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トラ トラ トラ!  作者: 悠鬼由宇
4/6

九人でも戦術次第で十分戦えるのがわかり益々サッカーにハマってしまう話

あっという間にその日はやってくる。

四月七日。土曜日。曇り。蒲田南中学校グランド。

東京都中体連第一支部 ブロック大会初戦。


川崎フロンティアのゼネラルマネージャー、飯田拓也はU18監督の栂正樹と共に、グランドの片隅でキックオフを待っていた。

「タクさん、前半だけですよ。俺こう見えて結構忙しいんすから」

「わかってる。でも、見てみたくねえか、あの永野健太のチームを」

栂は興味なさそうな不貞腐れた風に、

「それは… まあ…」

「正樹お前、あの人にいっぱい教わったんだろ? ユースの時に」

大きく溜息をついてから栂は

「まあ、そーでしたね。俺が玉電ユースだった頃。トップチームのあの人に、まあ色々教わりましたねえ、はは、懐かしい…」

大きく背を逸らせ、曇り空を見上げる。

そうなのだ。俺がサッカーを始めた時にトップチームの中心選手だったあの人は、俺の憧れだった。何度試合を見に行っただろう、そしてあの人の献身的な動きや仲間を盛り上げるファイティングスピリッツに何度胸が熱くなり涙がこぼれ落ちただろう。

J昇格を決めた試合があの人の引退試合だった。あの時は嬉しさよりも悲しさで一晩泣いた。間違いなく今のフロンティアのサッカーの一部分に、あの人の魂が入っている。

『技術、体力よりも、試合を決するのは勝ちたいという想いの強さである』

現役時代のあの人は試合毎にそう言っていたらしい。そしてその精神は今でもトップチームからジュニアユースまで息付いている。

その、あの人のチーム。

勿論、後半も、試合終了までキッチリ観てみたい。


試合開始前の整列だ。両チームが向かい合って礼をしている。昭和な儀式に二人は思わず微笑んでしまう。今では試合前の挨拶は、両チームは主審副審を中心に一列となるのが普通だからだ。

それにしても…

二人の目は蒲田南中イレブン… いや、九人しかいない… に釘付けである。

これ、公式戦だろ? これが都内の部活のスタンダードなのだろうか?

二人は目を合わせ、軽く首を振る。

試合開始のホイッスルが鳴る。

二人はすぐにグランド全体を見回す。成る程、蒲田南中は4−3−1の布陣だ。対する大井三中はオーソドックスな4―2―3―1である。

試合は始まってすぐに三中ペースで進んでいく。

「部活の試合って、久々に見ますよ」

「そうだな。正樹は部活経験なしか?」

「ええ。中学から玉電ユースでしたから。それにしても…」

栂の苦笑いに、飯田は

「まあ。こんなものなんだろうな」

「ええ。ハッキリ言って。どっちも基礎がまるでダメ。」

「手厳しいな」

「土のグランドってことを差し引いても、これだけトラップ、パスの精度が悪い… あれ?」

栂の目が鋭さを増す。

「ほお… これは…」

飯田の目も鋭く光る。

「へえ… コイツは…」

それから暫く、二人は無言で試合を眺める。


前半が0―0で終了する。

「どうする正樹? 後半も観ていくか?」

「意地悪言わないでくださいよ。それで。タクさんはどの子?」

「なんと言っても、6番。話は聞いていたんだけど、あの子はホントに『俯瞰』しているよ」

栂はウンウンと頷きながら、

「ですね。こんな公立の部活に、あんな子が埋もれているとは… ったくウチのスカウトは何見てんだか。」

「それと。G K。ガタイもそこそこいいし、何よりコーチングが的確。この年であれだけしっかり指示出せるなんて、大したもんだ」

「キックは全然ですけどね、でもホント身体もいいし。この先ちょっと楽しみですね」

「そうだな。あとはー」

「まあ、こんなもんか、って感じですかね」

「あの、ベンチ入りしてない、一年生。」

「へ? どの子?」

飯田は指を指し、栂は頷く。

「いや、流石タクさん。メンバー外の子もしっかり見てるなんて… って、アレ、あの子?」

「去年S C東京にいた子じゃないか?」

「ああ、ホントだ… ウチが欲しかったけど、掻っ攫われた… って、なんでこんな中学の部活に? 怪我でもして辞めたのかな?」

飯田は首を捻りながら、

「さあ、どうしてだろうな。試合には出られないのかな、まだ」

「登録とかあるんでしょうね。ちょっと見たかったなあ」

「おっ後半始まるぞ」

栂はニヤリと笑いながら、

「で。賭けます? どっちが勝つか?」

飯田は栂をジロリと睨み、

「アホ。賭けにならねえだろ。」

「プッ そりゃそーか。じゃあ、何対何、で賭けません?」

「2−0」

「じゃ、俺は1−0。ビールですよ、キンキンに冷やしたクラフトビールね!」


数時間後。栂は初めて入るオンボロのスナックみたいな店に入るや否や、

「しかし… なんともレトロな店っすね…」

カウンターを拭いていた長身の女性が

「ハア? 馬鹿にしてんのか、このチビがコラ!」

亜弓に凄まれた栂は怯えた表情となり、

「いえいえいえそんな馬鹿になんてしてませんよそれにしても綺麗なママさんですよねタクさんケンタさん!」

亜弓は目を細め、

「オメー、若いくせに口ばっか達者だなあオイ。永野サン、コイツ本当に大丈夫なの? これでチームの監督なんて…」

飯田は大笑いし、健太は苦笑いする。

三人はカウンターに座り、亜弓がドンと置いた瓶ビールに栂が手を伸ばす。

「いやー、それにしても。さすがタクさん。参りました」

と言って栂は飯田のグラスにビールを注ぐ。健太はニヤリと笑いながら、

「おいタク、お前またコイツと賭けてたんじゃねーだろうな?」

飯田もニヤリと笑いながら、

「いいじゃないっすか。正樹にもいい勉強になったでしょうし。でもよくあの人数で『圧勝』しましたよね、さすがケンタさん。」

三人の後ろで、試合を終えたばかりの生徒とマネージャー達が大はしゃぎで騒いでいる。そんな中、マネージャーの一人、キョンが健太の席にやってきて、

「永野サン、ハイこれ。今日のスタッツ」

と言ってノートを健太に差し出す。

そのノートを覗き見した栂が、

「ヘーーーー、キミ、凄いね。これ凄く正確。どお、将来ウチに来ない?」

「い、いやあ、まだまだっす…」

キョンは照れ臭そうに俯く。


健太が一通りチェックし、飯田に手渡す。飯田もそれをサッと眺め、栂に渡す。健太はトラを呼び、栂の横に立たせる。

「栂正樹。フロンティアのU18の監督さんだ。今日の試合を見学していたんだ。」

トラは特段興味なさそうにチーっすっと挨拶をする。栂はトラを一瞥し話し始める。

「今日の試合。このデータ通り、パス成功率、半端ないねキミ。ただ後半、動きがガクッと落ちてパスミスが増えてるんだよな。当分の課題はスタミナだな」

トラはめんどくさそうに、

「わかってるって。うっセーな」

栂は唖然と、飯田は苦笑いする。健太は大きく息を吐き出す。

「ケンタさん、コイツ、コレがノーマルなの?」

健太はグラスを一気に呷りながら、

「まあ、そう。」

トラを上から下まで眺め、鼻で笑いながら栂は

「そっか。こりゃ日本じゃ厳しいな、オマエ」

「は? 意味不」

「技術はある。ウチの奴らにも全く引けをとってない。ガタイもいい。特に体幹がしっかりしてる。だけど、お前のその態度。年長者にそんな態度とる奴、この国では誰も相手しないよ」

