01. 約束
「今、この場で決めなさい」
そう告げた。
それは、彼が漸く手にした、唯一の安息の地を手放すに他ならない選択肢。
もしかすると――――そんな予感も、一瞬過った。
今まさに失いかけているものと、苦難の末に見出した平穏を天秤にかけ、後者に重きを置くのではないかと。
しかし、そんな穿った考えをあっさりと裏切り、彼は―――――――、
「―――行ってしまったよ」
墓前に花を手向けながら、アルザスは妻に語りかけた。
大神殿が聳え立つ丘の、その中腹に設けられた墓地。その中でも一際目立つ、低く枝を張り、丸みを帯びた葉を茂らせた大きな庭樹の下に、その墓はあった。
「……もう、何度目になるかな」
ここで、君とこうして花の季節を迎えるのは。
ずっと昔に、共に過ごしていた頃も。彼女が彼を置いて先に、永い眠りについてしまってからも。
いつでもこの季節には、ここでこうして頭上を見上げる。
満開の花衣に彩られた、マーシャルの木。
『あたしたちの子供には、ぜーったいにこの木の名前をあげるのよ』
掲げられた踵。両手を空に伸ばして、振り返った笑顔。
彼女が好きだった薄桃色の小さな花びらは、遠い昔と同じく、いまこの時も春の柔らかな風に吹かれて揺れている。その度、花弁が甘やか色合いとなって、まるで弦で爪弾かれた音楽かのように、白い墓石とアルザスの上に降り注いだ。
「結局、私は何もしてやれなかったな」
思い返せば、後悔や心残りばかり。
―――だが、アルザスの心は、思いのほか晴れていた。
彼らは、束縛の糸を自ら断ち切るため、自分自身でその道を選び取った。
アルザスには出来なかったこと。それを成し遂げようと、彼らは踏み出したのだ。
……彼女は怒っているだろうか。
世間知らずの箱入りを、二人も手放して、と。
でも、それでもアルザスは―――。
「私は、あの子たちを誇りに思うよ……」
お前もそうだろう?
リティシア、と呟き、彼は微笑んだ。
蒼の聖都と謳われる町並みから、白い鳥の群が蒼穹の空に飛び立つ。
アルザスは墓に眠る妻の横で、その純白の羽ばたきを見送った。
■ □ ■ □ ■ □
祭壇に並べた、一体だけの天使像の隣に、道端で摘んだ白い花を置いた。
像の造り手たる少年は、彼自身の手で翼に施した繊細で細かい羽の彫刻を、悼むように撫でゆく。
片翼の乙女―――もう一方の翼を失った彼女の面は、元よりあった悲哀に加え、絶望に歪んでいた。
「悲しいね、ラティカリア・フォンダム」
碧の祈光に揺れる白い輪郭を夜色の瞳に映しながら、ルカイスは彼女に語りかけた。
ラティカリア・フォンダム―――それが、像に眠る彼女の真名。
魔導士を追いやった暗黒聖戦より百数十年前、当時、四聖家の双花姫として知られた双子の姉妹がいた。
妹は赤い花、ラティカリア。
姉は白い花―――レイファーナ。
双姫は四聖家の娘として相応しい高い練祈の力を有していたが、とりわけ白花の姫君は稀有な癒しの力を持っていたことから一族の神子姫として奉じられたのち、〈春〉の称号を与えられた。
そう、レイファーナは……とても大切なあの少女と、同じ。
そして、その彼女と妻わされた、当時の〈柱〉たる“彼”は、ルカイスと同じ。
後に妹を虐殺し、自らも命を絶った姉姫の残滓は血に狂い、多くの民の、娘の生を奪った。聖都で、しかも四聖家の娘が引き起こした惨事……とんでもない醜聞だ。
〈柱〉としての役目を果たさせるため、公師たちは早急にと白花姫の滅却を命じたが、“彼”は、その勅命に逆らって彼女を封じただけに留め、直後、封印の石碑の前で己の胸を突き、死を選んだと記録されている。
〈封印図書館〉に蔵されていた、何度も足を運んだ末にようやく見つけた古文書。
そこに記された娘たちの名は、長きに渡る四聖家の歴史でも、特に秘されたものとして扱われていた。後の時代に編纂された記録文の中で、わざわざ廃れた古代神聖文字でもって残されたほどだ。
“彼”の名に至っては、その片鱗すら何処にも見られない。
「たぶん、これは“彼”の復讐なんだろうね」
彼女を奪った、貴女への。
物言わぬ彫像の女に、ルカイスは呟きかけた。
「彼から彼女を奪った……これは、貴女への罰だ」
―――不思議に思っていた。
何者かが石碑の封印を破ったあの夜。異変を察知し、駆けつけた泉の畔で、赤い花の名を持つこの娘は独り泣いていた。
石碑に纏わりついた白銀の残滓より得た情報から、封印に使用された力は一人分。
だから当初、封印されていたのは彼女だと思った。……だが、違った。
ならば、姉の封印からの永き歳月、この娘はどうしていた?
