08. 檻の嘆き
部屋を辞すマーセルを見送った手を、ルシアは力無く下げた。
ひどく疲れた吐息が、唇から洩れる。
「どうだった? 華鏡姫の様子は」
「―――別に。いつもと変わらないわ」
突然、背後から掛けられた声に驚くことも無く、ルシアは冷淡に答えた。その表情に、先ほどまでの温かさは微塵もない。
そんな態度に慣れているのか、彼女と同じ青い皇位神官の長衣を纏った青年は、苦笑して肩を竦めただけだった。その態度に、ルシアは貌を歪ませる。
黒髪に、凍った空色の瞳。この青年の美しい容貌と華やかな微笑みに憧れる女神官は多いらしいが、ルシアにとっては自らを縛る、忌むべき鎖の象徴に過ぎない。
「ここに来るのは止めて頂きたいと申し上げたはずだわ、レーナス」
「そうだったかな? でも、そうであっても、来ないわけにいかない。貴女と、当家の神子姫を見守るのは私の役目だからね」
「監視、の間違いじゃないかしら?」
「まあ、神子姫に関しては、ね。だが、貴女を見守っていることに対して、そんな思い違いをされると哀しいよ。愛しい婚約者様?」
「……その言葉を口にしないで」
「おや、冷たいな。従姉妹姫にはあんなに優しいのに」
嘲笑うかのように伸ばされたレーナスの手を、ルシアは振り払うことが出来ない。自分を後ろから抱き寄せようとするこの男に、抗うことは許されない。
そう諦めている自分にすら、吐き気を覚える。
別段、珍しい話ではない。
特に、このエルヴェルクのような、聖家と呼ばれるいくつかの一族が張り合いながら、歴史を積み上げてきた場所では。その血を濃く遺すために、本人たちの意にそぐわぬ婚姻を、一族から押し付けられることなど。
聖家の血筋とはいえ、強い錬祈力を持つ人間は、実際そう多くない。 皆、必死なのだ。他の流れよりも、高みにあろうとすることに執着するが故に。これはもう、悠久とも云える時の中で掛けられた、呪いのようなもの。
そんな世界で、皇位神官の位を与えられたルシアが、両親や親族の手元から逃れることなど在り得ない。
神子姫が聖家から選ばれるのは、代々、その血統が他とは比べものにならぬほど、強い錬祈の力を宿してきたため。それが、「聖母神に愛された地」と、エルヴェルクが謳われる由縁であり、勢力を誇って来た理由である。
「でも、やはりおかしいな。婚姻とまではいかなくても、まだ彼と神子姫を婚約すらさせていないんて。これが他の三家の長だったなら、もうとっくにさせてるだろうに。一体、何を考えてるんだろうね? アルザス様は」
「……あの子は……あの子は、貴方たちの道具ではないわ」
固く握った両の手を震わせながら、ルシアは声を低く絞り出した。
彼女の様子に、レーナスは一瞬だけ目を見開く。だが、すぐにその双眸で優しげな笑みを描き、どこか面白がるような口調で口にした。
「貴方たち? 私たち、の間違いだろう?」
―――何も返せない。
レーナスの言うとおりだ。
結局、ルシア自身も、彼女を利用する立場の人間に過ぎない。彼女を守ってやりたいと切に願っているこの想いが、真実であろうとなかろうと。
周りを囲み、あの子を逃さぬよう捕らえる檻。
その一部にしか過ぎない自分に、レーナスを責める資格はない。
「君は昔から優しいね、ルシア」
口惜しさに唇を噛み締める。そんなルシアの様子を眺めながら、レーナスは満足そうに微笑んだ。
彼女を抱く両腕に優しく力を込め、耳元にそっと囁きを落とす。
「だから僕は、君が大好きなんだよ」