06. 壊れた箱庭と喪失の門
「―――だいぶ、風が収まったね」
マーセルが暴走させた力は、徐々に沈静化している。完全に消えれば、神官たちが駆けつけ、あちこち傷を負ったマーセルの手当てもしてくれるだろう。
たとえ、〈神の堕し児〉と忌まれる奏弦士であろうとも、マーセルは四聖家の一人娘。命を獲られることはない。……もっとも、これまでのような待遇は補償の限りではないだろうが。
聖地の、神殿の人間らが、この先彼女に何を強いてくるかは、容易に想像できる。マーセルを、何に使おうとするのかも。
そんな真似は、絶対に許せない。
―――その時は、何をしてでも僕が……。
疲労により薄く靄がかった意識の中で、ルカイスが鈍く思考していると、
「……ねえ、ルカ」
それまで横たわる彼の胸に頭を預け、大人しく髪を梳かれていたマーセルが、ぽつりと、彼の名を呼んだ。
「涙だけじゃ、全てが赦されるわけじゃないって……さっき、言ったでしょ?」
彼は頷きながらも、マーセルが唐突にそんなことを言い始めたことを訝しんだ。
先を促すように髪を撫でる手を止めたが、彼女は一向に顔を上げない。
「マーセル?」
ルカイスの呼びかけに、彼女は応えない。
しばらくの沈黙。
その後、唇を噛み、吐息した気配のあと、決意を感じさせる低い囁きが、胸の上で直に響きを伝えた。
「今度は、わたしの番、だよね」
「え?」
何が?
番、とは何か。
震える息を懸命に整えようとしながら、彼女は続ける。
「……わたし……わたしね……」
告げられかけた言葉。
だが、それに被さるように、第三者の声が辺りに響いた。
「―――だったら、俺達と来ませんか?」
■ □ ■ □ ■ □
唐突に加わった、男の声。
ルカイスとマーセルは身を起こし、声の方向に視線を走らせた。
「―――魔導士!」
「ウィード=セルさん!」
二人は同時に声を上げ、お互いが彼を知っていたことに驚き、顔を見合わせる。
どうやってここまで入り込んだのか。赤眼鏡の青年は、にっこり笑って手を打った。
「はいはい。お二方とも、自己紹介の手間を省いてくださって、ありがとうこざいます」
「ウィード=セルさん……あなた、魔導士だったの?」
呆けたようなマーセルに向けて、ウィード=セルはにっこりと笑んだ。
「やっぱり、貴女だったんですね、マーセルさん。彼が呼んだのが同じ名前だったから、もしかして、と思ったんだけど」
思った通りでしたね、と親しげに話しかける低い声に、ルカイスは鋭く舌を打った。
気に入らない。
相手は、先ほどやり合ったばかりの魔導士だ。しかも、自分の知らない所で知り合っていただけでなく、彼女を真っ直ぐに見つめながら、名まで呼んだ。そんな青年の態度に、苛立ちを隠せない。
「……何しに来た。僕は、行かないって言っただろう」
睨み付けるルカイスに対し、魔導士は余裕気に、軽く肩を竦めて見せる。
「分かってますよ。ま、惜しいとは思いますがね。でも、あれだけキッパリ振られたんだから、君にはもう付き纏ったりしませんよ。―――それに、今の言葉をちゃんと聞いていただけてないみたいですね。言ったでしょう? 『だったら』、と」
「……何?」
そう問い返しながらも、予断なく殺気を込めた眼で睨むのは止めない。
そんなルカイスを面白がるように、魔導士は笑みを深めた。その表情がそのまま、マーセルの方へと流される。
今、俺がね―――と、愉快そうに置かれた前置き。
「お誘いしてるのはね、彼女の方です」
「―――わたし?」
急に視線を向けられたマーセルは、びくりと肩を揺らした。
フム、と青年は頷く。
「奇跡の〈白花の姫君〉と謳われるほどの錬祈力を有しながら、奏弦の才をも持ち合わせる。マーセルさん、貴女は御自分がどれだけ稀有な存在なのか、理解してます? そこの彼以上に、貴女は興味深い―――!」
「―――黙れ」
「永きに渡り、貴方たち〈白銀の背徳者〉は迫害されてきた。でも、それは何故? その力について識ろうとした者は、未だかつて存在しない。謎を混沌から掬い出すことなく、混沌のまま忌避し続ける。それが、どんなに愚かなことか。マーセルさん、貴女には分かりますか?」
「…………」
「それに、このままこの地に残っても、いいように政治に利用されるだけですよ? だから、俺たちと一緒に、ここを出ましょう」
「黙れと言っている!」
黙ったまま俯くマーセルを庇うように、ルカイスは身を乗り出した。そんな彼の様子に、腕を組んだ魔導士が、やれやれと言わんばかりに盛大な溜息を吐いた。
「あー、君。さっきから煩いですねぇ。俺は彼女に話をしているんです。もう君には用はないから、少々黙っていてくれませんかね」
大体、と青年は続ける。
「君、彼女が先ほど何を言いかけたのか、全然察することが出来ていないんじゃないですか?」
「……何?」
「マーセルさんがおっしゃっていたでしょう。“次はご自分の番”だとね。彼女は自らが犯した罪を自覚し、またそれに対する贖罪を望んでいる。そういうことですよ」
「なんだよ、それ……」
マーセルが犯した罪?
