32話:胸の高鳴りが収まらなかった
バタフライピーの展示エリアへ行くことを決意したまさにその時。
「キャンデル伯爵令嬢!」
この声はセシリオ!
振り返ると同時にぎゅっと抱きしめられ、ドキッとする。
ふわりと鼻孔をくすぐる柑橘系の爽やかな香り。
「ああ、良かった。見つけられた!」
セシリオは感無量という様子で私を抱きしめ、腕の力を弱めることがない。
一方の私はときめいている場合ではないのに、胸の高鳴りが収まらなかった。
「申し訳ないことをした。てっきり、ホルス第二皇子殿下と僕の後ろを、ディアス男爵令嬢と一緒について来ていると思っていたから……」
そう思わせて、アナをキンギョソウの展示まで誘導していたのだ。
セシリオは何も悪くない。責任を感じる必要はなかった。
すべてはシナリオの強制力のせいに過ぎない。
でもそんなことは話すことができないので、ひたすら謝ることになる。
「すみません。私がぼうっとしていたために。ディアス男爵令嬢とつい、別の展示を見に行ってしまったのです。ごめんなさい。ディアス男爵令嬢は見つかりましたか!?」
するとゆっくり私から体を離したセシリオは、驚きの情報を教えてくれる。
「ディアス男爵令嬢は、バタフライピーの展示のところに、少し遅れてやってきたよ。迷子になっていたのは、キャンデル伯爵令嬢だ」
「え……」
ということは。
アナは私がジャレッドをバタフライピーの展示へ誘導するのを見ていた。見ていた上で、私の「ディアス男爵令嬢、あそこにあるキンギョソウ、珍しくないですか?」という言葉に応じ、キンギョソウの展示エリアへ向かった。だがすぐにスナップドラゴンの花と分かり、バタフライピーの展示へ向かったのでは!?
「それで他のみんなはどういう状況ですか!?」
「ホルス第二皇子殿下は、バタフライピーの展示のところで、お昼まで待つことになっている。お互いを見失った最後の地点がバタフライピーの展示ならば、そこに戻る可能性が高いと思ったので。イートン令息とディアス男爵令嬢は、二人で捜索をしてくれている」
完璧な采配だ。きっとセシリオが冷静に下した判断だろう。
何より、ジャレッドとアナが一緒に行動しているなら、シナリオの流れに沿っている。
思いがけず私が迷子になったが、ヒロインの行動としては間違った方向には進んでいない。そのことに安堵しつつも、まさか私が迷子になるなんて!と情けない気持ちがないわけではない。
私の情けない気持ちなんてどうでもいいこと。
今は皆に迷惑をかけたことをお詫びしないと!
「本当にみんなに申し訳ないことをしました。ごめんなさい!」
「そんな! キャンデル伯爵令嬢だけが、悪いわけではないよね。お互いに気が緩んだだけだ。気に病まないで」
セシリオはなんて寛容なのだろう!
「そう言っていただけると、気持ちが軽くなります。ご迷惑をおかけしているのに。今は……バタフライピーの展示のところまで戻りましょうか」
するとセシリオはふるふると首を振る。
「ここからバタフライピーの展示エリアに戻るより、お昼の待ち合わせ場所に指定したフードコートへ向かった方が近い。もし十一時になってもキャンデル伯爵令嬢を見つけられなかったら、フードコートの入口に集合する約束をしているからね」
つまり私を探しているジャレッドとアナ、そしてバタフライピーの展示エリアで待機しているヴェルナーも、フードコートの入口へ来るということ。そこに向かえば確実に落ち合える。これからセシリオと二人でバタフライピーの展示エリアに向かっても、入れ違えになる可能性もあったのだ。
「なるほど。ではそのフードコートの入口へ向かうのがいいのですね」
「うん、その通り。みんな疲れただろうし、そのまま早めの昼食を摂るのがいいのではと考えたんだ。今の時間なら、まだフードコートはそこまで混んでいないと思うしね。みんながフードコートに殺到するお昼の時間に、展示を見て回れば、少しは空いているかもしれない」
それは名案! さすがセシリオ!
「ではフードコートへ行きましょう……場所が全然分からないのですが」
「大丈夫。僕が頭にインプットしているから」
そこでセシリオは遠慮がちに私に尋ねた。
「フードコートの場所は分かっている。ただそこへ着くまで、人は沢山いると思う。だから……再び迷子にならないように。手を……つないでもいいかな? 君に婚約者がいるのは分かっている。本来、それは婚約者がすべきことだ。でも」「殿下」
セシリオの限りなく澄んだ碧眼を見上げ、私は笑顔になる。
誠実な彼の提案を、無下にする必要はなかった。
「確かに私には婚約者がいます。でもその婚約者は今、私ではない令嬢と一緒に、一応私を探してくれている……。一方の殿下は私を見つけてくださいました。そしてもう一度私が迷子にならないよう、手をつなごうとしている。それは理にかなった行動です。誰も責めることはできないと思います」
そこで私は自分の手を差し出す。
セシリオの頬が緩み、優しい笑顔になる。
「ありがとう、キャンデル伯爵令嬢。では行こう」
私の手をスッととり、握りしめたその強さ。
とても頼もしく感じ、嬉しく思い、そして……。
どうにもならない気持ちが沸き上がった。
でもそれは蓋を閉じ、感じなかったことにした。