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第7.5 話 「最初の一歩」

 王都を出てから、数時間。


 アストは街道沿いの草原を歩いていた。


 腰には一本の剣。背負った荷物は、着替えとわずかな食料だけだった。


 騎士長のもとで修行を続けていた頃には、こんな日が来るとは思っていなかった。


 いや、考えないようにしていたのかもしれない。


「……これから、どうすっかな」


 独り言が、誰もいない街道に消えていく。


 オクトとカナデを探す。


 そう決めて王都を出たものの、手がかりは何もなかった。


 二人がどこにいるのか。


 そもそも、無事に生きているのか。


 何一つ分からない。


「まあ、悩んでても仕方ないか」


 アストは顔を上げた。


「とりあえず、次の町を目指そう」


 そうして歩き始めた、そのときだった。


 街道脇の茂みが揺れた。


「ん?」


 次の瞬間、灰色の影が飛び出してきた。


「うわっ!」


 アストは慌てて飛び退いた。


 現れたのは、中型犬ほどの大きさをした魔物だった。灰色の毛並みに、額から伸びる短い角。


「……ホーンラビットか」


 王都で学んだ魔物の知識が頭をよぎる。


 比較的弱い魔物で、冒険者になりたての者でも討伐対象にすることがある。


 つまり、今の自分でも倒せるはずだ。


「よし……ちょうどいい。相手になってくれ!」


 アストは腰の剣を抜いた。


 ホーンラビットが地面を蹴る。


「そこだ!」


 剣を振り下ろす。


 しかし、魔物は素早く横へ跳び、刃をかわした。


「なっ……!」


 空を切った剣に引っ張られ、身体が流れる。


 その隙を逃さず、ホーンラビットが突進してきた。


「うおっ!」


 アストは慌てて剣を構えた。


 衝撃。


 刃が弾かれ、手が痺れる。


「くっ……!」


 魔物は距離を取り、再びこちらの隙をうかがっていた。


 アストは歯を食いしばる。


 相手の動きをよく見ろ。


 無駄に力を入れるな。


 足運びを意識しろ。


 騎士長に何度も教わった言葉がよみがえる。


 頭では分かっている。


 それなのに、身体がついてこなかった。


「落ち着け……。次は、ちゃんと……!」


 ホーンラビットが動いた。


 今度こそ見極めようとしたが、判断が一瞬遅れた。


 魔物の角が、アストの太ももをかすめる。


「痛っ!」


 傷は浅い。


 だが、次の攻撃を受ければどうなるか分からない。


 魔物が再び突進の構えを取った。


「……っ!」


 アストは剣を握り直す。


 ここで逃げたら、また何もできないままだ。


 騎士長に教わることもできなくなった。


 剣の才能がないと突きつけられた。


 それでも、自分の道を探すと決めたばかりじゃないか。


「来いよ……!」


 声を張り上げる。


 ホーンラビットが地面を蹴った。


 アストは剣を振った。


 ――空振り。


「えっ?」


 直後、体当たりを受け、アストは地面に転がった。


「いってぇ……!」


 剣が手から離れ、草むらに落ちる。


 ホーンラビットは、まだこちらを警戒していた。


 アストは立ち上がり、剣を拾おうとする。


 しかし、魔物が身構えたのを見て、思わず足が止まった。


 勝てない。


 目の前の魔物一匹すら、倒せない。


 悔しかった。