トラはハーと息を吐き捨て、

「ウザ…」

「仕方ねーけど、それが日本って国なんだよ。礼儀、礼節。監督、コーチ、仲間に敬意を払えない奴はこの国ではスポーツやる資格がない」

「ハイハイ、そーですね。ウザ」

「ま、全てオマエ次第。割り切ってテキトーに敬語使って頭下げて、やり過ごすって手もあるぞ、俺みたいに」

栂がニヤリと笑いながら言うと、トラは首を傾げる。

「俺もな、先輩とか目上とか、大っ嫌いなの。敬語とか消えてなくなりゃいいと思ってんの。試合中に『パスをください』なんて言ってる暇ねーだろが。だろトラ?」

「…まあ、そーかな。」

「ピッチの中はいいの。先輩だろうがレジェンドだろうが、怒鳴りつけてもいいの。だけどな。ピッチから出たら、そこは日本国なの。日本の伝統に従わないと、生きていけないの。誰にも相手されなくなるの。相手をリスペクトして生きてく国なの。リスペクトってわかるよな、敬意を払うってこと。それってズバリ、相手に敬語を使って相手をリスペクトするってことなの。」

トラはカウンターに肘をついて顎を乗せ、大きな溜息を吐く。

「だから、それが嫌なら海外出るしかないの。あっち行ったら、敬語なんてないし。二〜三こ上でもタメ扱いだし。」

「ふーん。」

「ただ。生活は過酷よ。日本みたいに平和な国なんて無いからな。スリ、ひったくり、置き引きは当然。物を盗まれる方が悪い。もっと言えば、殺される方が悪い、までもある」

「はは、ははは… あのさ、アンタ海外で?」

「ああ。高校の時、エラソーな先輩ぶっ飛ばして、全く反省しなかったらチームクビになって。そんでスペイン行ったんだ。このケンタさんのアドバイスに従ってさ。ね、ケンタさん」

健太は懐かしそうな顔でゆっくりと頷く。

「まあ、コイツは今のお前より酷かったかもな。試合中に味方にキレる。審判にキレる。コーチ、監督にキレる。手のつけようの無い、『天才』だったよな、マサは。」

トラはゴクリと唾を飲み込み、栂の横顔をジッと見つめる。

「そ。あの頃、周りが下手でやってられなかったの。そんでスペイン行って、すぐに気づいたの。『井の中の蛙』って言葉に。日本ではボール取られたことなんて中学以来一度もなかったのに、あっちでは簡単に取られちゃうの。ペナ内のシュートも外したことなかったのに、あっちではあり得ない角度から足がブロックしてきて、シュート打てないの。ドリブルしてもすぐに掻っ攫われる。トラップした瞬間に体ぶつけられてボール取られるの。二年で心バキバキに折れて帰ってきたの」


トラがこんなに真剣に人の話を聞いているのを初めてみた。コイツ息をするのを忘れているのでは、と思わせるほどだ。

「でね。帰国して考えたの。この先オレ、どうしたいかって。サッカーはやめられない。それは絶対無理。だからこの国でサッカーを続けるしかない。ではその為にはどうしたらいいか。ね、ケンタさんに聞きに行ったんだよね」

「あはは、懐かしいー。スペイン行く前は王様気取りだった奴が落武者みたいになってな」

「…落武者って… で。そん時に言われたのがーオマエ、この国でサッカーしたいなら、とにかく他人を敬え。嘘でもなんでもいいから、見かけ上相手を敬え。そうすればその内慣れるってね。今思うと、とんでもないアドバイスだなこりゃ」

健太と飯田は声を立てて笑う。トラはかつてない程真剣な顔で話の先を促す。

「でもね。ケンタさんの言う通りだったの。何とかチームに戻ってとにかく慣れない敬語使って、先輩やコーチを敬ったの。そしたらさ、相手の態度がガラッと変わったの」

「どんな風に?」

「先輩やコーチがさ、オレを敬ってくれたの。オレをチームの絶対的な中心選手として、敬ってくれるようになったの。」

「そうなん、ですか…」

「そう。スペイン行く前は小言ばっか言ってた奴らが、怪我の心配とか体調の心配してくれたり。あと筋トレのアドバイスしてくれたり。飯奢ってくれたり。もう全然扱い変わって。でさ、ある日聞いたの。なんで態度変わったんすかって。そしたら、「オマエが変わったから。俺たちも変わった」って。ああ、コレかーケンタさんの言ってた事って。オレが周囲に敬意を持てば必ずみんなはオレを敬ってくれるー」

「「「「「「「なーるーほーどー」」」」」」」

気がつくと、全生徒とマネージャーが栂の話に聞き入っていたものだ。


     *     *     *     *     *     *


「須坂、オレさ…」

「何よ、トラくん?」

「スナック あゆみ」での時間が遅くなり、トラがあかねを家まで送ることになった、その電車の中で。

「あの人のとこで、サッカーしてみてえかも」

「それって、フロンティアのユースに入るって事?」

「ああ。プロになれるか分かんねーけど、あの人の元でどこまでやれるか試してみてー」

あかねはトラの手を取り、

「いいじゃない。素晴らしいことよ。礼節を弁え己を律し、プロフェッショナルを目指す。ああ、なんて素敵なこと… 今となっては、あなたが本当に羨ましいわ」

「へ? なんで?」

「だって。この年で将来なりたいものを目指せるなんて。」

「須坂は、目指してるモンねーの?」

「んーー、漠然としてなら、あるわ。でも、あなたみたいに明確な目標となると、ちょっとね」

「そっか。何だよそのバクゼンとした目標っつーのは?」

「私、将来、弁護士か司法書士になりたいの」

「ほーん。弁護士は知ってっけど、司法書士って何?」

「行政手続きに必要な書類の作成やアドバイスをする資格を持つ人の事。」

「ほーん。それってなるの大変なの?」

「そうね。国家資格を取らねばならないわ」

「オマエならやれそーだな。だけどー」

「何よ?」

「そーゆーのって、将来さ、全部A Iがやっちまわねーか?」

「んぐっ… そ、それは…」

「いや知らねーよ、だけどさ、そーゆー仕事って、オレらが大人になった時もまだあんのかなーって思ってよ」

「トラくん… あなた…」

「んだよ?」

「今の話、父にしてみない? 今から!」

「うわー、ゴメンなさいごめんなさい」

「何故そこで謝る…」

「オマエのとーちゃん、苦手だわー」

「あら失敬な。私の大好きな父が苦手なんて。」

「いや、フツー苦手だろ」

「知らないわ。私男性とお付き合いするの初めてだし…」

それから駅に着くまで二人は真っ赤な顔で無言だったものだ。


「本当に、ちょっと寄っていかない? 父も母も、あなたと話したがっているの」

「す、すまぬ… また、今度… 心の準備が…」

「変なの。私はあなたのお母様と何度もお会いして一緒に調理したりしていると言うのに… 仕方ないのね、ではまた機会を改めて」

永遠にその機会がないといいなあ、なんて思いながらトラはあかねのマンションを後にする。それにしても今日の試合は楽しかった、人生の中でもダントツのベストゲームだった!

ケンタの策が面白い程当たった。前半は相手にボールを持たせろ。無理に攻めなくて良い。失点だけは全員で防げ。後半は相手が焦り始める。そこを突け。チームの意思を統一させろ。攻めるときはオマエが合図しろ。

今日程、敵味方の表情が良く見えた試合は経験がない。相手の焦る表情が手にとるようにわかったし、味方が前のめりになりそうなのを抑え、試合終盤に逃げ切りたい一心での無意味なクリアを嗜め、落ち着かせ。

そう。あの時オレはピッチ上の王様だった。

相手はオレを恐れ、味方はオレを敬う。

最高の気分だった。ケンカで相手を負かすよりも何百倍も快感だった。


あかねに話したことは本当だった、オレはもっとこの気分を上のレベルで味わいたい。敵も味方もオレの掌の上で踊る姿を満喫したい。

その為には?

