第二章 赤の国 その五
藍色の夜空の中を駆ける、幾筋もの条光。彼らは緑に輝きながら、天に向かって手を伸ばす赤々とした炎を抑えつける。
煌々と周囲を照らした街は、その光の色を変え、また、光を柔らかなものへと変えていく。
光が照らす人影は、そのほとんどが樹木の一部へと成り果てて、歩みを止めぬのはたったの一つ。
ずるりずるりと足を動かし、ぶらりぶらりと手を揺らす。さらりさらりと流れる赤髪が、虚ろな瞳に手を振っている。
神と呼ばれた少女は、茫然自失として歩いていた。もはや、その身に何も纏っていないことすら気にかけてはいない。能力を使い復活を果たした彼女に装備を差し出すものはもういないのだ。
「帰らなきゃ……、帰らなきゃ……」
壊れた機械のように、一定の間隔で呟いていた。この呟きこそ、彼女の思考に残った最後のひとかけら。自決すれば灯火の能力によって容易に果たされるのだが、彼女はそうしない。そうすることに思い至らない。
丹精に練り上げられた血の泥は、彼女の脳内をそれほどに圧迫していた。
帰って、報告をするのだ。いつも通りに。いつもと同じにすれば、ややもすると……。
既に細い木の根は彼女の歩く街道にまで手を伸ばしていた。少女は時折足を取られつつ、尚も懸命に歩いていた。
◇◆◇
男は馬車を走らせていた。
彼は、少女の部隊の生き残りである。人一倍気の弱かった彼は、空をゆく正体不明の物体に立ち向かうことをしなかった。
最初こそ敵への恐怖で逃げていたのだが、今の彼を突き動かすのは味方への恐怖心だ。
彼が敵に背を向けた時、後ろからはさっきまで話していた仲間の悲鳴が聞こえた。街を出て振り返った時、ごうごうと燃え上がる街を見た。
自分だけが逃げてしまった。その罪の意識が手綱を握る手にこもり、おかげで馬は疲労困憊といった様子で、速度もかなり落ちている。
だが、彼らの連日の苦しみも無駄ではなかった。数日ののち、男は首都へと帰り着いたのである。
「どうした、何があった!」
そう彼に問わないものは、ただの一人とていなかった。常勝無敗の女神の軍隊、その敗残兵であるのだから。
程なく、軍の上層部は事実を知る。そして、少女の生存を諦めた。
彼女にとって、移動は一瞬。故に、連絡はこまめに行われていた。彼の言うような異常事態であるのに連絡がないということは、つまりそういうことである。もちろん、彼の言葉を疑う者もいたのだが、それはそれで少女が容易に勝ち得ない強敵にヤープがなったということだ。
誰もが頭を抱えた。彼女の圧倒的武力があってこそ、彼女がいるだけで兵の数が何倍にもなるに等しいからこそ、戦線を拡大できた。
彼らに出せた結論は、民衆にこれを知らせないということだけ。
「「ザババ様をご無事なのかぁ!」」
だというのに、いつもの大広場では群衆が大声を上げていた。集会用の場所であるそこに常に要人が詰めているはずはないのだが、彼らの集まれる場所は他になかったのである。
その声は十二分に大きく、結局は上層部の耳に入る。彼らは舌打ちまじりに、新たな問題に頭を痛めた。
いったい誰が、とは誰も言わない。言いふらす人物など、あの兵士以外にいないから。事実、這々の体で帰った彼は、その日に酒場で全てを話していた。
最後には、戦死として少女の死を発表することが決定された。化け物の襲来でなく、戦死として。
これが、終わりの始まりであった。
誰もが思う。化け物でなく人であれば、自分達でも敵うはず。
故に、誰もが怒りを抱く。相手が化け物でなく、人であれば。
「「ヤープの不届き者を許すなぁ!」」
少女ではない男がバルコニーに立った時の静けさは、嘘のように消え去った。
「「裁きの鉄槌を、我らの手で!」」
発表した者ですら、予想外の熱気にたじろいだ。
熱気が広場を満たし、渦を巻くように膨れ上がる。地団駄が鳴り響き、鬨の声が上がり、目はぎらぎらと輝いている。
そして彼らは、弾けた。
一人の男が、いきなり広場から駆け出したのが始まりであった。彼は家に包丁を取りに行ったのだ。それにつられるように、また一人、また一人と、蜘蛛の子を散らすように人が減る。
——誰一人として、頭上に育っていた煌めきに気づかずに。
