、ザッ、ザッ。
複数の足音。
追っ手だ。
兵士たちが、追ってくる。
「藤宮軍曹! 止まれ!」
声が響く。
澪は、振り返らない。
ただ、走る。
森が深くなる。木が密集し、光が届かなくなる。薄暗い。
足元が見えにくい。でも、止まれない。
澪は、必死に走る。
木々の間を抜け、枝を避け、岩を飛び越える。
肺が悲鳴を上げる。心臓が激しく打つ。
足音が——近づいてくる。
ザッ、ザッ、ザッ。
もっと速く。
もっと遠くへ。
澪は、斜面を駆け下りた。滑りそうになる。木に手をつき、バランスを取る。
小川がある。水が流れている。冷たい水。
澪は、川に飛び込んだ。水しぶきが上がる。
冷たい。足が痺れる。
でも、止まらない。
川を渡り、対岸へ。
這い上がる。泥が手につく。
そして——また走る。
足音が——遠ざかっている。
少しだけ。
でも、まだ追ってくる。
どこまで——逃げられるのか。
わからない。
でも——
澪の頭に、一つの顔が浮かんだ。
金色の瞳の男。
藤原京。
彼は——どこにいるのか。
まだ、生きているのか。
澪は、走り続けた。
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海の上。
京は、泳いでいた。
波が、京を押す。
風が、京を運ぶ。
太陽が、京を照らす。
金色の瞳が、前を見つめる。
海の向こうに——陸地が見える。
大きな陸地。
大陸だ。
京は、そこを目指す。
泳ぎ続ける。
止まらない。
疲れない。
ただ、進む。
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三人の変異が、進行していた。
刃は、境界の存在として。
澪は、逃亡者として。
京は、進化体として。
それぞれが、違う道を歩いている。
でも——やがて、再び交わる。
その時——
何が起きるのか。
誰にも、わからない。
国家は、崩壊した。
人類は、滅びつつある。
そして——新たなフェーズが、開かれようとしていた。
人間と、ゾンビと、その境界にいる者たちの——物語が。
-----
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