赤花姫の残滓もまたこの地に留まったことを、”彼”が知らなかったとは考えにくい。これだけ強烈な色を放っているのだから、気付かずにはいられないだろう。
そしてそれは、“彼”以降の〈柱〉たちにも言えること。
断続的にとはいえ、白銀の使徒は幾人もこの聖都に連れて来られていたはずだ。
なぜ彼らは、封印されていない彷徨う魂に何の術も施さず、そのまま放置した?
何の術にも縛られていない魂の、マナの残滓は時とともに弱まり、その存在は薄れていくものだ。
実際に、ルカイスもここに来て何年にもなるが、ラティカナの魂は感知出来ぬほどに希薄になっていたため、全くその存在に気付けなかった。封印の石碑の位置が、街より外れた森の中であったことも、大きく影響しているだろう。
だが、“彼”がレイファーナを封印して一時―――少なくとも数百年の間は、明確にその存在を捕えることも出来ていたはずなのだ。
でも、誰も何もしなかった……何故?
導き出される答えは一つ―――――故意、だ。
「僕は……僕たちは、“彼”が羨ましい」
愛されることも、愛することも、命を賭して貫き通すことが出来た“彼”が。
恋人を奪った女を絶望の涙の海に、浮かばぬ闇に、永遠に沈め落してやりたいと願うほどの憎しみを抱けたことが。
何も持たず、居場所すら与えられて来なかった奏弦士たちにとって、白花姫と彼の物語はとても眩しい。
だから、おそらく皆、叶えてやりたかったのだろう。
同族である彼の、憎悪を。
「僕が貴女を封じたことを、同族のみんなは怒るかもしれないな」
封じによる眠りすら許されず、冷たい石に縋って泣いてきた千年以上の歳月。
存在が薄れ尽きるまで続くはずだった罰も、もう終わった。ルカイスが、この石像への封印を施したことによって。
……本当は、この女の魂をあの場で滅しても良かった。
でも、しなかった。―――何故なら、
「あの娘がさ……泣くんだよ、絶対。貴女を殺すと、さ」
あの瞬間、どんなに危険だったとしても、目の前でラティカナを消せば、マーセルは心に傷を負った。きっと、何を言っても泣き止まなかっただろう。
「たぶん、僕は冷たい人間なんだろうね」
彼女が傷付くくらいなら、同族の意思などどうでもいい。
他の女の魂がどうなろうが、興味はない。
「でも、きっとこうすれば、マーセルも喜ぶだろうから」
……正直、この先ラティカナがどうなるのかは分からない。
彼女の姉は、もういない。
永い時をかけ、その罪の穢れを払えたなら、この像の中に眠る娘の魂の残滓も、愛おしい者がいる同じ場所に旅立って逝けるのだろうか。
「何で、こんな展開になっちゃうんだろうなー」
はぁ、と盛大に溜息を吐いた黒髪の青年の様子に、紺の髪を持つ若い女が、その紫の双眸を細める。
「ご不満なら、あなたは別に来なくてもいいのよ? レーナス」
「そうしたいのは、やまやまだけれどね。 ルシア、君がどうしても彼と行くって言うんだから、仕方ないじゃないか。というか、未来の旦那さま兼、命の恩人の俺に、その言い草は酷いんじゃないか?」
そう言われて昨夜の事を思い出し、ルシアは言葉を詰まらせ唸った。
〈華鏡の間〉の惨事が収まった後に漸く目を覚ましたルシアは、自分がレーナスに抱え込まれたまま倒れていたことを知った。
どうやら、飛ばされて壁にぶつかりそうになったところを、彼に助けられたようなのだが……。
「でも、だからって、なんで私に付いて来なきゃいけないのよ!」
それとこれとは、全く関係がない。
大体、もう彼にとってルシアとの婚約は大した価値を持たないものになってしまったはずだ。
いくら彼女自身が優秀な練祈術士であるとはいえ、こんな大問題を起こしたばかりの聖家に繋がる家の娘を娶ったところで、政略的にはマイナスの要因しか得られない。
いまなら夏の神子姫を輩するテルマチア家か、冬のサルトラム家の娘との縁談を望むのが最良だろう。レーナス自身の能力からみても、それは十分可能なはずだ。
いや……もしかすると、彼のこの選択は万が一、ルシアたちがマーセルを取り戻せた時のことを考えてのことかもしれない。その手柄で持ってして、もっと大きな出世を望む算段なのだろうか?
