僅かな手掛かり
フラウレティアは床に腰を落として震えたまま、レンベーレの言葉を頭の中で反芻した。
『戻る為にはそれしかないの』
”戻る“
どう表現してよいか分からない違和感が、フラウレティアの中に残る。
生きてここから戻る、ということだろうか。
人質にされ、傷付けられたレンベーレが、死にたくないと生命を繋ごうとしているのか。
確かにレンベーレにとって、竜人の知識はとてつもなく魅力的なものだろう。
しかし、ザムリ相手に取り引きをするという想像が、フラウレティアの知っているレンベーレにそぐわないのだ。
「これ、解いて」
レンベーレが素っ気なくホルドーに背中を向ける。
ホルドーは肩をすくめた。
「魔力を導くだけなら手が自由にならなくてもできるでしょ」
「自由な方がやりやすいわ、分かるでしょ。発動体も取り上げられてるんだから抵抗出来やしないわよ」
「よく言うねぇ。拘束される時にあれだけ暴れておいて」
ホルドーは苦笑いして首を振ったが、ザムリが革張りの椅子に深く腰掛けて何も言わないことを確認し、ゆっくりとレンベーレの手の甲を撫でて縄を解いた。
気色悪さを辛うじて堪えたレンベーレは、汚れた手を払うように腕を動かして、痛みに強く顔をしかめた。
「レンベーレさん!」
心配して咄嗟に立ち上がろうとしたフラウレティアに、レンベーレは傷付いていない方の右腕を伸ばし、そのまま自分も膝を折った。
フラウレティアの身体は、満足に立てない程に震えていたのだ。
レンベーレは痛む左肩を庇いながら、フラウレティアの腕を取る。
「私のことを心配してる場合じゃないわよ、フラウレティア。あの竜人に従ってもらうわ」
「どうして……!」
「向こうの方が明らかに実力は上。私達には、従うより他に術はないの」
レンベーレは握る手に力を込める。
「いい? 私とやったように魔力を繋げるのよ」
フラウレティアは、握られた腕に視線を落とした。
レンベーレの握る手から、彼女の魔力が流れ込む。
ゆっくりと流れ込む魔力は、”慣らし“を行った時と変わらない。
あの時と同様に、フラウレティアを気遣う気持ちが表れていた。
顔を上げる。
視線がぶつかる、真剣な濃い褐色の瞳。
……違う。
やはり、取り引きなんてするつもりはないのだ。
フラウレティアはレンベーレの瞳を見つめたまま、そう思った。
今も彼女は、フラウレティアと共にアッシュを取り戻すつもりでいると確信出来る。
魔力が繋がった状態で嘘はつけない。
『戻る』
そうだ、アッシュがここに戻る為に、レンベーレは何かを伝えようとしているのだ。
フラウレティアは少しずつ落ち着きを取り戻す。
同時に、レンベーレと繋がった魔力が、フラウレティアの魔力を引く僅かな感触に気付く。
強く全体を引くのではない。
隙間にそっと手を伸ばすように、奥底にある魔力核から、ほんの僅か、気付かれないように引き上げるような……。
「落ち着いて。大丈夫。あなたなら、出来るわ」
レンベーレがそう言って、手を離した。
乱れていたフラウレティアの魔力は収まり、制御力を取り戻している。
フラウレティアは目だけで頷いて見せた。
レンベーレは、何かしらヒントを与えてくれたに違いないのだ。
アッシュを取り戻す為の、何かを。
フラウレティアはゆっくりと振り返った。
広間の中央、革張りの椅子にゆったりと腰掛けているのは、間違いなくアッシュだ。
「行って」
レンベーレが、背中を押した。
身体の震えは多少収まったが、完全には止められない。
明らかな格上の存在感と、アッシュの姿であるのに向けられる冷たい気配が、本能的な恐怖として身体を震わせるのだ。
それでも、もう、触れることを躊躇わない。
相手が何者であろうと、アッシュを取り戻す。
大好きなアッシュ。
もう一度、アッシュに会いたい……!
進み出たフラウレティアの前で、アッシュが立ち上がる。
無表情に突き出された手の平が、フラウレティアの頭に翳された。
途端に流れ込む強い魔力。
異なる魔力を容赦なく流し込まれて、身体中を掻き回される。
瞬間的に頭痛と吐き気が起こり、崩れ落ちそうになる膝に力を込める。
ハドシュと”慣らし“を行った時と同じ。
こちらに配慮するつもりのない、強引な行為だ。
あの時は、耐えられなかった。
しかし今は、自分の魔力がどういうものか、あの時よりもはっきりと分かっている。
フラウレティアは不快感を必死に堪えながら、己の魔力を変化させる。
『私とやったように魔力を繋げるのよ』
レンベーレはそう言った。
レンベーレと”慣らし“を行った時、フラウレティアは彼女の魔力質に意図的に合わせた。
図らずも”共鳴“となった行為。
それを、今やれというのだ。
魔力の質だけならば、竜人に近いフラウレティアだ。
微調整だけで、揃えることは出来る。
しかし、あまりにも魔力量が違いすぎて、意識を持っていかれる。
ゴウゴウと頭の中で濁流のような音がして苦しく、何も考えられなくなりそうだ。
フラウレティアは必死に歯を食いしばった。
『決して共鳴から君の心を見失ってはいけな
い……忘れては、ダメだよ』
不意に師匠の声が蘇り、フラウレティアの顎の力が抜けた。
同時に、ぐっと止めていた息を吸い込む。
狭まっていた視界が途端に広がった。
赤黒い渦のような魔力が、辺りを覆い尽くしていた。
目に見えている広間の景色なのか、それとも頭の中に直接見せられている景色なのか分からない。
しかし、ここに溶け込んで意識を手放しそうになっていたことは分かる。
強い圧迫感と共に、身体が押し出されるような感覚と、強く引かれるような感覚。
見える色は全く違うが、旧領主館の魔穴に入った時と良く似ている。
強い魔力圧の中というのは、どこでも似たものなのかもしれない。
フラウレティアの胸が、ズキンと痛む。
旧領主館に入る直前、アッシュの気持ちを教えてもらった。
自分が本当にアッシュにとって特別な存在なのだと分かって、嬉しくて。
嬉しくて、嬉しくて。
あの日からまだ一月と少ししか経っていないのに、ずっとずっと遠く感じる。
フラウレティアは右手を握り締めた。
あの時、アッシュが握ってくれていると思ったら、少しも怖くなかった。
今は、一人だ。
怖い。
怖いよ、アッシュ。
アッシュ、一緒にいて。
この手を離さないで。
アッシュ。
お願い、アッシュ……。
―――。
握り締めた右手に、ほんの僅か、何かが触れた。




