閑話:一音目の前奏曲(プレリュード)。
世界の至高へと登り詰めた二人のコンチェルトが始まる、開演5分前の楽屋。
俺――高橋聡は、長年愛用しているマレットの毛糸を丁寧に整えながら、ふと、自分でも不思議に思っていた「最初の疑問」に立ち返っていた。
(そういえば……俺はなんで、あのタイムリープの初日に、迷わず木琴を選んだんだっけな……)
中身が四十代のおっさんだった俺の理性は、目立たない趣味の端っこに引きこもるために、地味な楽器を選んだと結論づけていた。
バタフライ・エフェクトを恐れた、スマートな大人の保身だと、ずっと自分を納得させていた。
――だが、それは本当に、おっさんの冷めた知性だけで選んだものだったのだろうか。
手元でカチリとマレットを噛み合わせた瞬間、俺の脳の、一番深い記憶の底に眠っていた最初の人生の、セピア色の光景が、一瞬だけ鮮烈にフラッシュバックした。
それは、何一つ上手くいかなかった、あの惨めで平凡だった最初の人生の、小学三年生の秋。
クラスの隅っこで、いつもツンと強気で、誰にも心を開かなかった少女――美香が、放課後の音楽室で、なぜかポツンと一人で残っていた俺に声をかけてきたのだ。
『……あんた、いつも暇そうね。これ、叩いてみたら?』
差し出された、色褪せた二本のバチ。
言われるがまま、埃をかぶった学校の古い木琴を、ポコン、と不器用に叩いてみた。
乾いた、素朴な木の響き。
それが、なんだか無性に可笑しくて、嬉しくて、俺は子供らしく「うわあ、すごい! これ面白い!」と、心の底から無邪気な笑顔を弾けさせたのだ。
その時、ツンとしていた美香が、『ふふ、下手くそ』って、夕焼けに染まる音楽室で、一瞬だけ、世界で一番柔らかく笑ってくれた。
おっさんになって死ぬまで、完全に忘れていた。
それこそが、俺の、本当の、本当の「初恋の始まり」だったのだ。
「聡、何ぼーっとしてるの。もう開演3分前よ」
ハッと我に返ると、目の前には、上品な漆黒のドレスに身を包み、お父さんから譲り受けた本物のタクトをぎゅっと握り締めた美香が立っていた。
今やクラシック界を実力と恐怖で統べる、マフィアのような巨匠になった、大人の彼女。
美香はツンと胸を張って、楽しげに目をギラつかせながら、俺の胸元にタクトの先を突きつけてきた。
「今日も私のタクトの前で、一生私の音に支配されなさい。いいわね?」
「へえ、やってみろよ、総帥。お前のタクトが、俺の音に置いてけぼりにされないようにな」
俺は不敵に笑いながら、美香のタクトの先端に、自分のマレットの先をカチン、と優しく合わせた。
正式なステージのブザーが鳴り響く。
そして、心の中でそっと、美香にも言っていない答え合わせを呟く。
(ああ、そうか……。俺のタイムリープは、保身のためなんかじゃなかったんだな)
タイムリープ後の美香が、なぜ俺の木琴の音に、あそこまで狂気的な執着を燃やしたのか、その理由が今なら分かる。
彼女は、おっさんの精神になって冷めてしまった俺の目の奥に、あの最初の人生の日に、自分がマレットを手渡した時の「世界で一番純粋に音を楽しんでいた俺の笑顔」を探していたのだ。
「私を置いていかないで。もう一度、あの時の美しい音を、私だけにちょうだい」と。
あの子の振るう、すべてを支配する猛烈なタクトの重さは、あの夕焼けの日の、たった一音の恋の祈りそのものだったのだ。
俺が「おっさんの理性」で木琴を選んだはずのあの日は、魂の奥底に残っていた、あの子の笑顔への着信履歴に導かれただけだった。
俺のタイムリープは、最初からお前に『初恋されに』、あの始まりの音をもう一度、お前と鳴らしに帰ってきただけだったんだ――。
ブザーが鳴り響き、重厚な扉が開く。
世界で一番愛しい指揮者の背中に続いて、俺は、まばゆい光の溢れるステージへと足を踏み出した。