ちらりと彼女の方を横目で窺ったが、変わらず俯けられた面からは、何の答えも得られなかった。
「―――でも! だからといって、マーセルがこの都を去らなければいけない理由にはならない!」
「そうでしょうかね? もしも、それがご自分の願望から縋っているものでなく、思考した末の解であるならば、俺は、君が本当に愚かしい人間だと評さねばならない」
「っ!」
ウィード=セルの言葉を止めようと、ルカイスは左手を振り翳した。破壊の力、白銀の光を、指先に集中させ始める。
だが、その手を、背後から伸びた細い腕が抱き抱えるように押さえた。
「マーセル?」
視線を上げた少女の横顔。
こちらではなく、魔導師へと向けられた輪郭の中で、未だ星水に濡れている花弁色の唇が、その一言をはっきりと紡いだ。
「行きます」
驚愕に眼を見開く。
そんなルカイスに面し、マーセルは今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「――――――ルカ。……わたし、行くね」
信じられない言葉。
己を為す底部までが凍り、全身の血が足元まで流れ落ちてしまったかのような、絶望の音を聴く。
「どうして!」
「だって……もうここには居られないよ」
震える瞼を降ろした彼女は、微かに開いた眼の先を辺りに巡らせた。
「神官や兵士の人達を、大勢傷つけちゃったもの…………ルシアのことも」
「それは……」
君のせいじゃない。
そう言いたいが、出来なかった。
力の暴発は、本人の意思に共会わぬ、一種の災害のようなもの。ましてや、今回はルカイスが捕えそこなった過去の意思の残滓―――亡霊たちにより引き起こされたのだ。罪はむしろ自分にあるのだと、彼は自身を責めていた。
でも、それを口にしたところで、何になる?
たぶん彼女は悲しそうな顔をするだけだ。彼女は、己のせいではないと言う、ルカイスの言葉を鵜呑みにしたりしない。―――出来ないのだ。
そして、この先ずっと、事あるごとに今日のことを思い出し、悔恨と悲しみの悲鳴を心の内で悲痛なまでに上げ続けるのだろう。
ルカイスだからこそ、わかる。
同じ背徳の力を持つ、彼だからこそ。
言いあぐねたまま、縋るような眼で見つめるしかない。それだけでは、彼女を引き止められないのだと知っていても、他にどうしようもなかった。
そんな彼に、マーセルは小さく首を傾け、淡く優しげな声音で囁く。
それにね―――と、その先に続けられた言葉が、ルカイスを更なる焦燥と後悔へ突き落した。
「それにね、夕べからずっと考えてたの。どうしたら、この先、ルカが幸せでいられるのかなって」
……君に出会わなきゃ良かったって、これまで、ずっとずっと思ってたよ――――。
思わず吐いてしまった、そんな台詞。
その言葉は、紛れもなくルカイスの本心。だが、あれに込めたのは言葉通りの意味ではない。
マーセルのせいじゃない、彼自身の問題なのだ―――そう伝えるため、焦って口を開こうとする。
しかし、それを察したのか、彼が意思を言葉にする前に、マーセルは首を横に振って遮った。
「わかってるよ。でもね、わたしじゃ、やっぱりルカは幸せになれない。理由はわからないけど……そうなんでしょ?」
―――何も返せなかった。
彼女の言う通り、このまま傍に居続けることが出来たとしても、ルカイスの中で彼女を失うかもしれない恐怖と、それによる罪悪感は消えることはないだろう。
正直、今この瞬間に、そのことを考えるだけでも恐ろしい。きっと将来、現実にマーセルが命を落したとき……しかも、それが自分という存在のせいであったならば、確実に、自分は狂う。
―――だが、もし彼女が隣から居なくなってしまうのならば、その杞憂に、一体何の意味がある?
「ルカ、最後に一つだけ、お願いしてもいい?」
間近で笑んだ蒼い双眸が、涙に揺れる。
今にも崩れそうな微笑なのに、その瞳の中には、彼女の決意がはっきりと刻まれて見えた。
「……マーセル」
―――行ってしまう。
居なくなってしまう、彼女が。
行かないでくれ、そう懇願しかけたルカイスの肩に、正面からふわりと両手が乗せられた。
シャラ、とたくさんの小さな飾り細工が鳴る音。
呼吸をする間も無く、唇に柔らかい感触が重ねられる。
「―――ねえ、ルカ。……もう二度と、僕なんか、って、言ったりしないでね?」
拙い口付けは、一瞬のこと。
「お願いだから、もう二度と――――――わたしの好きな人を、悪く言わないで」
ルカイスにしか届かないほど小さな、祈りにも似た甘やかな囁き。
柔らかい手の平が、血に汚れた手に重ねられた。そして何かをルカイスの手に握らせて、彼女は素早く身を引いた。
温かな気配が遠ざかる。
湿った髪が、頬を掠める。
立ち上がる彼女を引き留めようと伸ばした両腕が、宙を掻いた。
足に力が入らない。血を流し過ぎたために引き起こされた眩暈。ルカイスはまだ、立ち上がることが出来なかった。
「―――ようこそ」
淑女を迎えるように差し出された、魔導士の手。
マーセルは細やかな手を伸ばし、それに応える。
長い栗色の髪をくるりと舞わせ、マーセルはもう一度、ルカイスを振り返った。
「――ありがとう、ルカ」
“幸せに”。
声無く、そう一言。
涙が残る頬と、微笑を作る横顔――――そして、向けられた背。
彼女は青年に手を引かれ、歩き始めた。
入口からの逆光をベールのように引くその後姿に向け、何度も名を呼び続けたが、彼女が振り返ることはなく……………。
――――蒼い月が輝く夜。
少年は、一番大切な少女を、蒼闇の帳の中に見失った。