もっと上手くなりたい。もっと強くなりたい。

ユース監督の栂が最後にトラにだけボソッと言った一言が脳裏に蘇る。

「ケンタさんの言うことを信じろ。あの人の言う通りにやれ。そして、来年、ウチに来い。」

今トラの心は未だかつて無い程燃え上がっている。去年後輩を虐めた相手を殴りに行ったときよりも、四〜五人相手の喧嘩の時よりも遥かに熱くなっている。

まさか、ケンカ以外でこんなに心が熱くなるなんて…

サッカーって、スゲーな。

帰りの電車の中で、明日の試合について健太とのメッセージ交換に熱くなるトラなのであった。


     *     *     *     *     *     *


ハッキリ言って、昨日の試合は緊張し過ぎていて、何が何だかわからないまま、試合終了のホイッスルを聞いていた。試合結果ももえに聞いて初めて知った程だった。

サッカーに関して全く素人の一美は、メンバーが二人も少ない蒲田南中が勝つなんて到底思えなかった。だが蓋を開けてみれば、あの川崎フロンティアのイケメンGM曰く、

「圧勝でしたね」

だったそうなのだ。

今日こそは、しっかりと試合を見届けよう。そう心に誓って一美は家を出る。今日のグランドは千代田区立番町中が用意した小石川運動場という所である。

何でもJ R飯田橋駅からすぐで人工芝の敷かれた素晴らしいグランドらしい。永野さんも

「へえ懐かしい。高校生の頃よくあそこで試合したんだよ」

と言っていた。

そう言えば今日は生徒の親は誰か応援に来るのだろうか。昨日は残念ながら松本寅の母親と小谷祐輝の母親、それに二年生の岡谷の両親、茅野の両親しか来なかった。みな保護者会に来ていた親達だけなのだ。

松本の母親の亜弓さんが、おにぎりを学校まで持ってきてくれた。実際に持ってきたのは寅だったのだが。

明日も絶対応援に行く、と言っていたがどうであろうか。飯田橋は蒲田からは乗り換え一回で来られるのだが。


それにしても昨日の試合で怪我人が出なくて本当に良かった。そして今日の試合でも怪我が出ないことを一美は祈っていた。

J R飯田橋駅に集合時間の一時間前に着いてしまった一美は、チームの勝利、そして怪我人が出ないことを神仏に頼ろうと思い、駅からすぐの有名な神社に繰り出すことにする。

後日分かったことなのだが。この神社は恋愛成就で都内屈指のご利益があり、それを一美は数ヶ月後に身をもって体験するのである。

やけに人が、しかも女子が多いこの神社で一心に祈りを捧げ、一人小石川運動場へ向かう。大きな道路を跨ぐ歩道橋を登り下りし、グランドには集合時間の十五分前に到着する。

するとー

「せんせ。お疲れ様― 今日もよろしくねー」

と松本亜弓が風呂敷袋を抱えながら近寄ってくる。

「松本さん、今日もありがとうございます」

「いーって、いーって。それより、ほらあれ」

このグランドにはちょっとした観客席があり、そこを見上げるとー

昨日来た父母の倍の人数が!

「あれ… みなさん…」

「そーなの。今日はね、なんとみーんな観に来てんですよお!」

一美は観客席を見上げて立ち尽くしている。これはまるで、あの頃のようだ… 前任の中学のバレー部を率いて都大会へ進んだ頃の、あの風景だ…

この風景を、まさかこの中学で味わえるなんて…

「こんなん、初めてだってさ、みんなの親が子供の試合観にくるなんて。これもせんせが頑張ったからじゃね? あんがとね、せんせ」

と言って亜弓はウインクし、モデルのような後ろ姿で観客席に戻って行く。


それから一美は試合が始まり終了のホイッスルを聞くまで、殆ど親達の様子を眺めていた。皆初めは大人しく、借り物の猫のように試合を眺めていたのだがー

前半、後で聞いたのだが、コーナーキックというのから頭を使って南中が得点すると、親達は一気にテンションが上がった。

前半終了まで、相手に攻められっぱなしだったようで、親達は、特に父親達は叱咤激励の言葉を大声で発していた。

後半に入っても相手の攻勢は続き、中には手を合わせている母親も散見された。後半の中頃だったろうか、親達が全員急に立ち上がったーそして、両手を上に上げ、叫ぶ

「「「「「「行けーーー」」」」」

グランドを振り返ると、二年生の茅野が一人相手ゴールを目指してドリブルをしている。一美も一気にテンションが上がり、

「行っけーーー」

そして、相手ゴールキーパーを難なくかわしてゴールを決めると、

「やったあーーーーー」

と大声で咆哮した。

保護者達は互いに抱き合い、踊り合っている。グランド上のベンチ付近でも、マネージャー三人が一美に飛びかかってきて、

「勝てる! 今日も、勝てる!」

「絶対、勝つよ! 絶対」

「行ける、行けるよね、かずみん」

と大興奮だ。


だがベンチ脇にヒッソリと立っている永野さんは、その対極だ。顔色ひとつ変えず、冷静にD Fの沢渡に指示を出している。

どうしてそんなに冷静でいられるの?

一美には信じられなかった。一美は常に全力で指導し全力で応援してきた。試合中も声を絶やさず、全身から声を出し選手を鼓舞してきた。それが指導者としての当然の姿と思ってきた。

だが、彼は全く違う。

常に冷静にピッチを見回し、ボールを目で追わずにピッチ全体を見ている。時折マネージャーの伊那さんが付けているノートを眺め、何事か指示を出す。

ハーフタイムにも大声で選手を盛り上げたりせず、むしろ冷静な指示を細かく出している。

これがプロフェッショナルなのか!

これがプロの指導者による指導なのか?

一美は頭を大木槌で殴られたようなショックを受ける。今までの自分の指導は間違っていたのか? 例え都大会に出場できたとしても、その後高校バレーで活躍した生徒は皆無だった。健太を見て一美は思い知る。熱いハートや折れない気持ちを教えるよりも、確かな技術と戦術を教えるのが本物の指導者なのであると。

そう考えた瞬間、観客席とベンチが一瞬の沈黙の後、

「ああああああーー」

と言う失意に覆われた。グランドを見ると、どうやら相手のゴールが決まったらしい。咄嗟に、

「あと、何分?」

「三分、とアディショナルタイム」

りんりんが震える声で呟く。

あと三分も? それにアディショナルタイム?

永野さん! 一美は思わず叫ぶ。


健太はゆっくりと一美を振り返り。不思議なことに笑顔を、本当に笑顔を一美に送ったのだ。

健太は一美のところに歩いて行き、

「大丈夫。観ていなさい。必ずこのまま勝つから。」

この人が言うのなら、間違いない。マネージャー達もその一言を聞いて顔色が変わり、

「大丈夫! あと少し!」

「守って、守り抜いて!」

健太は、イヤイヤと言って、

「違うんだ。ここからあと一点、ウチが取る。」

もえとりんりんはハア? 何で? 守り切れば勝ちじゃん、と捲し立てる。

「そう。普通はこのまま守り切りたい。人数も少ないし、守り切ろうと誰もが思う。敵ならならおさ、ね。だから、そこに隙が生まれるーほらみてごらん。相手は全員こっちの陣地に入ってるよね、ゴールキーパーさえ…」

「「「あ…」」」

「そ。ここでまずボールをこっちが確保する、そう、いいぞユーキ。そしてすぐに!」

G Kの小谷は健太の意思通りに、相手のシュートをキャッチするや否やパントキックで前線に一人残っていた茅野に低弾道でパスを送る。茅野はそのパスを難なくコントロールし、完全に独走体勢に入る!

