(7)
しばし呆然としていたダモンは、突如我に返る。
(どういう気まぐれを起こされたかは知らないが――これはパイオンにとって千載一遇のチャンス……!)
だが、ダモンは輝いていた顔を直後一気に曇らせた。
(ここにはまだオルバースの娘もいるし、他にも狙っている娘がいないとは限らない。なにしろ皇太子はあのざまで側室さえも狙えないからな。なにより――ミルザ姫が乗り気になればどうしようもないではないか。せめて王子の側室の座だけでも確保しておかないと――)
部屋をうろうろしながら唸る。
「ちょっと、父様、どうしたというの。落ち着いてよ、鬱陶しい」
娘のシェリアはダモンの気持ちも知らずにのんきに茶を飲んでいる。さきほどまでおどおどとしていたのが嘘のように落ち着き払っている。これでこそ我が娘だ。
これが落ち着いていられるか――怒鳴りたいのを堪えて、ダモンは娘に指示を出した。
「シェリア、今すぐ隣に行って来なさい」
「は?」
「お前のような奇怪な娘を妃になど――いつ気が変わられるか分からないではないか。たまたまあちらにお前より見栄えのする娘がいなかっただけだろう。化けの皮もすぐに剥がれるに決まっているし、もたもたしていて他の侍女を気に入られてしまっては敵わない」
ジョイア宮中には、多数の侍女がいる。そして身分は公にしていないが、皆由緒正しい貴族の娘である。見栄えの良い娘をこぞって出仕させるのは、皇帝、もしくは皇太子の目に留まらせようという魂胆なのだ。
顔を一気に赤くしてもたもたしている娘にダモンは呆れて眉間に皺を寄せる。
今さら何を恥ずかしがっているのか理解出来ない。昔から妃になるべく教育を施して来た。そのチャンスを逃さないためには何でもする娘だったはず。
「何をしている。早く準備をしなさい」
「で、でも、アウストラリスでは、そういうの好まれないんだもの。殿下は結婚してからっておっしゃったし……!」
「何を言っている。殿下の父上がどれほどの側室を持っておられるかは知っているだろう。――他の女に寝取られたらどうする気だ!」
アウストラリス式がどうしたという。ここはジョイア。しかも一番の激戦である宮中だ。ライバルは今周りにうようよいて、飛び込んで来た餌に狙いを定めている。
隣の部屋の扉がいつノックされるか、ダモンは気が気でない。
血走った目でシェリアを睨みつける。
牢から出たばかりで、使える従者がいないのがもどかしい。居れば問答無用で仕度を整えさせて送り込むのに。
「寝取られるって――……殿下はそんなことされないもの」
だが娘は暢気なものだ。
「お前は男のことを何も分かっちゃいない! あの年頃の男はただでさえ女を見れば抱きたいものなのだ。そこをくすぐってその気は無くともその気にさせる女など、いくらでもいる。皇太子を見ていれば分かるだろうが!」
言外にスピカ妃を匂わすと、シェリアは僅かにムッと顔をしかめた。
「父様、迂闊よ。ここは宮中でしょう。不敬罪でまた牢に放り込まれたいの? 大体、ヨルゴス殿下を父様と一緒にしないで。誠実で立派な方なんだから」
きっと睨まれて、ダモンは僅かに動揺した。以前なら一緒になって妃を罵り、それどころか罠にはめようとした娘とは思えない。
(アウストラリスで何があったんだ?)
不可思議な気分でダモンは押し黙る。コホンと咳払いをすると、話を本題に戻す。
「とにかくだ。お前は貞淑な女を演じたいのかもしれないが、あまり我慢をさせるのも良くない。お前だって、みすみす妃の座を逃すつもりはないのだろう? 確約を得るには既成事実を作るのが一番の手段ではないか」
「き――」
シェリアはとたん顔色を真っ赤に変えて絶句するが、ダモンは構わずに続けた。
「そうだ。子でも出来ればこっちのもの――」
直後、ダモンの頬を何か固いものが掠めた、かと思うと、背中でがちゃんと音がする。ふと見ると、シェリアの手にあったティーカップが消えていた。
「父様! ――それ以上続ける気ならもう出て行って」
シェリアはぎろりとダモンを睨みつけると、茶菓子に添えられていたフォークを握りしめる。
「……落ち着け……!」
ダモンは冷や汗をかく。シェリアの運動能力は低い。何しろ彼女を宮中の侍女として出仕させられなかったのは、宮女として要求される最低限の武術が身につけられなかったからなのだ。
つまり、脅しのつもりで投げて――当たる可能性は大。
「出て行って!」
フォークが放たれ、すぐ後ろの壁に突き刺さった直後、
(と、とりあえず、今日のところは退散したほうがよさそうだ……! ああ、そうだ。父親より母親の言うことの方が聞くかもしれんな)
ダモンは逃げるように部屋を後にした。
シェリアが父を追い払ったあと肩で息をしていると、今しがた閉まったばかりの扉が小さく叩かれた。
『……大丈夫? すごい音したけど』
扉の向こうから聞こえる労るような声に胸が跳ねる。
「だ、大丈夫。ちょっと喧嘩しただけだし、いつものこと」
ふと見下ろすと、割れた茶器が無惨に転がっている。
(あー……高そうなのに……)
弁償のことを考えて、なんとか誤摩化せないかと拾って壊れ具合を確かめようとした時、あることに気が付いた。
(この音が聞こえたってことは――まさか、今の父との会話聞かれたの!?)