「な、何だあれは……!」
バルコニーの上で腰を抜かした男だけが、それを見上げていた。
ガラスの中に火を閉じ込めたようなそれは遥か上空に浮かび、周囲に赤い煌めきを振りまいている。大衆の声が大きくなるにつれ、それは大きくなっていった。
太陽を隠すほどに大きくなって、やがて、それは破裂した。
各々が走り出そうとし、混迷の中にあった広場に硬質な音が鳴り渡った。波紋が広がるように静寂が広がり、全ての視線が空に吸われる。
映ったのは、降り注ぐガラスの雨。一つ一つが、小さな火を身に宿していた。
腕を掲げて顔を守ろうとしたり、しゃがんで頭を抱えたり。様々な行動が起こるが、その全てに意味がない。
触れた破片はことごとく割れ、その内にあった火が触れたものを焼き尽くすのだ。
広場は、阿鼻叫喚に包まれた。
餓死した少女がバルコニーに再生したのは、ちょうどこの時。
「なんだよ、これ……!」
彼女は驚きに目を見開いた。
視線の先には、腰を抜かした一人の男、だったもの。
その男は、人型のガラス細工と化していた。心臓のあたりで燃える炎が、赤い輝きで少女の頰を照らす。
視線をついとそらしてみれば、眼下には比べものにもならぬ数の人形があった。
「ウソだ……、ウソだろ……」
飛散した火は燃え広がり、焼き尽くした先からそれをガラスと変えていたのだ。何処までも透明で曇りなく、触れれば壊れそうなガラスに。
砂っぽい地面すら火に包まれ、きらきらとしたものへと挿げ替えられていく。
彼女の足は頼りなく震え、間もなく膝をつき、果てにはへたり込んでしまう。
「どうしろっていうんだ……」
俯いた少女は独白する。
彼女の能力は灯火。火を消すなんてできないし、消火に動いたところで、たった一人の少女が何とかできるものではない。何せ、広場は火の海と化しているのだから。
一度死んで冷静さを取り戻した頭は、欲しくもない結論で彼女を追い詰めていた。
「俺が何したって言うんだ……」
火から逃げようとして、逃げられず、死んでいく人々。まるで、彼女の戦場のようであった。死んでゆくのが、トレスタの民衆であることだけが、唯一の相違点。
地面についた両手で、地面をかきむしるように拳を作る。彼女も、気づいていたのだ。
「だったら……」
続く言葉は、至極当然な疑問であった。
「なんで、俺じゃないんだ……!」
街を飲み込んでゆく赤い波は、彼女の周りでは円を描くようにして止まっていたのだ。
まるで、この惨状を目に焼き付けろと言われているようで。まるで、まだ記憶に鮮明なアレを、思い出せと言われているようで。
少女の慟哭が、虚しく反響した。
首都であったはずのそこからは、人の気配が着実に消えていく。生活感のあったレンガ造りの街並みは、神秘的なものへと塗り替えられていく。悲鳴は伝播し、煌びやかな地獄が作られていく。
彼女が平静を取り戻した時、その悲鳴す、街には残っていなかった。
ガラスに包まれぬものは既にない。火もほとんど消え去った。
ガラスの家。ガラスの道。そして、ガラスの人。その美しさは、水晶に形容するのが適当だろうか。
人形の中で揺らめく火炎の輝きは、人形の中で反射を繰り返し、飛び散り、別の透明を通ってどこまでも届く。街は、燦然とした赤に染められた。
さながら、第二の太陽のように、光を放っていた。
未だ燃えず、火に囲まれるばかりの少女は空っぽだった。自分の怒りを発散させてくれて、共有してくれた場所が消えてしまったのだ。
代わりに心の内に現れたのは、一つの種火。燻りの中から生まれた火は、彼女が街を見渡すたびに大きくなる。その身に灯る炎で涙すら乾かして、彼女は立った。
顔をあげたその先には、いつのまにやら広場に現れた黒衣の人影。
「誰だ、お前?」
「さぁ、名前なんてないもの」
少女は青筋を立てて詰問する。
「おちょくってんじゃねぇぞ。俺は今、虫の居所が悪い」
片手に火を灯す彼女であったが、対する黒の三角帽はぴくりとも揺れ動かない。
「そうね……」
「なんだ、言う気になったのか?」
ため息交じりに、黒衣は言葉を続ける。
「肉を、売ってくれないかしら?」
風に、緑の長髪がふわりと揺れた。