「相手には守る気持ちが無くなっていたね。そこを冷静に見極めれば… うん。これで3―1。残りはアディショナル二分だっけ?」

もえとりんりんの二人は大絶叫中だ。バレーボールのアタッカーより高く飛んでいるのでは無いか。キョンは一人、

「なる… 程… これは…」

と唸っている。

一美は観客席を振り返る。親達はもはや一塊になり、抱き合い飛び跳ねている。いいな。ほんと、いいなこの光景。

私がこの学校で求めていたもの、望んでいたもの。

どんなに所得に格差があろうと、どんなに生まれ育った環境が違くても、子供の活躍を喜ぶ親の姿に違いは無い。

確か、リストラにあって今無職のM F大町の父親はそんな親達の中でも一番高く飛び跳ねている。病み上がりだと言う沢渡の母親はいつ寝込んでいたの、と言うほどピョンピョン跳ねている。


やがて試合終了のホイッスルが後ろから聞こえてくる。

ああ、今日も試合をしっかりと見ることが出来なかった。これじゃ顧問失格だな。そう思いながら相手のチームの顧問の先生に挨拶をしベンチに帰ってくる。三人のマネージャーが一美に飛びついてくる。それに倣い二年生の岡谷、茅野、木崎らが一美に抱きついてくる。

オメーら、セクハラだろそれ!

キョンがキレる。

いいの、伊那さん。この瞬間だけは、これはそうではないの。

そう心で語りかけながら、一美は彼らの抱擁に応えるのであった。


     *     *     *     *     *     *


「っベー、脛当て置いてきたかも」

トラが思い出したように叫ぶ。

「お前ら先帰ってて。オレちょっと取ってくるわー」

「私も行くわ」

「おお、サンキュ」

するともえが、

「トラくん、ちょっとキョンの様子見てきてくんね? オッちゃんに話あるからってまだグランドに居るはずなんだ…」

「ほーん。わかった」

トラとあかねは飯田橋駅に入っていく皆と別れ、運動場に引き返す。

「キョンちゃんどうしたのかしら。そう言えば今日は様子が変だったわ。何か思い詰めたような表情だったの、試合前から試合終わった後も…」

トラはそうだったかな、と思い返すが全く思い当たらない。キョンは女にしては非常にサッカーに詳しく、下手をするとヨーロッパサッカーやJリーグに関してはチーム一の知識を持っているかも知れない。

戦術にも詳しく、先週キョンとゲーゲンプレスについて語り合ったが、トラは途中から話についていけなくなるほどであった。

運動場の入り口からロッカールームに入り、トラは脛当てを見つける。

「全く。そんな事ではプロフェッショナルには程遠いわ。仕事道具を忘れるなんて。これは寿司職人が包丁を忘れるようなものなのよ」

トラは素直に反省する。あかねの言う通りだ。二度とグランドに忘れ物をしない。サッカー用具をもっと大事に扱う。そう決心して運動場を出ようとした時。

「このままじゃ、来週の試合、勝てっこないよ!」

キョンの悲痛な叫び声が廊下に響いた。


トラとあかねは慌てて物陰に隠れ、キョンと健太をそっと伺う。

「今日ウチが勝った番町中、慶王に何点差で負けたと思います?」

「昨日の試合か。確か0−7だったか?」

「0―8です。その相手に、ウチは3−1。やっと勝てた、んだよ」

「そうだな。」

「ねえ永野サン、これじゃ来週、ウチら絶対勝てないよ」

「でも来週、新一年が二人入るから、少なくとも十一人―」

「そんな問題じゃなくって。今のままじゃ、今の戦術とアイツらの意識じゃ、絶対勝てないよ。それは永野サンもわかってんでしょ?」

健太は嬉しそうに、

「ああ勿論。しかし、よく…」

「こんな相手にやっと勝って、それに満足して… 勝てないよ、このままじゃ…」

「キョンちゃん、」

「アタシ、勝ちたいよ」

キョンの両目に涙が溢れ出す。

「このメンバーで、慶王、に勝ちたいよ」


トラは両手をキツく握り締める。その手をあかねはそっと包み込む。

「そんでさあ、ひっく」

しゃくり上げながらキョンは

「もっと上の大会、出たいよ、みんなで… このメンバーで…」

絞り出すように健太に訴えかける。

健太は深く頷きながら、キョンの両肩に手を乗せる。

「オレも同じだよキョンちゃん。来週、慶王に勝ちたい。いや、絶対、勝つ。」

キョンは少し頬を赧め、健太を見上げ、

「それ、それって、どーすれば…」

「いいかい。今から言うことを忘れるな。まず明日。生徒達だけでミーティングを開くんだ」

キョンは慌ててバッグから手帳を取り出し、メモを取り始める。

「そして、……」

声を潜め真剣に健太はキョンに指示を与える。

トラはあかねの手を握り、その場をそっと離れる。


「あの子… どうしてあんなに真剣なのかしら…」

あかねは首を傾げながらトラに問う。

「それな。ちょっと引くわー」

目が細くなり

「ハア? あなた何てことを… 信じられない…」

「うそうそうそ… いや、でもちょっと重たいと言うか…」

「どうしてそんな風に考えるかなあ」

トラはちょっと膨れっ面になりながら、

「だってそーだろ。アイツにとっては自分が出てる試合じゃねーし。何でオレらの試合にあんな真剣になれるのかって。オメーもそー言ってろーが」

「それはそうだけれど。でもね、彼女みたいに他人の事であれ程真剣になれるってすごいことだとは思えない? 」

トラは後頭部をボリボリ掻きながら、

「まあ、そーだな。」

「逆に。あなたなら出来るかしらあそこまで真剣に?」

俯き大きく息を吐き出しながら、

「んーーー、ムリかも」

「でしょう。だからあの子は凄いのよ。わかった?」

「? 良く分かんねーけど。ただ同じなのは。来週、ぜってー勝ちてえってコト」

あかねはトラの手をしっかりと握り、

「それね。だから明日のミーティングはあなたしっかりなさいよ。いつもみたいにスマホいじって他人任せじゃ絶対ダメ。いい?」

「……なあ」

「何?」

「オレって、既にオメーに尻にひかれてね?」

あかねは大きく胸を張り、

「だとしたら、それが何?」

「いえ…何でもねーっす」

意外に心地よいトラなのである。


     *     *     *     *     *     *


キャプテンの小谷からの申し出で、四時から会議室をサッカー部の為に取った一美は職員室で仕事をしていた。三年生が三人、サッカー部に急遽入部することになったので、その手続きと登録関係のものである。