動揺と共に指先に鋭い痛みが走った。陶器の割れ口に触れてしまったのだ。
「つっ――」
思わず小さな悲鳴を上げた。直後、扉が開かれ、血相を変えたヨルゴスが飛び込んで来た。
「診せて」
指先に盛り上がる血を見た彼は、とっさに指の根元を抑え、そして傷口に唇を当てる。
「な、な、何してるのっ」
「…………治療だよ。だまって」
指先を吸われ、頭が沸騰する。指先から全身に痺れるような感覚が走り、目眩がした。
同時にどろりとした熱が体の底から沸き上がり、息が上がる。
前に深く口づけされ、肌に触れられた時と同じような感覚にシェリアは戸惑う。
(治療、治療なのに、これ――)
ヨルゴスの舌が時折指先をくすぐる。ちりちりとした痛みにむずがゆさが混じる。唇が離されたかと思うと、傷口を確かめて、再び口付ける。
鋼色の髪の間から見える伏せられた目にはいいようもない色気があった。口づけの時、彼はこんな顔をしているのかもしれないと想像すると、全身が瞬く間に熱を持つ。
熱くて溶けそうだ。そんなことを考えながら彼の顔に見とれていたら、ふとヨルゴスがシェリアの顔を見上げた。
目が合ったとたん、ヨルゴスがびくりと震えた。直後。
力強く引き寄せられ、唇を奪われた。
「ん――――」
指先で行われていた行為が、そのまま唇に移される。舌を絡められて、シェリアは瞬く間に足の力が入らなくなる。膝が折れる。と、ヨルゴスは彼女の膝裏をさらって抱き上げ、傍のソファへと腰掛けさせ――いや、押しつけた。
(ど、どうしよう――)
戸惑っている間に、いつしかドレスが緩んでいた。彼の手が暴かれた上半身を這う。ふくよかさなどほとんどないはずなのに、丹念に探られ、シェリアは彼の手の中にある自分の胸の存在を確かに感じた。
恥ずかしさで気が遠くなる。
やめてと言いたいのに、彼の口づけは深く、言葉は奪われていた。僅かに開いた隙間からは意味を成さない言葉しか漏れない。それ以上に、もう一人のシェリアが拒絶の言葉を言わせない。
離れたくない。このままもっと近づきたい。もっと彼を知りたい。
どこからか、そんな想いが沸き上がる。
堪らなく怖いのに、堪らなく欲しい。
(――でも、やっぱり怖い――)
体が強ばった。ヨルゴスがふと唇を浮かせる。そしてシェリアをじっと見つめた。いつもは穏やかな茶色の目の中には、今まで見たことないくらいに激しい熱が渦巻いている。
だが同時に、シェリアは彼の目の中に一人の女が泣きそうな顔をしているのも見つけた。彼の目の中の女は、瞬きと同時に目尻から涙をこぼす。
とたん、ヨルゴスはぎゅっと目を閉じ、「ごめん」とシェリアからゆっくり体を離した。
「待つって言ってたのに――どうかしてた」
そう言うと、彼は身を翻して部屋を飛び出す。
シェリアは呆然とソファに沈み込み、それから自分の姿を見下ろして慌ててドレスを直した。
急に寒気を感じ、震えが走る。先ほどまで自分を包んでいた温もりを思い出し、自らを抱きしめる。
指先に痺れを感じて、燭台の光で照らす。血は止まっていた。だけど、じんじんとした熱は収まらない。それが傷によるものではないことに気が付くと、急に息が出来なくなる。
瞼の裏に、夢中で指先に口付けていた彼の顔が蘇ると、胸が激しく脈打った。
落ち着こうと、水差しをとってカップに水を注ぐ。だけど胸が詰まって少しも飲み込めない。
息も出来ない、水も飲めない。――彼のせいで死ぬかもしれない。シェリアは天井を仰いで途方に暮れた。




