怪異にはお札が効くが、ギャルには数珠すら通じない
四時間目の数学。
つまらない授業の最中、俺はなんとなく教室の天井を見上げて――。
(……ウソだろ、おい)
天井の隅、ちょうど蛍光灯の影になる部分。
そこに、赤黒い血を滴らせながら、逆さにへばりついている男がいた。
ぼろぼろの鎧。むき出しの頭皮から垂れ下がる、落ち武者の髪。
何より恐ろしかったのは、その顔だ。漆黒の眼窩が、教室の生徒たちを値踏みするように見下ろしている。
(やばい、目が、いや目が無いけど、こっち見てる……!)
冷や汗が背中を伝う。あまりの恐怖に一人で抱えきれなくなった俺は、たまらず前席の男子の背中をペン先でつついた。
「なぁ、おい、前田……! あそこ、あそこにいるよな? 鎧着たお化け、お前も見えてるよな!?」
「は? 何が?」
前田は迷惑そうに振り返り、俺が指さす天井を一瞬だけ見て、すぐに白けた顔に戻った。
「何もいねーよ。授業集中しろよ」
「嘘だろ!? ほら、あそこだって!」
今度は通路を挟んだ隣の席の女子に、声をひそめて必死に呼びかける。
「なぁ、高橋! あそこ、蛍光灯の横! なんか血ぃ垂らしてる奴がいるんだって! なぁ!?」
高橋は俺の尋常じゃない怯え方に引き気味の視線を向け、そっと机を数センチ遠ざけた。
「……何言ってるの? マジでキモい」
(誰も、見えてない……!?)
周囲からの冷たい視線と、天井からのネットリとした怪異の視線。
板挟みになった俺が絶望の淵に立たされた、その時だった。
「――臨、兵、闘、者……」
斜め後ろから、蚊の鳴くような、しかしハッキリとした呟きが聞こえた。
見れば、クラスメイトの佐藤だった。きっちり第一ボタンまで留めた制服に、知的で細分化されたメタルフレームの眼鏡。どこからどう見てもお堅い学級委員長。
その彼が、教科書の陰で素早く印を結んでいる。
その視線は、眼鏡の奥で鋭く光り、真っ直ぐに天井の落ち武者を射抜いていた。
(佐藤……お前、見えてるのか!?)
二人の視線が交錯する。佐藤は小さく頷いた。
そして、懐から一枚の古びた呪符を取り出した。
その瞬間、天井の落ち武者が二人の「視線」を察知した。
『み……みぃ、ぃ、つぅ、けぇ……たぁなぁぁぁ……!』
鼓膜を泥でなすりつけられるような、不快な声。
落ち武者は天井を引き裂くような爪の音を立てて、猛烈な勢いで佐藤の頭上へと這い寄ってくる。
「皆の者、退れッッ!!」
佐藤がガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。
学級委員長らしからぬ大声に、チョークを持った先生と、俺に引いていたクラスメイト全員の視線が今度は佐藤に集まる。
「おい委員長、授業中だぞ」
「先生!今それどころじゃありません!下がってください!」
佐藤は叫びながら、凄まじい踏み込みで机の上に飛び乗った。
激しい動きで眼鏡が少しズレるのも構わず、信じられない跳躍力で天井へ手を伸ばし、迫り来る落ち武者の額へ、容赦なく呪符を叩きつける!
「急々如律令――ッッ!!は――ッッ!!」
バチィィィン!!
俺には肉を焦がすような臭いと激しい破裂音が響いた。
落ち武者は悲鳴を上げる間もなく、煙となって消え去っていく。
静まり返る教室。
机の上に立ち尽くす佐藤は、人差し指で静かに眼鏡の位置を直した。
「皆の者、もう安全です」
……数秒の沈黙の後、先生の冷たい声が響いた。
「委員長。あとで職員室に来い。……あと一ノ瀬、お前もさっきから前や横にキョロキョロうるさい。お前も職員室だ」
「えぇっ!? 俺も!?」
放課後。
たっぷり油を搾られてぐったりした二人は、夕暮れの渡り廊下を並んで歩いていた。
俺が恐る恐る声をかける。
「なぁ、佐藤。お前、本当に見えて……」
すると佐藤は、俺の手をガシッと力強く握りしめた。
夕日に反射して眼鏡のレンズが真っ白に光る。
「ああ、そうだよ……!一ノ瀬君。僕たち、同志だ!」
「あ、あぁ……同志だな!」
そうして固い握手を交わした。
俺はついに、同じ高校で「霊感がある仲間」を見つけ出した。
「これで俺の無実が証明できる……!」
歓喜した俺は、その日の放課後、佐藤を自宅へと招いた。
俺は、日和に向かって胸を張った。
「日和、佐藤も俺と同じ霊感を持つ!怪異の対策もできる凄い奴だ!ほら、これで俺の頭がおかしいわけじゃないって証明されただろ!?」
日和は値踏みするような沈黙のあと、すぅっと息を吸い込んだ。
手で髪をかき上げ、無言のまま佐藤へと一歩歩み寄り、下から鋭く睨みつけた。
「……まじ? いんの? そーゆーの」
低くドスの利いた、地を這うようなギャル特有の圧。
日和の視線に射抜かれた佐藤は、直立不動の姿勢のまま、涙目で絶叫した。
「は、はいぃっ!!いませんッッ!!霊なんてこの世に一切存在しませんッッ!!」
「ちょ、おまっ!?」
俺の裏返った悲鳴がリビングに響き渡る。
日和は鼻でフッと笑うと、兄をゴミを見るような目で見下げた。
「ほら見なさいよ。あんたの妄想に友達を巻き込むの、マジでやめてくんない? キモさ倍増なんだけど」
ピシャリ、とリビングの扉が冷たく閉まる。
静まり返った部屋。俺は佐藤の胸ぐらに掴みかかって詰め寄った。
「おい佐藤!なんで嘘つくんだよ!」
すると佐藤は、恐怖のあまり青ざめていた顔を一変させ、涙目で俺を激しく睨み返した。
「一ノ瀬君……君の妹、ギャルって聞いてなかったぞッッ!!」
「はぁ!?」
「僕はこの世で一番ギャルが怖いんだ! あんな最凶生物の前でオカルトトークができるわけないだろ!殺す気か!責任取りたまえ!!」
「何が最凶生物だ! お前のせいで俺の怪しさが倍増しただけになっただろうが!」
「無理に決まってるだろ! ギャルにはお札も数珠も効かないんだぞッッ!!」
「怪異には精神的、物理的に殺されかけるんだぞ!?」
「ギャルには社会的に殺されるんだッッ!!」
互いの顔を真っ赤にしながら怒鳴り合う男子高校生二人。
――タカタカタカタカタカ。
そんな二人の足元で、軽快な爪の音が響いていた。
見れば、クッションから起き上がった柴犬のコテツが、俺と佐藤の脚の間を、楽しそうにグルグルと回り続けている。
右足の後ろをすり抜け、左足の前を回り、また戻ってくる。
尻尾をブンブンと力強く振りながら、嬉々として無限の無限軌道を描く愛犬。
「おいコテツ、今それどころじゃ……」
「一ノ瀬君、君の犬、ステップのキレが良すぎないか……?」
日和への恐怖も、怪異への絶望も、すべてがコテツの放つ圧倒的なマイペースさの前に霧散していく。
窓の外では、すっかり日が落ちた夕闇が広がっていた。