一組の佐久と阿南は一美もよく知っている。二組の金は在日の生徒で体育の授業を通じて顔は知っている。

次の試合には登録できないが、もし慶王中に勝利し、第一支部の二次予選に進めば彼らは試合に出場できるのだ。

トラから送られてきた彼らのサッカー履歴に目を通す。三人とも街クラブに所属している。そのクラブがどれほど強いのか知らないが、きっと戦力となってくれるのだろう。

その三人も今日のミーティングに参加すると言う。時計を見ると十分前である。一美は席を立ち、会議室に向かった。


「たりー。何で部活ない日に集んなきゃいけねーんだよ」

「とっとと終わらせよーな、とっとと。」

沢渡と青木が不満げに煽る。キャプテンの小谷も

「ま、コーチからの申し送りの確認、だから。すぐ終わるっしょ」

「それより、お前らマジでこっちでやんの? こっち登録したら、クラブの方出れねーんだろ?」

新たに蒲田南中サッカー部として登録した三人は、

「まあ、トラに頼まれたら断れねーよ」

「それな。トラが頼み事なんて初めてじゃね?」

「てか。オレはあっちでは干されてるし」

佐久が不貞腐れながら続ける。

「もー、指導者が全然ダメ。未だに昭和な練習させて、最後には『気合だ、気合で勝て!』ってよ。もーすぐ平成終わりだっつーの」

一美は己のことを言われている気がして、顔を赤くする。

「ま、トラとやってみたかったっつーのはアリかな。」

「それ。真剣にサッカーやってるトラ、見てみたいわ。喧嘩のトラは何度も見たけど」

主に三年生が吹き出す。二年生は黙り込み、一年生は俯く。

「よーし。時間になったから、ミーティング始めまーす。」


「ってことでー。集合時間には遅れんなよー。あと洒落乙なトコだから、あんまイキらないこと。特にトラ。わかったかー」

特に誰も返事せず、そろそろ閉会の流れとなってきた時。

「ちょっと! あんたら!」

キョンが机をバンと叩いて立ち上がる。

「このままじゃ、負けるよ。絶対。」

トラを除く全員が茫然とキョンを見上げる。一美も何事かと身構える。

「いいのかよ、こんなトコで負けちゃって」

二年生の茅野が溜息をつきながら、

「勝てっこねーじゃん。こっちは十一人ピッタリで。しかも一年坊二人いて。」

同じく二年生の木崎も、

「相手はあの慶王だぞ。勝てっこねーって。ねえトラくん?」

トラはジロリと木崎を睨む。木崎は少し顔が引き攣る。キョンは主に二年生を睨みつけながら、

「試合前からそんな気持ちでさあ、勝てる訳ないじゃん。何で? どーして慶王に負け前提なの? ウチら慶王に絶対勝てないの?」

キョンに気がある茅野が、

「まあまあ、キョン、落ち着け。そりゃ誰だって勝ちてえし、上の大会行きてえよ。でも、相手が慶王となるとさ…」

「慶王だと、何なのよ?」

二年の木崎が

「ま、何つーか、アイツら上級国民じゃん、オレら下級が勝てる訳ねーって。」

普段は大人しい大町さえも

「かけてる金が違うし。コーチ五人? 専用グランド? 揃いの練習着に遠征用のジャージ? そんな奴らに敵うわけねーって。オレら如きが…」

大町は言葉途中で下を向く。

他の皆も言葉を失い、会議室はしんとなる。


「そんなん… 仕方ないじゃん。ウチらが貧乏なんてウチらのせいじゃないし」

唸るようにキョンが吐き出す。

「それを言い訳にしていーのかなあ。貧乏を言い訳にしてさあ、勝負諦めていいのかなあ」

俯く部員を睨めつけながらキョンは続ける。

「ウチさ、中学受験しよーとしてたんだわ」

「「「えええ?」」」

部員達が目を丸くする。もえとりんりんは軽く頷く。

「小六の秋にさ、親の工場が倒産して。そんで受験辞めちゃったんだけださ」

「「「………」」」

「慶王、第一志望だったんだよね…」

「「「……」」」

「それまで行っていた塾をやめるときに…仲良しだった子達が急に冷たくなって。『親が倒産したら慶王なんて絶対ムリだよねー』なんて言われて。」

「「「……」」」

「その子ら、慶王受かって、今いるんだよね… そう。あかね姐の後輩。」

「「「……」」」

「ウチ、負けたくない。アイツらに、人生だけでなく、サッカーまでも負けたくない! 上級国民? 上等じゃない。ウチら下級国民が下克上出来んのって、サッカーしかなくね?」

何人かの部員が溜息をつく。

「いやさ… キョンのその気持ちはわからなくねーけど…」

「実際試合すんの、オレらだし…」

「ちょっと、重めーって… そーゆーの…」

「そーそー。ムリムリ。勝てっこねーって」

キョンは大粒の涙を溢しながら、

「んだよオメーら… 男のくせに… もう負け犬根性染みついてんのかよ… わかったよ。もーいーよ。アンタらに期待したウチが間違ってたわ。ハイ、じゃあサヨナラ。せいぜい頑張ってアイツらに尻尾振ってろな!」

と言い残して会議室を駆け出て行った。

もえとりんりんも慌てて席を立ち、

「アンタらガッカリ、だわ」

「ダサ。」

と吐き捨ててキョンの後を追った。

トラ以外の部員全員が、下を向いたまま顔を上げることが出来なかった。


「ま、キョンの個人的な事情は置いといてよ、」

トラが低い声で呟く。

「オマエら。マジで諦めちゃってんの? おい二年。茅野。大町。岡谷。飯森。ザキ。どーなんだよ」

彼らは肩をビクッと震わせ、

「でもさトラくん… オレらなんかが勝てるわけ…」

「オレスパイク一足しか持ってないんすよ… それをアイツらは何足も…」

「ジムで筋トレしてる奴らに…」

「プロテイン? 買えないって…」

トラはフッと嘲るように笑う。

「一年。小谷、平谷。オマエらはどーよ?」

二人の一年生はハア? と言う顔をしながら、

「いやー、メッチャ楽しみだよお」

「それなー。てか、トラくんがいて、坊ちゃん校に負ける気しないわー」

三年の小谷兄、青木、沢渡が声を立てて笑う。

「おい二年。一年坊はこんな感じだぞ。どうよ?」

「それは… まだ現実知らねーから」

「貧乏人が、金持ちに勝てっこねーって…」

「…ムリっしょ…」

すると、首を傾げながら、

「ケイオーって、J崩れとかいるの?」

まだあどけない顔の平谷が尋ねる。

「それは… いない、けど…」

「動画見たけどさ。何とかやれそーな感じだけど。ねえトラくん」

トラは平谷に温かい笑みで頷く。

「楽しみじゃん。ウチら下層国民がボコったらー」

小谷弟が嬉しそうに言うと二年生達は、

「下層って… 下級以下かよオレら」

ようやく笑みが溢れる。

「キョンが言いたかったことってよ、そーゆーことじゃね? 試合する前から、貧乏だからとか下級国民だからとか理由付けて。負ける言い訳? やる前から諦めてるオマエらの貧乏根性が気に食わなかったんだろうよ」

二年生がシュンとなる。

「オレら三年は自信あるわ。てか、貧乏開き直りな。一年坊は身の程知らずだわ。結構結構。でオマエら二年。オマエら次第なんだわ、今度の試合は。」

トラはゆっくりと立ち上がる。

「なあオマエら。今度の試合負けても六月の全中があるから最後の試合じゃねーよ。でもよ、オレは勝ちてえ。目の前の試合は全部勝ちてえ。相手が慶王なら、尚更。ぜってー勝ちてえ」

二年生がゴクリと喉を鳴らす。

「なあオマエら。力貸してくんねーか? 一緒に上級国民、ブッつぶしてやらねえか?」

二年生の硬い顔が徐々に柔らかくなっていく。

「やり、ますか」

「やる、か」

「まあ、ちゃんす? だわな」

「オレは… トラくんが言うなら。やる」

トラはニヤリと笑い、

「よーし。じゃあまずは。キョン達連れ戻してこいー」

「「「「「ういーっす」」」」」

五人の二年生は、先程までとは別人の様にシャキッと立ち上がる。


ここまで一美は一切口を出さなかった。キョン達が出て行きそうな時には、よっぽど止めようと思いもしたが、我慢して堪えた。

そして一美は我慢して本当に良かった、と思った。彼らは自分達で問題提起し、解決しようとしているのだ。その姿は先月までの彼らからは想像も出来ない進歩である。

目を細めながらキョン達を迎えにいく二年生を眺めていると、

「あれ… かずみん、いたんだー」

「寝てたんちゃう?」

「四月だもんなー、眠たくもなるよな、かずみん!」

我慢。忍耐。辛抱。

奥歯を食いしばり、青木らに微笑みかける一美なのである。


     *     *     *     *     *     *


「それで、あの子達五時までずっと作戦会議してたんですよっ 凄い進歩じゃないですか?」

一美は興奮する様に健太に捲し立てる。健太は目に見えない唾飛沫を顔一杯に浴びながら、一美の話を聞いている。

「それにしても伊那さんはサッカーに詳しいですよね、私彼女が何言っているのか殆ど分かりませんでした。元々成績はトップクラスなんですよね。中学受験を親の経済的な都合で諦めて… あの子は本当に偉いです。」