 どうしようもなく、悔しかった。


 それでも――。


「……くそっ!」


 アストは剣を拾い、街道へ向かって走り出した。


 しばらく走り、魔物の気配がなくなったところで、ようやく足を止める。


 膝に手をつき、荒い息を整えた。


「はあ……はあ……」


 情けなかった。


 騎士長の言葉が、頭の中によみがえる。


 ――これ以上、自分を追い込むな。お前は十分にやった。


「……分かってるよ」


 アストは唇を噛んだ。


「分かってるけどさ……」


 剣を握る手が震えていた。


 怖かったのか。


 悔しかったのか。


 自分でも、よく分からなかった。


 ただ、今のままでは駄目だということだけは、はっきりしていた。


「……強くなる方法を探さないとな」


 この世界のこと。


 魔物のこと。


 冒険者という仕事のこと。


 そして、オクトとカナデを探すための手がかり。


 何も知らないままでは、二人にたどり着くことさえできない。


「……町に行こう」


 アストは再び歩き始めた。


 しばらくすると、街道の向こうから荷馬車がやってきた。


 馬を操っているのは、日に焼けた顔の商人だった。


「おや、坊主。歩きかい?」


「はい。近くの町まで行こうと思って」


「それなら乗っていくか? ちょうど町へ戻るところだ。荷物運びを少し手伝ってくれればいい」


「本当ですか? ありがとうございます!」


 アストは頭を下げ、荷馬車に乗り込んだ。


 ◇


 荷馬車は、ゆっくりと街道を進んでいく。


 揺れる荷台に腰を下ろしたアストは、ようやく一息ついた。


 同乗していた旅人たちは、道中の出来事や各地の噂話で盛り上がっていた。


「そういえば、アルセリア王国の話を聞いたか?」


 短剣を腰に差した男が、商人に話しかけた。


「アルセリア? 何かあったのか?」


「神託の祭壇で、とんでもない適性を持った若者が二人も現れたらしいぜ」


「ほう。二人もか」


「一人は剣聖、もう一人は大賢者だとよ。王国も大騒ぎらしい」


 その言葉に、アストの耳がぴくりと動いた。


「……剣聖と、大賢者?」


「おっ、坊主も興味があるのか?」


「その二人って、どんな人なんですか?」


「さあな。詳しいことまでは知らねえよ。ただ、王族が直接目をかけるほどの逸材だって話だ」


 アストは俯いた。


 剣聖。


 大賢者。


 その二つの言葉を、頭の中で繰り返す。


 もし、その二人が――。


「……オクト、カナデ」


 小さく名前を呼んだ。


 確証はない。


 同じ適性を持つ人間が、ほかにいる可能性だってある。


 それでも、そうであってほしかった。


 オクトなら、きっと元気にやっているはずだ。


 カナデも、きっと無事でいる。


 二人の姿を思い浮かべると、少しだけ胸が温かくなった。


「……無事でいてくれよ」


 その言葉には、願いが込められていた。


 そして同時に、悔しさも込み上げてきた。


 二人は今、どこで何をしているのだろう。


 自分だけが、こんなところで立ち止まっているような気がした。


 騎士長に教えを乞い、何度も訓練を重ねた。


 それでも、目の前の魔物一匹すら倒せなかった。


 このままでは、二人を探し出せたとしても、胸を張って再会することすらできない。


 アストは拳を握った。


「……俺も、強くならないとな」


 そのときだった。


 ――ヒヒィィンッ!