……何てことだろう、この男はとんでもない鬼畜だ!
そう並べ立てて噛み付いたルシアを、婚約者という名の公認ストーカーは、哀れな生き物を見るような目で見下ろしてきた。その様子を目の当たりにして、更に腹を立て始めた彼女に、彼は呆れを含んだ声で言う。
「だから、何度も言ってるじゃないか。俺は、君が好きだから」
「ああもう、そればっかり! しつこいわね! ………いいわよ、勝手にしなさいよ」
はあ、と今度は、ルシアが大きな溜息をつく。
いいだろう。そっちがそういう態度を貫くなら、こちらもこちらでお相手するだけだ。この男の魔の手から、絶対にマーセルを守り切ってみせる!
拳を握りしめ、ルシアは固く心に誓う。
その傍らで、自分の言葉を全く信じていないらしきルシアの様子に、レーナスは自分たちの遣り取りを黙って見守っていたルカイスに向けてニヤリと笑い、大きく肩を竦めて見せた。
大丈夫なのか、この二人……。
無表情ながらも、ルカイスは内心、この先の道行きを不安に感じ始めた。
―――マーセルを追いかける。
そう決めたルカイスに、アルザスはこの二人を連れて行くようにと言った。
ルカイスと同様にマーセルの身を案じるルシアと、彼女に着いて来るというレーナス。
一方はゴートガード家の血筋、しかも皇位神官である彼らが共にいれば、魔導士に攫われた神子姫の追跡という名目で旅立つルカイスに、他の聖家も表立って手を出すことは出来ない。
もっとも、昨夜から続くこの混乱に乗じてでなければ、それも叶わなくなる。
長く留まり事態が沈静化すれば、〈柱〉を得るにゴートガードは最早相応しくないと、ルカイスを欲する者たちが動き出すことは必至だ。そうなってしまうと、出発どころか身動きすら取れなくなってしまうだろう。
「あの娘は、このエルヴェルクには帰らせない……いや、帰ってきてはいけない。そんなことになれば、あの娘は生人形として生涯を喰い潰されてしまう。……そんなことを、私は赦さない。だから、何としてでも、あの娘に掛った追手を食い止める」
昨晩、〈華鏡の間〉から連れ出されてすぐに、大神殿の一室に監禁されていたルカイスの元を訪れた養父は、彼に懇願した。
「お前に託そうとすること自体、人道に外れているということは十分に分かっている。娘をこの地に帰すことが出来ぬ以上、必然的に、お前が安住の場を失うことになるのだということも承知している。……だが、どうか頼む。娘を、マーセルを助けてやってくれ。あの子と、共に生きてやって欲しい」
血を滲ませるように吐き出されていった、父親の願い。
「……あまり時がない。夜が明ければ、私自身も大きな動きは取れなくなるだろう。お前が聖都を脱するのに手を貸せるのは、今だけだ」
もちろん、受けずともこれからの安全と生活は保障する。
その心配だけは、しなくてもいい。
「だから、この頼みを受けるかどうか―――今、この場で決めなさい」
目の前に跪いてそう告げた男。
頭を垂れて乞い願うこの人は、昔、ルカイスに誓いをくれた人。
彼の後頭部を見つめていたルカイスは、掛けたままだった椅子から立ち上がり、
「あなたは、僕に約束してくれましたよね?」
視線を上げた養父に向けて、その手を差し出し、
「僕に……〈居場所〉をくれる、と」
―――約束を、受け取った。
旅装束の胸元に光る石を、そっと持ち上げる。
皮の首飾りに編み込まれた、以前貰ったものよりも大きいその乳白色の石は、ルカイスの手に、彼女が最後に残して行った祈光石。
夕べ、この春一番に生み出された華鏡の結晶だった。
『幸せに――――』
ああ、いいさ。
君がそう願うのなら、幸せになってやる。
―――そのために、君を追いかける。
「さあ、そろそろ行こうか。……あーあ、今日は、絶好の旅立ち日和になりそうだな」
開いた扉に気怠げにもたれながら、レーナスは夜を払い始めた薄青の空を見上げて言う。彼の前を通って外に出たルシアも、明けの天に惹かれたように顔を上げた。
もう一度、白花の石を強く握り締め、二人に続いて、ルカイスも神殿の古い扉の方へと向かう。
扉の前まで来たとき、彼は先人たちが居並ぶ岩壁の祭壇を振り返り、深く礼を贈った。
これまでここでの時間を貰ったことへの感謝の意と、決意の念を、彼らに伝えるために。
(――――行って来ます)
幸せに、なるために。
白い光の世界へと旅立つ少年の後姿を、像に宿る先人たちの魂は、静かに見送った。