「へえ、キョンはそんなに成績良いんだ。見た目はアレなんだけどね」

「これも全て、『環境』ですよね… でもあの子は周りに流されずにしっかりと自分を持っていて。子供ってわかりませんね」

「先生… 先生でもそんな風に思うんだ?」

「まだまだ未熟です。まだまだ精進しなければ。はい」

健太は一美を眩しそうに眺める。そして心から尊敬してしまう。

夕食を食べようとスーパーに買い出しに出ると一美から連絡があり、今日のミーティングのことを報告したいから蒲田でお茶をしないかと誘われた。

先週待ち合わせたカフェで一美は興奮した様子でミーティングの様子を語り、それを黙って健太は聞いていた。

どうやらキョンは昨日のアドバイス通りに、いやそれ以上に上手くやった様だ。即ちー二年生のやる気を引き出す事に成功した様だ。

一年生が二人加わり、十一人で慶王と闘う上で、健太が最も懸念していたのが、この『モチベーション』であった。トラを中心とした四人の三年生は元々図太い奴らなので、慶王相手でもいつも通りにプレーするであろう。また新一年生の二人は良い意味で周りが見えてないので、純粋に久しぶりのサッカーの試合を楽しむことであろう。

問題は、二年生。ある程度現実が見える奴等だけに、格上の相手、それも経済的に裕福な私立校相手というだけで戦う前から半分諦めムードだったのだ。

ここまでの二試合は実力が伯仲していたので、彼等もワンチャンスを求め必死に戦っていたが、慶王相手だと試合の前から相手に飲まれてしまっていたのだった。

それをキョンは悟り、このままではマズいのでは、と先日健太に訴えたのだった。まさかキョン個人にそんな事情があるとは知らなかったのだが。

今思うと確かにキョンの須坂あかねに対する態度はやや不自然というか無理していた感は否めない。家の事さえなければ、先輩後輩になっていたであろう、自分とあかね…


だが、これで勝利への準備は半分整った。後は週末の試合に向けて実戦的な練習をするのみである。

どうやら慶王は蒲田南中なぞ眼中に無いようで、初戦も二回戦も偵察らしい部隊はいなかった様だ。

試合前の準備。どうやらウチに分がありそうだ。

健太は明日からの練習をイメージしようとー

「永野さん、この後お食事一緒に如何ですか?」

断り難い魅力的な笑みで笑いかける一美に、

「そうだね。何食べようか?」

「羽付き餃子セットは如何ですか?」

この体育会系らしい申し出を断る術を健太は持ち合わせていない…


それにしても、このB級グルメ店に先生は似合わない。健太は苦笑いしながらビールジョッキを傾ける。

周りのテーブルのおっさん、学生達がチラチラこちらをチェックしているのを感じる。見た感じはとてもアラフォーには見えない、知的クール眼鏡美女。髪の毛は少し染めているようだけれど、それがまた良い。

こんな美人は会社には殆どいなかった気がする。亜弓とは全く真逆のタイプの美人だ。

本当に、このひと月オレはどうなっちゃたんだろう。先生や亜弓のような美女がすぐそばにいるなんて…

サッカー一筋、営業一筋で生きてきた健太にとって、人生で初めて舞い上がっている。

サッカーのピッチ上以外では全く周囲が見えなかった健太が、実は学生時代からモテていたことを本人は知らない。会社に健太のファンクラブがあった事も認知していなかった。マジ、クソ野郎であった!

亜弓といる時には家庭感溢れる幸せを、一美といる時は俗世から離れた癒しを感じる。正直どちらかと言えば、亜弓と一緒にいる方が健太は幸せなのである。だが、女子慣れしていない健太には、知的クールメガネ美女は眺めているだけで男としての幸せを感じてしまうのだ。

本物のクソ野郎である。

そしてもっとクソなのが… 健太は一美の気持ちに全く気付いていない! こんな女性が自分のような落ちこぼれを相手する筈がない、と信じ込んでいる点である。よーく考えれば、相手は教師。落ちこぼれ慣れしている上に、熱いハートを持っている。何とかトラ達を勝たせたいと熱く指導する健太は、一美のストライクゾーンど真ん中である事に、一ミリも気付いていないのだ。

体育会系一筋の遊び慣れしていない健太。体育会一筋の生真面目なアラフォー独女の一美。餃子定食を食べ終えビールジョッキ二杯飲み終えると、互いにどうしていいかわからない。