 突然、馬が激しくいなないた。


「な、なんだ!?」


 荷馬車が大きく揺れる。


 御者が慌てて手綱を引いた。


「止まれ! 止まれっ!」


 馬が前脚を持ち上げ、荷台が傾く。


 乗客たちは悲鳴を上げながら、荷物につかまった。


 アストも体勢を崩し、木箱に肩をぶつけた。


「いって……!」


 何が起きたのか。


 そう思って顔を上げた瞬間、街道の先に巨大な影が見えた。


 木々の間から現れたのは、黒い毛並みの魔物だった。


 四本の脚で地面を踏みしめ、その体躯は荷馬車よりも大きい。額から伸びた二本の角が、鈍い光を放っている。


 魔物が一歩踏み出すたび、地面が震えた。


「う、嘘だろ……」


 誰かが震える声で呟いた。


「なんで、こんなところに……!」


 商人の顔から血の気が引いていた。


 街道に現れるような魔物ではない。


 それだけは、誰の目にも明らかだった。


 魔物が咆哮した。


 空気が震え、鳥たちが一斉に森から飛び立つ。


「逃げろぉぉっ!」


 旅人の一人が叫んだ。


 乗客たちは我先にと荷馬車から飛び降り、街道脇へと逃げ出した。


 アストも剣を抜いた。


 足は震えていた。


 逃げたい。


 今すぐ、この場から離れたい。


 先ほどのホーンラビットとの戦いが脳裏をよぎる。


 あの程度の魔物にすら勝てなかった自分が、こんな化け物を相手に何ができるというのか。


 それでも、逃げようとした足が止まった。


 荷馬車のそばで、商人が転んでいた。


「くっ……! 足が……!」


 立ち上がろうとしても、痛めた足に力が入らないらしい。


 周囲の旅人たちは逃げるのに精一杯で、誰も戻ろうとはしなかった。


 魔物が頭を低く構える。


 その視線の先には、商人がいた。


 アストの足が震えた。


 勝てるわけがない。


 自分は、さっきの魔物にすら勝てなかった。


 それでも。


 あの人を見捨てて逃げたら、きっと後悔する。


 アストは剣を握り直した。


「……くそっ!」


 地面を蹴る。


「危ないっ!」


 商人の腕をつかみ、無理やり引き起こす。


 直後、魔物が突進してきた。


「うわあああっ!」


 アストは商人を突き飛ばすようにして、横へ飛び退いた。


 轟音。


 魔物の巨体が荷馬車に激突した。


 木材が砕け、積まれていた荷物が宙を舞う。


 馬車が横転し、木箱が街道へと散乱した。


「はあっ……はあっ……!」


 アストは息を切らしながら立ち上がった。


 商人は無事だ。


 それだけを確認し、剣を構える。


「こっちだ……!」


 声が震えていた。


 それでも、魔物から目を逸らさなかった。


 魔物がゆっくりと振り返る。


 その目が、アストを捉えた。


「……っ!」


 次の瞬間、魔物が動いた。


 速い。


 巨体からは想像できない速度だった。


 アストは横へ跳んだ。


 魔物の爪が地面をえぐり、土と石が飛び散る。


「なんだよ、こいつ……!」


 反撃しようと剣を振る。


 しかし、刃は硬い毛皮に弾かれた。


「なっ……!」


 まるで岩を斬ったような感触だった。


 魔物は止まらない。


 尻尾が横薙ぎに振るわれる。


「ぐっ!」


 アストの身体が吹き飛ばされた。


 背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。


「かはっ……!」


 視界が揺れる。


 立ち上がろうとしても、身体が思うように動かなかった。


 魔物が迫ってくる。


 逃げなければ。


 分かっているのに、足が動かない。


 騎士長の言葉が、頭の中によみがえった。


 ――これ以上、自分を追い込むな。お前は十分にやった。


「……くそっ」


 アストは地面に爪を立てた。


 またか。


 また、自分は何もできないのか。


 王都でもそうだった。


 何度努力しても、剣を振るたびに現実を突きつけられた。


 そして今も。


 目の前の人を助けようとしたのに、自分が倒れてしまった。


「……まだ、だ」


 アストは震える腕で剣を握った。


「まだ……終わってねえ……!」


 立ち上がろうとする。


 だが、膝が折れた。


 魔物が大きく口を開く。


 その牙が、アストに迫った。


「――あーあ」


