フローラ《3》
一番見つかってはいけない人に見つかってしまった。
このまま逃げることも考えたが、ここで逃げ出せば事態はもっと悪化するだろう。そもそもこの作戦に、二回目はない。
お母様は前より痩せている。今なら急いで栞を取り出し走れば簡単に撒けるだろう。
それしかない、と走る為に腕を構える。
「待って……っ」
だがそんな私を、お母様が呼び止めた。
クラリーチェのお兄様が言った。クラリーチェに良い想いを持っていないと。
どう彼女を罵倒したのか、見定めてやろうと私は構えた腕を下ろした。
だが、お母様が発した言葉は予想外のモノだった。
「ごめん、なさい。貴女を罵倒して、追い出して」
声が震えていた。
よく見ればお母様の顔は青白く、よく眠れていないことを物語っていた。
手には枯れた花が握られている。
「ずっと、ずっと貴女が、フローラのお葬式に来てくれた日から、考えていたの……」
私は、じっとお母様の話に耳を傾けた。
「どうして、フローラはこの子と友達だったんだろうって」
力尽きるように、お母様がその場にペタンと座った。
「それで、思い出したの……お誕生日の時、フローラとっても嬉しそうに笑ってたの」
私の足が、縫い付けられたように動かない。
「ごめんなさい、ごめん、なさい……っ。もっと早く、気づくべきだったのに。貴女がフローラの大切なお友達だってことに。……フローラが大切なお友達に選ぶくらい、貴女はとても良い人だってことに」
涙と一緒に、お母様の最後の言葉が零れ落ちた。
「フローラが死んだのは貴女のせいだと、八つ当たりしてごめんなさい。怖い思いをさせて、ごめんなさい。――フローラとお友達になってくれて、ありがとう」
こわばりが解けたように、足がまたゆっくりと動き始める。
私は一歩、また一歩お母様に近づいた。その間ずっと、クラリーチェならなんて言うか考えていた。
だけどやっぱり、鮮明には分からない。だから今の私の気持ちを言うことにした。
「……もう、怒っていません」
お母様を、そっと抱きしめる。
ああ、私はどうして、この瞬間まで忘れていられたのだろう。
過保護は、愛がなければ成り立たないということに。
「ごめんなさい」
生まれてからずっと、きっと私は貴女を苦しめてきた。
「――ありがとう」
それでも私を慈しんでくれた貴女が、よく眠れますように。
祈れば、私の頬にも涙が伝った。
それから、肩に乗るお母様の頭の重みが増す。ゆっくり体から離せば、健やかそうに眠っていた。
お母様を柱にもたれかからせる。
後ろ髪を引かれながらも、私はまた歩き出した。
涙が次々に溢れてとまらなかった。
◇◇◇
「おかえり――って目が真っ赤! どうしたの?」
心配そうに問いかけてくるエリゼオに「なんでもない」と返し、私は栞を掲げる。
「えっへへ、ほら、ちゃんと取ってきましたよ!」
「……うん、良かった」
エリゼオは私の目元に手を当ててから、それ以降はなにも追求せず「帰ろっか」と言った。
帰ってる途中、エリゼオが言った。
「少しでもクラリーチェの力が弱まるように、真夜中よりは昼間の方が良いだろう」と。
だから私たちは、次の日の太陽が昇っている時間に、クラリーチェの家に集まった。
クラリーチェの部屋の奥にある、呪いに関する本が置いてある所は、カーテンを開ければ快い日が入ってくる。
私は三枚の栞を持ち、そのままそっと手を組んだ。
「これが本当に、最後の機会」
私以上に深刻そうな顔をしたエリゼオが、私をひたと見つめた。
「やろう、フローラ」
私はニッと笑ってみせる。
「ええ!」
祈り始める。
瞬間、光の鱗粉がブワリと舞った。同時に、なにかが抜けていくのが分かる。
私の体に出来た"殻"を内側から破ろうとしている感覚。
私は祈り続ける。沢山の願いを。
星型の甘い砂糖菓子のような彼らの幸せを、祈り続ける。
どうか、どうか。貴方たちがこれからの人生で出会う人に、貴方たちを傷つける人が一人だっていませんように。
どんなに辛いことがあっても、健やかな眠りが貴方たちに訪れますように。
星の瞬きを数えるように、沢山の愛する人に出会えますように。
自分の不幸を、一瞬だって願いませんように。
「はあっ、はあ……っ」
どれくらい時間が経ったのか。
カーテンの隙間から黄金色の光が零れている。
私は汗をポタリポタリと垂らしていた。
「フローラ……」
エリゼオが私の額にハンカチを当て汗を拭ってくれる。それを心地よく思いながら、私は深呼吸をした。
"殻"にヒビが入っている。あと少しできっと割れる。栞をキツく握りしめ、瞳をギュッと閉じた。
だが、中々呼吸は安定しない。頭が酸素不足でクラクラする。いつもは少しの祈りで終わるから、こんなに長く祈るのは初めてだった。そもそもが、クラリーチェの身体に入っているとはいえ、私に祈りは効かないのだし。
苦しい。苦しくてたまらない。コヒュッ、と不器用な息が漏れた。
「フローラ、深呼吸をして。落ち着いて、ゆっくりで大丈夫だから」
真っ暗な底から救い出すような声が、クラクラする頭の中で芯を持って響いた。
……ゆっくり、ゆっくり呼吸をする。自分の背を撫でるリズムに合わせる。
段々落ち着いていって視界が定まれば、私の組んだ手にエリゼオが右手を重ねていた。
左手は私の背に回されている。
――いつもこうだ。エリゼオは私が、その時一番欲しいモノをくれる。
「……エリゼオ。貴方は自分にはなんの価値もない、って言ってましたけど」
誕生日の時、扉の影で聞いてしまったエリゼオの本音。
涙が、上がった口角をなぞる。
「貴方はいつだって、私の側にいてくれました。私が困った時、手を伸ばし続けてくれました。それがどれだけ嬉しかったか、エリゼオはもっと、知るべきです。……本当に、ありがとう」
エリゼオが不意を突かれたように目を丸くした。
"殻"がもうほんの少しで割れると分かる。このクラリーチェが作り出した、歪な時間の終わりが告げられる。
私は、恐怖に濡れた顔ではなく、花が綻ぶような笑顔をエリゼオに手向ける。
「私、生まれ変わるなら、二人の子供になりたいです。クラリーチェに本を読んでもらって、エリゼオと一緒に星の瞬きを数えるんです。素敵でしょう? ……だから、私は寂しくありません。クラリーチェにもどうか伝えてください」
『――――――』と。
「……っ、ああ。一言一句、間違いなく伝えてみせるから」
「やったぁ……。ありがとう、ございます」
最後の祈り。私は栞を握り直した。
「どうか、エリゼオとクラリーチェに、祈りなんて必要ない程の幸福が、ありますように」
一層強い光が、空間を占拠する。
身体からガクッと力が抜け、エリゼオに抱きとめられた。
そして気づけば、私はクラリーチェの身体を見下ろしていた。クラリーチェの胸は僅かに上下していて、祈りがちゃんと届いたのだと、ホッと息をつく。
魂だけに戻った私は、天上へと吸い込まれていく。
ふと思った。エリゼオとクラリーチェの子供になりたいとは、なんて酷い呪いの言葉なのかと。
……だけど、良いよね。だって生まれて初めての呪いだから。きっと二人なら、許してくれる。
月の面影はなく、星々もその輝きを消した空に、私は昇っていく。
闇に取り込まれた空に、刹那の煌めきが走った。