健太はもう少しだけ、一美はずっと朝まで一緒に過ごしたいのだが、互いにどうしていいかわからない。

別々の帰路につきながら、健太は軽く、一美は深―く落ち込んだものだった。


     *     *     *     *     *     *


「それにしても… 有名人御子息のオンパレードだな」

S C東京U18監督の玉城昭次が苦笑いする。

「F Wの新田は女優の息子、M Fの鴨下はロックバンドのボーカル、D Fの横溝の親は衆議院議員ですって」

同コーチの志村和樹がスマホを眺めながら呟く。

「三人ともトレセン入ってたけど、どーかねえ…」

「まあ、一応見とかないと。前半だけでも」

「そーだな。二年生でいいのがいるかも知れねえしな」

四月一四日、土曜日。慶王大学麻布グランド。玉城、志村が周囲を見渡すと、チラチラと知った顔が目に入る。

「あいつらもお目当てはこの三人かな」

「でしょうね。相手校の公立、どこでしたっけ?」

「さあ。知らん。どーでもいい」

「ですよね。でも… 玉城さん… あれ!」

試合前の練習を観ながら志村が声をつまらせる。

「ほお。ふむ。これは中々… 玉城、相手校どこか調べてきてくれ」

「ですね… これは、ちょっと…」

どうやら周囲のスカウト達も気付き始めたようだ。目当ての慶王中ではなく、聞いた事もない大田区の公立校に、光り輝く原石がゴロゴロ転がっていることに。

「玉城さん、蒲田南中ですって」

「蒲田… 聞いた事ねえな」

「ですよn… あれー、玉城さんアイツ…」

「ぶはっ 平谷じゃねーか。アイツ他のクラブ行かねえでー」

「地元の公立入ったんですね… ったくあの天然小僧」

「ちょっと勿体なかったよな。アイツ、センスは抜群だった。」

「でもねえ、遅刻はダメでしょ。しかも毎回…」

「そーだな。街クラブや部活ならともかく、ウチらJユースじゃ、な…」

「ま。どんくらい成長してるのか観てみますか」

「ああ。それよりシム、あの赤い髪のデカイ奴…」

「…へーー。ほう。ほうほう。足元しっかりしてますね」

「試合、早く始まらねえかな…」


「玉城さん…蒲田南、十一人ピッタリですよ」

「ベンチ、誰もいねえな…」

「よくやってますよ。彼等」

「ああ、今のところは、な」

「平谷のヤツ… あんなに楽しそうに。」

「ハハハ。ウチにいた頃より伸び伸び楽しそうにやってんなあ」

「ハアー、遅刻癖治ってないですかねえ」

「もっと酷くなってたりして。それより、あの赤いの…」

「あの赤髪。よく見えてますね。コーチングも的確だ…」

「今まで何でスカウティングに引っかからなかったんだ?」

顔見知りの青年が二人に近づいてくる。

「あれー、知らなかったですか、東京さん」

「おお、ディエゴF Cの田中さん、お久しぶり」

「玉城さん自らいらっしゃるとは、やはり目当ては慶王の?」

「そうだったんだけど…」

「ね。僕らもビックリです。あの松本は、地元では有名だからアレですが…」

「へー。あの赤髪、松本っていうんだ」

「ハイ。それも札付きのワルで有名なんです。「蒲田のトラ」って言ったら地元ではチンピラもビビるくらいに」

「何だそりゃ。昭和かよ」

「いやマジで。先月まで少年院に入ってたとか」

「「え… 消えた。」」

「ですよねー。Jクラブが少年院上がりの子、入れられませんよねえ」

「…でも、あの子。上手い。」

「ね。U12でも地元では目立ってたんですよ。あの頃から足元は上手かったし、周りを良く見れていた」

「どうしておたくに入れなかったの?」

「やはり… 素行が問題でして…」

「そっか。お互い、難しいよな、そこんとこ」

「ですよね。サッカーさえ上手けりゃ、あとは見逃す、なんて出来ません。」

試合は前半が終了した。0−0。

「どうです。慶王の三人は?」

玉城は苦笑いしながら、

「ま、アレ位ならその辺に幾らでも転がってるよ」

「うわ… ズバリ言いますね」

「ホントはこの前半で帰るつもりだったんだ。な、シム」

「ええ。でもね田中さん。後半、どうやって蒲田が慶王喰うか、見てみたくないですか?」

「多分、みんなもそう思ってるんじゃないかな」

そう言って田中はグランドの周りにいるスカウト達を見回す。


「それにしても… 蒲田の方、指導者誰だ?」

「慶王は知ってますけど。誰でしょうね」

「このメンツで慶王相手にここまでやらせるなんて。後でちょっと挨拶行くか?」

「ええそうしましょー ああ!」

グランドから鋭いホイッスルの音が響き渡る。

「かーー P Kかあ、あれ足掛かってねーだろーが」

「ネイマールより上手い演技でしたね… 主審が部活の先生じゃ、見分けつかないかー」

「…あの、赤髪。地元の有名なワルって言ってたよな?」

「…ですよね。でも…」

「ああ。不可解な判定受けたのに、あの態度…」

「本当のワルなら、主審に食って掛かるかぶっ飛ばすとか」

「なあ。なのにちゃんと判定を受け入れて、そして味方を鼓舞して…」

玉城は元々細い目を更に鋭くし、呟く。

「シム。これ慶王、外すぞ」

「えーー、流石にそれは…」

「蒲田のキーパーの顔、見てみろ。」

「…ニヤ笑いしてますね…」

「あの赤髪が声かけてからな。」

「でも、蹴るの新田でしょ、流石にー ああああ!」

「はっは、ほらなー、俺の言った通りだろーがコラ!」

玉城が何度も志村の肩を叩きながら、吠える。

「やば… 玉城さん、落ち着いて…」

「コラアー、蒲田―、切り替え遅えぞおー、周り見ろコラアー」

「ちょ、ちょっと玉城さん、みんな見てるって…」


「永野サン、なんか周りうるさいっすね」

キョンは不審な二人組の方を見ながら口を尖らせる。

「父兄じゃないな。どっかの偵察か、街クラブのスカウトじゃないか?」

「ですかね… どーでもいーけど… それより、今のはユーキくん、ナイスキーでした。」

「ああ。多分トラがあのキッカーの蹴る方向教えたんだと思う」

「ユーキくん。多分永野サンが来てから、一番伸びましたよね。」

「ああ。G Kはカテゴリーが上のシュートを受ければ受けるほど、伸びるからな」

「あは、永野サンのシュート、泣きながら受けてましたもんね」

練習のたび、健太は小谷にJ F L仕込みのシュートを数多く受けさせていた。まあ、怪我しない程度にだが。そしてキョンの言う通り、このメンバーの中では飛躍的に実力を伸ばしてきている。

キャッチングの基礎もしっかりと教えたが、何よりもコーチング、即ち味方への指示の大切さをことあるごとに伝えている。その効果が今日の試合でも満遍なく発揮され、数多くのピンチの芽をコーチングによって摘んでいる。

「それにしても… やはり、疲れが出てきましたか… だいぶ押し込まれてますね…」

「ああ。あと何分だ?」

「10分、です…」

健太は慶王ベンチを見る。想定外の展開にベンチも相当焦っている様子だ。

「キョン。見てごらん。アイツら相当焦っている」

「…ホントですね… あ、また選手交代… これで五人目ですよ。ますますスタミナに差が出てきちゃう…」

「そうかな。これだけ選手を弄ると、チームとしてマイナス面が出てくるもんだよ」

キョンは真剣な眼差しで、

「それって… 連携、とかですか?」

「うん。向こうは連携からの崩しを諦めて、スピード勝負に出たようだな。」

「スピード勝負… マズいっすよ、こっちはもうみんなクタクタですよ!」

「キョン。サッカーでスピードが生きる場面ってどこだい?」

「え… それは… 前方に広大なスペースがある時?」

健太はニッコリと笑顔で、

「その通り。だから相手のスピードを消すには?」

キョンはこんなに魅力的な授業をかつて受けた試しがない! 面白くて仕方ない様子で、

「D Fラインを下げて、相手のスペースを消す!」

健太は小さく拍手しながら、

「正解。トラー、ライン下げ気味。スペース消せ!」

トラが疲労困憊の表情で親指を掲げる。そしてF Wの茅野を一人前線に残し、両ウイングの小谷、平谷の一年生コンビも引き気味のポジションを指示する。

「狙いは… ショートカウンター。ですね」

「ああ。スピードを消された慶王は、あとはゴール前にロングボールを放り込んでくるしか手はない。ポゼッションを放棄して、ボールを放り込んでくる相手に最も有効な対抗策だ。」

「あとは… そのチャンスを決め切れるか… 残り七分です」

引き分けは敗退を意味する。このグループリーグは一位のみ上位リーグに行くのである。引き分けでは勝点は並ぶが、得失点差で慶王の勝ち上がりとなるのだ。

蒲田南が勝ち上がるには、勝利の一択なのである。

今日も大勢の応援がグランドに来ている。同級生らしき生徒も何人か来ている。その誰もが拳を握りしめて千載一遇のチャンスを待ち続けている。


「あの赤髪、いいな…」

「いい、ですね」

「スタミナはないに等しいが。ああいうの、クラブチームにはいないよな…」

「全身でチームを鼓舞してますよね。長谷部と闘莉王を足して二で割った感じですね」

「上手いこと言うな。そんな感じだ。欲しい。」

「欲しい、っすね」

「よし。後で監督のとこに挨拶行くぞ」

「はい。今日は思わぬ収穫がありましたね」

「あと二分位か?」

「ですかね。おおおー」

蒲田側の応援席から大歓声が上がる!

「行けえ! ブチ抜けえーーー!」


ゴール前に放り込まれたロングボールを相手F Wに競り勝った小谷が何とかキャッチする。その瞬間。

「押し上げろ! 行くぞ!」

トラが大声で叫ぶ。

全員がそれを待っていたかの如く、前方に走り出す。

小谷がトラにボールを渡す。トラがドリブルで持ち上がる。

チェックに来た相手を二枚剥がしてから、最前線の茅野とアイコンタクトを交わす。トラは敢えて視線を茅野から外し、右サイドを駆け上がる平谷にパスを出そうとすると相手がそのパスコースに入ってくる。

茅野との間に一筋の光の線が見えた気がする、その線に沿って、トラはバックスピンをかけ正確に蹴り出す。

意表を突かれた慶王守備陣は全く対応出来ず、茅野は独走体勢となる。

応援の父兄から悲鳴の様な声援が湧き上がる。不思議な事に茅野はその声援を全く認知していない。トラからのパスを前方に逸らし相手ゴールに走り出すと、音が消えたのだった。

実は茅野が今履いているスパイクは健太から貰ったものだった。それまで履いていたのものは穴が空き、試合では履けないので新たに購入する様に健太に言われたのだが、茅野家にその余裕が無かった。