 場違いなほど気の抜けた声が響いた。


「面倒くせえなあ……」


 次の瞬間。


 アストの目の前に、一人の男が立っていた。


 くたびれた外套。


 乱れた黒髪。


 眠たげな目。


 腰には、使い込まれた剣が一本。


 どこにでもいそうな旅人だった。


 男は迫り来る魔物を見て、深いため息をついた。


「お前さあ……。もうちょっと、場所を選んで暴れろよ」


 魔物が咆哮する。


 男は頭を掻いた。


「はいはい。分かった分かった」


 剣に手をかける。


 その動きに、力みはなかった。


 構えもない。


 殺気すら感じられない。


 ただ、面倒な用事を片づけるような仕草だった。


 魔物が突進する。


 その瞬間、男の指先がわずかに動いた。


 ――時間剥奪。


 音が消えた。


 風に揺れていた草も、舞い上がった土埃も、突進する魔物の巨体も、すべてが静止する。


 世界から、時間だけが切り離されたかのようだった。


 その中で、男だけが動いていた。


 男は魔物の進路から一歩外れ、すれ違う位置へと移動する。


 そして、剣を抜いた。


 無駄のない動作。


 迷いのない足運び。


 刃が走る。


 一閃。


 続けて、もう一閃。


 男の剣は、魔物の硬い毛皮をまるで紙のように切り裂いていく。


 その斬撃には、一切の無駄がなかった。


 剣を振り終えた男が、静かに鞘へと納める。


 ――時間が戻った。


 魔物の巨体が、突進の勢いのまま男の横を通り過ぎる。


 その直後。


 身体のあちこちに、いくつもの斬撃の線が浮かび上がった。


「……え?」


 アストは目を見開いた。


 魔物の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。


 地面が揺れる。


 砂埃が舞い上がる。


 静寂。


 ほんの一瞬前まで、誰もが死を覚悟していた。


 それなのに。


 男は、まるで何事もなかったかのように欠伸をした。


「ったく。昼寝の邪魔しやがって」


 アストは言葉を失っていた。


 何が起きたのか。


 時間が止まったように見えた。


 そのわずかな間に、男は魔物の懐へ入り込み、何度も剣を振るっていた。


 速いという言葉では足りない。


 剣の軌道も、踏み込みも、すべてが完成されていた。


 時間を奪う異能。


 そして、その一瞬を使い切る圧倒的な剣技。


 あれが、本当の強さなのか。


「……ま、待ってください!」


 アストは、痛む身体を押して立ち上がった。


 男が振り返る。


「ん?」


「い、今の……。あなたが倒したんですか?」


「見りゃ分かるだろ」


「でも、あんな魔物を……一瞬で……」


「一瞬? 結構めんどくさかったぞ」


 男は不機嫌そうに眉を寄せた。


 アストは言葉を失った。


 あれほどの魔物を相手にして、めんどくさかったで済ませる。


 自分が全力で戦っても、傷一つつけられなかった相手を。


 この男は、あっさりと倒した。


「……あんた、何者なんだ?」


 思わず口にした言葉に、男は面倒そうに答えた。


「ただの旅人」


「ただの旅人が、こんな魔物を一瞬で倒せるわけないだろ!」


「倒せたんだから、いいじゃねえか」


 男はそれだけ言うと、歩き出した。


 アストは慌てて後を追おうとした。


 だが、身体が痛み、足がもつれる。


「うっ……!」


「おいおい。無理すんなよ。死にかけてんぞ、お前」


「でも……!」


 男は立ち止まり、アストを見た。


 そして、腰の剣に視線を落とす。


「お前、剣を振るのが下手だな」


 アストの胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「……分かってるよ」


「へえ。自覚はあるんだな」


「……っ!」


 言い返せなかった。


 騎士長にも同じことを言われた。


 努力しても、どうにもならなかった。


 だからこそ、王都を出たのだ。


 このままではいけないと思ったから。


「……どうすれば、強くなれる?」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 男は眉を上げた。


「は?」


「俺、強くなりたいんだ」


 アストは拳を握った。