ある日の練習後、その事を健太に伝えに行くと、

「そっか… すまなかった。恥かかせたな…」

そして練習後、二人で川崎にある格安スポーツ店に行き、茅野の足に合うスパイクを健太が購入した。

「大人になったら、酒奢ってくれよ。それでチャラな」

茅野は返す言葉を知らなかった。まさかコーチがスパイクを買い与えてくれるなんて… マンガやアニメの世界ではアルアルだが、このしょぼくれた現実社会でこんなことが実際に起こるとは…

何も言えず、お礼も言えず。ただ口をパクパクさせている茅野に、

「俺への感謝なんていい。それより、みんなの為、チームの為に走ってくれ。それとー」

「それと?」

「キョンの為。わかったか?」

キョンに気がある茅野は真っ赤な顔で、だが嬉しそうに満面の笑顔で大きく頷いた。


「お願い… 決めて…」

キョンが呟く。

一美は思わず顔を手で覆ってしまう。

もえとりんりんは大声で叫ぶ。

健太は彼女達を眺めながら、思わず笑みが溢れる。思いが強いほど、叫べなくなる、見られなくなる。応援の父兄達もそうだ。母親達は皆顔を覆っている。そんなもんだ。

あ。一人だけ、違う女性がいる。まるで

スーパーモデルのように格好良く腰に手を当てて、茅野のドリブルをキッと睨み付け仁王立ちしている。その美しい佇まいに目を細めていると!

父兄達が、爆発、する。

夫、妻、構いなく抱き合って、飛び跳ねる!

体に衝撃を感じる。もえとりんりんがタックルしてきた様だ。

キョンは一人、ガッツポーズを深く決め、そして徐に

「残り少し! 集中しろ!」

と檄を飛ばす。

一美は覆っていた手を上に掲げ、バレーボールのアタッカーさながら飛び跳ねている。

そんな様子を微笑みながら眺めていると、

「コーチ!」

と大声で叫びながら目に涙を浮かべた茅野が健太に抱きついてくる。相手ゴールからベンチまでわざわざ駆けつけたのだ。


「ハハハ。あの監督、慕われてますねえ」

志村が半分冗談、半分本気で玉城に言うと、

「それは俺への嫌味か? まあ確かにあんなシーン、一度も経験ねえけど…」

「こういうのって、いいなあ。指導者冥利ですよね…」

「ちょっと羨ましい…」

「ちょ、ちょっと玉城さん… なに、マジで羨ましいの? だ、大丈夫、玉城さん十分選手から慕われてるから。多分。」

「そ、そうか?」

「うん。きっと」

「きっと?」

「ちょっと、面倒臭い… あ、慶王これ、決めるかも!」

「おおお!」

グランドに絶叫が鳴り響くー


初めてコーチのシュートを受けた時の衝撃は忘れられない。

それまでもトラのシュートとか受けていたから、キャッチングにはそこそこ自信があったのだが、あの日オレは一球もマトモに掴めなかった… 大人の、プロ(じゃないけど)のシュートの威力は信じられなかった。

あの日以来、練習後にコーチにシュートを蹴ってもらってきた。スピードにも威力にもだいぶ慣れてきた。

正直、中学生のシュートなんて怖くなくなった。たとえ慶王でさえも。

ラストワンプレー。相手の10番がミドルから打ってくる。

ああ、これは三月までだったら決められてたわ。

でも。今はこのシュート、止まって見えるわ。

あれ。景色、止まってる?

ボールの回転も見えるわ。

右手を伸ばす。必ず届く。

ボールがゆっくり近づく。それに右手を伸ばしていく。

ボールと右の拳がぶつかる。ボールが弾かれてゴールバーに当たり、外に跳ねていく。

ほらな。止めてやったぜ。コーチのシュートに比べたら。大したことないし。

立ち上がってベンチを見ると、コーチがガッツポーズをくれる。

鳥肌がたった。メッチャ、嬉しい。

相手コーナーキックがゴールのサイドネットに突き刺さり、ゴールキックとなる。

レフリーがホイッスルを大きく鳴らす。

勝った。

俺たち、慶王に、勝ったあああ!


グランドでは勝者がグランドにへたり込み、敗者は不貞腐れたように突っ立っている。

父兄の半分は涙をハンカチや裾で拭っている。

キョンは呆然とした表情で立ち尽くし、もえとりんりんは一美にしがみついて泣きじゃくっている。

健太はゆっくりと相手ベンチに歩いて行く。慶王の監督がそれに気が付き、立ち上がって健太と握手を交わす。

「やられました。あの、永野先生は経験者で?」

「教師ではありません。外部指導です。昔、J F Lの玉川電機でやっていました。」

「えええ! あの玉電の永野! さんでしたか! 日本代表候補の!」

健太は気恥ずかしそうに肯く。

「あのボランチの子。良いですね。あとG K。それとF Wの小さい子。よくここまで指導されました。流石です」

照れで顔を真っ赤にしてベンチに戻ろうとした時。

「そっか、玉電の永野、さんでしたか!」

振り返ると、どこかで見たことのある二人組の男が健太に近づいてくる。

「我々、S C東京のユースチームの玉城と申します。こちらはコーチの志村、です。」

「…お二人とも、元S C東京の… お疲れ様です…」

健太が現役で蹴っていた頃には、バリバリのJリーガーとして活躍していた二人だった。

「いや、良い試合見せてもらいました。永野さん仕込みの良いチームじゃないですか。まるであの頃の玉電の様に」

「そんなことは… 今日はスカウトに?」

「ええ。ココだけの話、慶王の子達を見にきたんですが… あのボランチの6番。少し話させてもらえませんか?」

「松本、ですか。どうぞ」

健太はベンチでヘタっているトラを呼び出す。

「松本、君。S C東京のU18監督の玉城です。」

「コーチの志村です。ナイスゲームだったね」

トラは別に、と言う表情をする。

「一度、ウチの練習に参加してみないか?」

トラは疲労困憊の表情で、

「すんません。オレ、来年から行くとこ決めてっから。」

玉城と志村は顔を合わせる。

「それって…?」

「ああ、川崎フロンティアの栂さんトコ。ま、セレクションで受かればーだけど」

「栂… 永野さんの後輩、ですよね。そっか、そっか。それじゃ仕方ないか」

玉城は苦笑いする。

「あのP Kの時。キミ、G Kに何て言ったの?」

志村が興味深げにトラに聞く。

「あーあれ? キッカーの奴イラついてっから、ニヤけてやれよって。」

玉城と志村は一瞬ポカンとして、その後吹き出す。

「ねえ。川崎のセレクション落ちたら、ウチの練習に出てみないか?」

玉城が名刺を取り出しトラに握らせる。そして呟く様に、

「オレ、結構しつこいから。」

トラはニヤリと笑い、

「栂さんにフラれたら。世話になろっかな」


玉城と志村は一年生の平谷のところに歩み寄り、

「ちゃんと成長してるじゃないか。なかなか良かったぞ。で。遅刻癖、相変わらずか?」

「えーっと。昨日の夜はコーチの家に泊めてもらって。今朝は起こしてくれて、楽チンでした。部活って、楽しいっすね」

嬉しそうに微笑む平谷に二人は吹き出す。

「そ、そうか。良いな、部活。うん。でだなー」

「中学出たら。ウチ、戻って来いよ?」

平谷はうーんと考えながら、

「試合の前の日、シムさんち泊めてもらえます?」

「「バーカ」」

「テヘ」

その後二人は小谷の元に行き、

「今度、ウチの練習に出てみないか?」

小谷は唖然とした後、

「ぜ、ぜひお願いしみゃす」

と噛んでみせるとチームメイトが大爆笑する。

それを柔らかな細い目で眺めながら、玉城は志村に、

「部活も、良いもんだな」

と呟くと、志村も黙って深く頷いたものだった。


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