「大切な仲間がいる。いつか、そいつらに会いたい。だから、もっと強くなりたいんだ」


 男は黙ってアストを見つめた。


 眠たげだった目が、ほんのわずかに細くなる。


「仲間ねえ……」


 男は空を見上げた。


「いいよな。そういうの」


 その声は、先ほどまでとは違っていた。


 どこか遠くを見ているような声だった。


「……あんたにも、仲間がいたのか?」


 アストが尋ねる。


 男は答えなかった。


 代わりに、外套の内側から小さな金属の飾りを取り出した。


 古びた装飾品だった。


 男はそれをじっと見つめる。


「……さあな」


「さあなって……」


「誰かにもらった気はするんだよ」


 男は飾りを指先で転がした。


「大切なものだった気もする。けど、誰だったのか、さっぱり思い出せねえ」


 アストは言葉を失った。


 男の顔から、いつもの気だるさが消えていた。


 ほんの一瞬だけ。


 何かを探しているような、寂しげな表情が浮かんだ。


 だが、男はすぐに飾りをしまった。


「まあ、思い出せねえもんは仕方ねえよ」


 そして、再び歩き出そうとする。


「待ってくれ!」


 アストは声を張り上げた。


 男が振り返る。


「……まだ何かあんのか?」


「俺に、剣を教えてくれないか!」


 男は、心底面倒くさそうな顔をした。


「嫌だね」


「そこを何とか!」


「何で俺が、見ず知らずのお前に教えなきゃならねえんだよ」


「それは……」


 言葉に詰まった。


 確かに、その通りだ。


 自分は何も持っていない。


 実力も、実績も、男に頼めるようなものもない。


 それでも。


 ここで諦めたくなかった。


 アストは一度、深く息を吸った。


 そして、男の前に立つ。


「……俺は、もう何もできない自分でいたくない」


 声が震えていた。


「さっきの魔物にだって、まるで歯が立たなかった。目の前の人を助けようとしたのに、結局、自分が倒れて……」


 拳を強く握る。


 今まで押し込めていた思いが、言葉になって溢れ出した。


「でも、諦めたくないんだ!」


 アストは男を真っ直ぐに見つめた。


「俺には、大切な仲間がいる。もう一度会いたい。今度こそ、胸を張って会いたいんだ!」


 一歩、前に出る。


「今の俺じゃ、誰も守れない。仲間を探すことすら、まともにできない。それが悔しいんだ!」


 そして、深く頭を下げた。


「頼む! 俺に剣を教えてくれ!」


 声を張り上げる。


「どんなに厳しくてもいい。何度倒れても、絶対に逃げない! だから……俺に、強くなる方法を教えてくれ!」


 男はしばらく黙っていた。


 やがて、大きなため息をつく。


「……あー、もう。分かったよ」


「ほ、本当か!?」


「勘違いすんな。弟子にするとは言ってねえ」


 男は指を一本立てた。


「一つ、条件がある」


「条件?」


「俺の言うことには、絶対に従え。途中で逃げることも許さねえ」


 アストは、何度も頷いた。


「分かった!」


「まだ最後まで聞いてねえだろ……」


 男は額に手を当てた。


「それと、俺の名前を聞くな」


「え?」


「今は名乗りたくねえんだよ」


 アストは不思議に思ったが、追及しなかった。


「……分かった」


「よし。じゃあ、まずは町まで歩くぞ。腹が減った」


 男は何事もなかったかのように歩き始めた。


 アストは、その背中を追いかける。


 圧倒的な強さ。


 気だるげな態度。


 そして、大切な誰かの記憶を失った男。


 まだ、何も分からない。


 男が何者なのか。


 なぜ、あれほどの力を持っているのか。


 なぜ、大切な記憶を失ったのか。


 アストは知らない。


 この男が、かつて世界を救った勇者であることを。


 そして、その強さと引き換えに、二度と取り戻せないものを失ったことを。


 この出会いが、自分の運命を大きく変えることになるなど、知る由もなかった。


 アストは、男の背中を見つめた。


「……待ってろよ、オクト。カナデ」


 そして、心の中で付け加えた。


 シオンも。


 いつか必ず、胸を張って会いに行く。


 自分の力を信じられなくなった少年の、新しい旅が始まった。

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